琥珀が紡ぐ明日
第一章 灰色の雨と琥珀の熱
雨は三日前から降り続き、都市の輪郭を曖昧に溶かしていた。空から落ちてくるのは水滴ではなく、燃え尽きた灰を溶いたような粘着質の液体だ。頬に触れると、指先で潰した虫のような不快な生温かさが残る。
レンは石畳を叩くブーツの音だけを頼りに、路地裏の朽ちたアパートへ潜り込んだ。錆びついた鉄扉の隙間から、古書が湿気て腐り落ちる寸前の、甘く乾いた匂いが漏れている。「魂の抜け殻」特有の悪臭だ。
部屋の中央、安楽椅子に沈んだ老人は、まだ温かかった。
外傷はない。ただ、見開かれた瞳孔が、部屋の隅の染みを凝視したまま凍りついている。その瞳には恐怖も安堵もなく、ただ純粋な「空白」だけが広がっていた。レンズの奥のフィルムだけが抜き取られたカメラのように。
レンは革手袋を外し、震えを噛み殺して老人の額に指を這わせた。
皮膚が触れ合った瞬間、視界が弾け飛ぶ。
――泥。
粘り気のある黒い奔流が、レンの脳髄へ逆流してきた。
視覚、聴覚、嗅覚、すべての感覚受容器官が、老人の「虚無」によってハッキングされる。
『 』
言葉にならない。昨日の夕飯の味、愛した妻の名前、自分の指の数さえもが、黒いインクで塗り潰されていく。
老人の脳内は、穴の空いたバケツだった。注ぎ込まれた人生がすべて漏れ出し、空っぽの底が乾いた音を立てている。
「ぐ、ぅ……ッ!」
レンの奥歯が鳴る。老人の虚無が、レン自身の記憶領域まで侵食し始めた。
七歳の誕生日に食べたケーキの甘さが、泥の味に変わる。母のハミングが、ノイズにかき消される。
《レン、逃げて》
最期に聞いた父の叫び声までもが、遠ざかっていく。
自分が誰なのか、なぜここにいるのか。輪郭が崩れ、黒い泥の中に溶けていく浮遊感。
その時、胸元で硬質な何かが爆ぜた。
肌に焼きつくような熱。ペンダントの中に封じられた二つの琥珀が、心臓の鼓動を無視して激しく脈動している。
カチリ、と硬い音が脳裏で響く。
熱が痛覚を刺激し、レンの意識を現実に引き戻した。
泥の海に黄金色の楔が打ち込まれる。母の匂い、父の掌の感触、それらが琥珀を起点に再構成され、レンという自我を辛うじて繋ぎ止める。
レンは荒い呼吸と共に手を離し、埃っぽい床に膝をついた。
額から滴る脂汗が、黒い染みを作る。
「……全部、持って行かれたか」
老人の記憶には、死に際の後悔(未練)さえ残っていなかった。本来、魂を現世に縛り付けるはずの執着の棘が、根こそぎ引き抜かれている。
レンは熱を帯びたペンダントを強く握りしめた。掌の中で、二つの歪な石が擦れ合う感触だけが、彼が人間であることの証明だった。
巷では「記憶喰らい」と呼ばれる化け物の仕業だと噂されている。だが、レンは知っていた。あれはただの掃除屋(端末)に過ぎない。
もっと高く、冷たい場所から、この世界の色彩を間引いている「意志」がある。
第二章 欠落した色彩
北へ向かう旅路は、色彩を剥ぎ取られたフィルムの中を歩くようだった。
街を出て三日目。レンは廃墟と化した街道で足を止めた。
路肩には、逃げ惑うこともなく立ち尽くしたまま絶命した人々の群れがあった。彼らは襲われたのではない。ただ、生きるために必要な「呼吸をする」「水を飲む」という根源的な命令系統(記憶)を奪われ、電池切れの人形のように機能を停止したのだ。
風が吹くたび、彼らの服が虚しくはためく。
レンは乾いた唇を舐めた。喉が渇いているはずだが、水筒に手を伸ばす気力が湧かない。
能力を使うたびに、レンの中からも何かが削り取られていた。「喉の渇きを癒やす快感」という記憶が摩耗し、水を飲む行為が単なる燃料補給の作業に成り下がっている。
不意に、瓦礫の影が揺らめいた。
影の中から、不定形の黒い獣が這い出してくる。目も口もない、のっぺりとした闇の塊。「記憶喰らい」だ。
奴らは「感情」の匂いを嗅ぎつける。レンが抱く恐怖や焦燥が、奴らにとっての極上の餌なのだ。
獣がバネのように跳躍した。
レンは反射的に身を翻し、懐のナイフを抜く――はずだった。
だが、手が動かない。
(ナイフを……どう使うんだった?)
