記憶を喰らう絵筆の代償

記憶を喰らう絵筆の代償

主な登場人物

レン(Ren)
レン(Ren)
24歳 / 男性
常に絵具で汚れた作業着、光を失った虚ろな瞳、ボサボサの黒髪。
ルミ(Lumi)
ルミ(Lumi)
不詳(外見は12歳前後) / 女性
色素の薄い銀髪、真っ白なワンピース、裸足。影がない。
グレイ(Gray)
グレイ(Gray)
不詳 / 無性(不定形)
不定形の泥。時折、亡き恋人の姿や、過去のレンの姿を模倣する。
9 4956 文字 読了目安: 約10分
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第1章: 喪失の赤

瞼を持ち上げる。そこに広がるのは、泥を煮詰めたような灰色の天蓋だった。

レンは身を起こした。掌に伝わる、古いキャンバスのようなザラついた感触。見渡す限りの荒野。草木も、水も、光さえもが色彩を剥奪され、ただ濃淡のある灰色として死に絶えている世界。

自身の胸元を見下ろす。何層にも絵具がこびりつき、硬化したデニム地の作業着。擦り切れた袖口から覗く腕は、病的なほど白い。風が吹くたび、手入れをしていないボサボサの黒髪が視界を遮る。その奥にある焦点の合わない瞳。インクの切れた万年筆のように黒く、そして乾ききっていた。

「さあ、描いて。レン」

鈴を転がすような声。弾かれたように顔を上げる。

いつの間にか右手に握らされていたのは、動物の骨を削り出した無骨な筆。筆先には、ドロリとした真紅の液体が滴っている。

「この世界は死にかけているんだ。君が色をあげなきゃ」

声の主はいない。指先を支配するのは、強迫的な衝動のみ。

レンは震える手で、足元の灰色の地面に筆を走らせた。切っ先が地面に触れた瞬間、脳髄を焼きごてで抉られるような激痛。

「ぐっ、あああああ……!」

歯が砕けるほど食いしばる。筆が滑る。灰色の地面に咲く、鮮烈な「赤」。それは一輪の花の形を成し、周囲の灰を侵食して脈動を始めた。

その瞬間だった。

頭の中にあったアルバムの1ページが、ライターの火を近づけられたフィルムのように溶け落ちる。

――誰だ?

誰かが笑っていた。夕暮れの教室。逆光の中、こちらを振り返った誰か。

その人物の唇が動く。何かを言っている。愛おしい言葉だ。

だが、思い出せない。その唇の「色」が。

形は覚えている。柔らかそうな曲線も、口角の上がった角度も。けれど、そこに塗られていたはずの色だけが、ゴッソリと切り取られている。

筆を取り落とし、自身のこめかみを爪が食い込むほど抑え込むレン。

呼吸が浅くなる。早鐘を打つ心臓。背筋を伝う冷たい汗。

何かが消えた。自分を構成していた極めて重要なパーツが、あの赤い花を描いた瞬間に、世界へ吸い出されたのだ。

「ああ、綺麗だねっ」

無邪気な声と共に、視界の端で揺れる白いワンピースの裾。

レンは荒い息を吐きながら、地面に咲く赤い花を見つめた。

その赤は、自分が今しがた喪失した、あの人の「唇の色」と同じだった。

第2章: 残酷な聖人

「次は『緑』が欲しいな。あそこの枯れ木、寒そうだよ」

ルミと名乗った少女は、裸足で灰色の砂利を踏みしめ、スキップするように前を行く。

月光を紡いだような色素の薄い銀髪。重力に逆らうようにふわりと舞うそれ。彼女には影がない。地面に落ちるのは、レンのひょろ長い影だけ。

無言で従う。拒否権など最初からなかった。筆を握らなければ、全身の骨が軋むような頭痛が襲ってくるのだから。

辿り着いたのは、崩れかけた石造りの村。灰色の肌をした住民たちが、亡霊のようにレンを取り囲む。窪んだ眼窩。救いを求めるように伸びてくる乾いた手。

「描いて……色を、我らに命を……」

骨の筆を構える。今度の絵具は、深い森のようなビリジアン。

キャンバスは、村の中央に立つ巨大な枯れ木だ。

筆先が木の皮に触れる。

ズクリ。

胸の奥、心臓のすぐ裏側にある引き出しが無理やりこじ開けられる感覚。

(やめろ……それは、俺の……!)