戦闘技術の記憶(メモリ)にノイズが走る。数日前の村での戦闘で、酷使した脳がまだ修復されていない。
獣の爪が肩を掠め、鮮血が舞う。痛みよりも先に、冷たい指で脳を掻き回されるような悪寒が走った。
記憶が漏れる。今、肩の痛みと共に、「痛みを知った時に母が撫でてくれた手」の感触が、獣に啜られた。
「返せ……ッ!」
レンは叫び、論理よりも先に琥珀を握りしめた。
石に込められた「未練」――両親が死に際に残した、世界への強烈な執着――を強制的に引き出し、自身の神経に流し込む。
黄金色の火花が散り、レンの瞳が獣のような琥珀色に染まる。
思考する前に体が動いた。ナイフを逆手に持ち、獣の核を目掛けて突き下ろす。
断末魔もなく、獣は黒い霧となって散産した。
レンはその場に崩れ落ちた。肩の傷が焼けるように熱い。
だが、もっと恐ろしいのは内側の寒さだった。
母の手の感触が、もう思い出せない。
「あ……あぁ……」
レンは琥珀を額に押し当て、嗚咽を漏らした。
この石が尽きれば、僕は僕でなくなる。両親の死という悲劇さえも忘却し、ただの肉塊として北の風に晒されることになる。
それでも、立ち上がらなくてはならない。
彼を突き動かすのは、正義感ではない。奪われた母の温もりを取り戻したいという、幼子のような、切実な渇望だけだった。
レンは震える足に力を込め、空が不自然に明るい北の方角、「世界の頂」を見据えた。
第三章 管理者の庭
たどり着いた北の果て、創造主の神殿は、凍てつくような静寂に包まれていた。
それは建物というより、巨大な回路だった。空中に幾何学模様を描いて浮遊する無数の光の結晶。その一つ一つに、誰かの笑顔、誰かの涙、誰かの人生が凍結保存されている。
最奥の間。
光の奔流の中心に、「それ」はいた。
人の形を模しているが、その肌は水銀のように滑らかで、顔には目も鼻も口もない。ただ、世界を観測するための純粋な機能だけが存在していた。
『静寂を乱すな』
声は空気の振動ではなく、脳の視覚野に直接文字として焼き付けられた。
『均衡(バランス)が崩れている。個というノイズが、全体の調和を阻害している』
創造主が手をかざすと、周囲の結晶が共鳴音を立てた。
レンの目の前で、一つの結晶が砕かれる。中から青白い光――「希望」の記憶――が溢れ出し、創造主の指先で吸収され、無色のエネルギーへと還元された。
「……それが、お前の正体か」
レンは琥珀の熱で震えを抑えながら、一歩踏み出した。
「希望も、愛も、未来への期待も。すべてをエネルギー効率の悪い『ノイズ』として削除し、世界をただの静止画にしようとしている」
『肯定する。感情は揺らぎを生む。揺らぎは崩壊を招く。故に、完結した記憶のみを保存し、不確定な未来への渇望(バグ)を排除する』
創造主の論理は、氷のように冷たく、完璧だった。
すでに終わった美しい記憶だけを標本のように並べ、変化のない永遠を維持する。それがこのシステムの定義する「平和」なのだ。
「ふざけるな……!」
レンが叫ぶと同時に、創造主の影から無数の黒い棘が伸びた。
避ける間もない。棘はレンの四肢を貫き、物理的な肉体ではなく、精神の構造そのものを分解しにかかる。
「が、あぁぁぁぁッ!」
激痛はない。ただ、自分がほどけていく。
レンという名前。旅の記憶。北へ来た理由。それらが砂のようにサラサラとこぼれ落ちていく。
視界が白く埋め尽くされる。
(消える。僕が、消える)
最後に残ったのは、胸元の琥珀の感触だけ。
だが、それも限界だった。
ピシリ、と微かな音がして、二つの琥珀に亀裂が走る。
――砕け散る寸前、レンの中に流れ込んできたのは、両親の「記憶」ではなかった。
それは、もっと生々しく、熱く、理不尽なまでの「叫び」だった。
《生きて。生きて。どんなに辛くても、明日を見て》
それは「完結した思い出」ではない。死の瞬間まで未来を諦めなかった、魂の残り火。システムが最も嫌う、計算不能な「未練」の塊。
レンの瞳から光が失われ、代わりに黄金色の炎が宿る。
創造主の論理(コード)が理解できない異物が、レンという器を満たした。
第四章 再構築
棘に貫かれたまま、レンは笑った。
その口元から、血ではなく黄金の光が漏れ出す。
『警告。解析不能なデータパターンを検出。直ちにパージせよ』
創造主の動きが止まる。レンから溢れ出す光が、黒い棘を逆に浸食し始めていたからだ。
「受け取れよ。これが、人間だ」
レンは残った左手で、自身の胸を――砕けた琥珀ごと心臓を鷲掴みにした。
能力の全開。対象は、自分自身。
彼は自分の魂と、琥珀に宿る両親の未練を融合させ、一つの巨大な「ウイルス」へと変換した。
レンは地面を蹴った。
棘を引きちぎり、光の尾を引いて創造主へと肉薄する。
防御壁が展開されるが、レンの体はそれを物理的に破壊するのではなく、透過した。今の彼は、質量を持った「概念」そのものだ。
レンの手が、創造主ののっぺらぼうな顔に触れる。
「解(こた)えのない問いを、くれてやる」
瞬間、創造主の回路に、レンのすべてが流し込まれた。
美しい思い出だけではない。
空腹の痛み、凍える寒さ、喪失の悲しみ、理不尽への怒り。そして何より、「それでも明日が見たい」という、論理的根拠のない強烈な渇望。
『エラー。矛盾を検出。苦痛は忌避すべきもの。何故、未来を望む? 計算が終了しない。ループ。ループ。ループ』
創造主の内部で、無限の演算が始まった。
0と1では割り切れない人間の感情。
「辛いけれど生きたい」という矛盾こそが、この管理システムを焼き切る唯一の毒。
レンの体はもう輪郭を保てない。指先から粒子となって崩れ、創造主の光と混ざり合っていく。
痛覚は消えた。自分が海の一滴になっていくような、穏やかな拡散の感覚。
光の中で、彼は見た。
父と母が、あの日と同じ笑顔で立っている。
(ああ、やっと……)
レンは手を伸ばす。
だが、その手は二人には届かない。代わりに、無数の光の筋となって、世界中へ降り注ごうとしている。
二人はレンの背中を、優しく押した。
《行きなさい。あなたの明日に》
レンの意識が弾けた。
それは死ではない。
世界という巨大なシステムの一部となり、その定義を「停滞」から「流転」へと書き換える、最初の一撃となったのだ。
最終章 琥珀色の雨
翌朝、世界は音を取り戻していた。
空を覆っていた灰色の雲盤は割れ、その隙間から、見たこともない色の光が降り注いでいた。
それは太陽の光でありながら、どこか琥珀のような温かみを帯びた粒子を含んでいた。
市場の片隅で、うずくまっていた少女が顔を上げる。
降り注ぐ光が頬に触れた瞬間、彼女の瞳に色が戻った。
ドクン、と胸が鳴る。
「……おなかが、すいた」
彼女は呟いた。それはただの生理現象ではない。「生きて、何かを食べたい」という、未来への意思表示だった。
隣にいた母親が、驚いたように娘を抱きしめる。母親の腕には、娘の体温を感じる機能だけでなく、「愛おしい」と想う心が蘇っていた。
街のあちこちで、凍りついていた時間が溶け出していく。
パン屋の主人は焦げた匂いに慌てふためき、恋人たちは喧嘩を始め、子供たちは水たまりを蹴って笑った。
喜びだけではない。悲しみも、怒りも、後悔も、すべてが戻ってきた。
完璧で静謐な世界は終わりを告げ、騒がしく、傷つきやすく、けれど何よりも鮮やかな世界が再び回り始めたのだ。
北の果て、かつて神殿があった場所。
そこにはもう、光の城も、創造主も存在しなかった。
ただ、瓦礫の隙間に、小さな琥珀のかけらが一つだけ落ちていた。
風が吹く。
琥珀のかけらは、ふわりと砂に溶け、やがて地面に吸い込まれていった。
数秒後、そこから名もなき双葉が芽吹く。
その葉脈は、微かに黄金色に脈打っていた。
空はどこまでも高く、青い。
誰かが紡いだ明日が、今日もまた、誰かの記憶となって続いていく。
風に乗って、懐かしいような、それでいて新しい季節の匂いが、世界中へと運ばれていった。