抵抗も虚しく、筆は踊る。枯れ木が瑞々しい緑の葉を茂らせていく。

それと引き換えに、レンの記憶から消滅する「故郷の裏山の風景」。

秘密基地を作った木の匂い。葉擦れの音。そこで語り合った親友の顔。名前。

すべてが緑の絵具となって吸い出され、目の前の木に定着する。

「おお……! 奇跡だ! 救世主様だ!」

歓声を上げ、レンの足元にひれ伏す村人たち。彼らの肌に赤みが戻り、世界が息を吹き返していく。

レンは膝をつき、嘔吐した。胃液しか出ない。

ひきつる喉。涙がアスファルトのような地面に染みを作る。

「ありがとう、レン。君のおかげで、みんな幸せそうだ」

覗き込むルミ。レンの頬に触れるその指先は、氷のように冷たい。

彼女の手を振り払う気力もなく、ただ自分の掌を見つめる。

「俺は……誰だ?」

親友の名前が出てこない。故郷の場所がわからない。

自分が何者で、なぜここにいるのか。その輪郭が、絵を描くたびにヤスリで削られるように摩耗していく。

残っているのは、胸を焦がすような喪失感と、顔の思い出せない「誰か」への執着だけ。

「いいんだよ、レン」

残酷なほど優しく微笑み、耳元で囁くルミ。

「痛い思い出なんて、全部絵にしちゃえばいい。空っぽになれば、もう苦しくないから」

第3章: 偽りの楽園

旅は続いた。空に「青」を戻し、海に「藍」を注ぎ、レンの中身はスカスカの空洞になっていく。

そして、世界の果てと思われる断崖に立った時、それは現れた。

『オボエテ……ロ……』

地響きと共に噴き上がる灰色の泥。不定形の怪物が、津波のようにレンたちに覆いかぶさろうとしていた。

泥の表面に浮かんでは消える無数の顔。

苦痛に歪む男の顔。泣き叫ぶ女の顔。それはすべて、レンが見覚えのある――しかし名前の呼べない人々の顔だった。

「キャハッ! また来たの? しつこいなあ、グレイは」

レンの背中に隠れることなく、侮蔑の色を浮かべて笑うルミ。

「レン、やっつけて! あの泥を描き変えちゃえばいいの!」

筆を構える。だが、手が動かない。

レンの目の前で形を変える泥の怪物。それは、あの「顔のない恋人」のシルエットを模り、泥の腕を伸ばしてきた。

『ワタスナ……ソレハ、オレノ、イノチダ……ワスレル、ナ……』

鼓膜ではなく脳髄に直接響く声。

その響きには、敵意ではなく、血を吐くような哀願が混じっていた。

「う、あ……ああ……」

明滅する視界。

この怪物は、敵ではない。

直感が、本能が警鐘を鳴らす。

この泥は、俺の「痛み」そのものだ。夜毎枕を濡らした涙であり、後悔であり、彼女を失った絶望の集積。

「何してるのレン! 早く消してよ! 幸せになりたいんでしょ!?」

響くルミの金切り声。彼女の可憐な顔が、見たこともないほど醜悪に歪んでいる。

その瞬間、レンの脳裏に突き刺さる雷撃のような真実。

この世界は、何だ?

色を取り戻す? 世界を救う?

違う。

ここは、現実から逃げ出した俺が作り出した、都合のいい「棺桶」だ。

ルミは案内人ではない。彼女は俺の「忘却願望」。辛いことから目を逸らし、何も感じなくなりたいと願った俺の弱さ。

そしてグレイは、俺が切り捨てようとしている「未練」であり、人間としての「良心」だった。

世界を救っていたんじゃない。

俺は、自分自身を殺していたんだ。

「……ふざ、けるな」

乾いた唇から漏れる、掠れた声。

「え?」

「ふざけるなッ! 俺の記憶は……俺の痛みは、絵具なんかじゃねぇ!!」

レンは筆をルミに向けた。だが、彼女は悲しげに首を振るだけ。

「どうして? 忘れた方が楽なのに。どうして、自分から地獄に戻ろうとするの?」

第4章: 空っぽの器

真実に気づいた代償は大きかった。

亀裂音を立てて悲鳴を上げる世界。剥がれ落ちる空の青、腐り落ちる地面の緑。

瓦礫の山となった荒野の中心、レンは膝を抱えていた。

記憶の9割は、すでに失われている。

彼女との初めてのデート。喧嘩した理由。仲直りのキス。彼女の作った料理の味。

すべて、あの美しい風景画の中に溶けて消えた。

残っているのは、「彼女を愛していた」という熱のような感情の残滓と、たった一枚のイメージ。

彼女の顔。

それだけが、最後の砦のようにレンの脳裏に焼き付いている。

「ねえ、レン」

瓦礫の上に腰掛け、足をぶらつかせているルミ。世界が崩壊しようとしているのに、彼女だけは傷一つなく、真っ白なままだ。

「もう十分苦しんだよ。最後の仕上げをしよう?」

握らされる新しい筆。それは今までで一番柔らかく、そして温かい筆だった。

「その『顔』を使って、最高の絵を描こうよ。そうすれば、この世界は完成する。君は永遠に、綺麗な色の世界で微睡んでいられるんだよ」

悪魔の囁き。いや、それは救済の福音にも聞こえた。

このまま最後の記憶を絵具に変えれば、喪失の痛みすら消える。

「彼女がいなくて寂しい」という事実さえ忘れ、「何もなくて穏やか」な虚無になれる。

震える手。

キャンバスに向かう筆先。

楽になりたい。もう泣きたくない。朝起きるたびに、隣が冷たいことに絶望したくない。

『オレ、ハ……ココニ、イル……』

足元の泥溜まりから、小さくなったグレイが呻く。

痛みを抱えて生きるか。

痛みを捨てて死んだように生きるか。

レンは空を見上げた。剥がれ落ちた空の隙間から覗く、何もない暗闇。

――違う。

彼女は、俺に忘れてほしくて、あんなに綺麗に笑ったわけじゃない。

「……痛みは、罰じゃない」

レンは立ち上がる。筆を握る指の関節が白く浮き出るほどに、力を込めた。

「痛みは、俺が彼女を愛した証拠だ。これだけは……これだけは、誰にも渡さねぇ!!」

叫び。喉が裂けるほどの絶叫。

それは、空っぽになりかけた器からの、魂の反逆だった。

第5章: 永遠の別離

レンはキャンバスに向き合った。

世界を塗りつぶすためではない。

この世界を終わらせるために、描くのだ。

「あああああッ!!」

獣のような咆哮と共に、筆を叩きつける。

最後の記憶。彼女の「顔」を、脳内から引きずり出す。

脳みそを直接鷲掴みにされ、外へ引っ張り出されるような激痛。

目から、鼻から、耳から、血が噴き出すような感覚。

それでもレンは止めない。

筆が高速で走り、キャンバスの上に色彩が爆発する。

肌の白さ、頬の赤み、瞳の奥にある星のような輝き。

一筆描くごとに、レンの中の彼女が消えていく。

輪郭がぼやけ、声が遠のき、匂いが消える。

(行くな! 行かないでくれ!)

心の中で叫びながら、手は正確に彼女を再現していく。

この矛盾。この引き裂かれるような業。

画家としての才能が、これほど呪わしいと思ったことはない。

悲鳴を上げて消滅していくルミ。歓喜の声を上げて泥に戻っていくグレイ。

ガラス細工のように砕け散る世界の中、レンは最後の一筆を入れた。

彼女の唇に、あの日の赤を。

「……完成、だ」

手から滑り落ちる筆。

目の前には、今にも動き出しそうな、生前の彼女の肖像画。

そして、レンの頭の中は、真っ白になった。

この絵の女性が誰なのか、もう思い出せない。

名前も、関係も、過ごした日々も。

けれど、レンは知っていた。

この絵が、自分の命よりも大切なものであることを。

記憶は消えたが、記録は残った。

俺の内側に閉じ込めて腐らせるのではなく、外側の世界に「美」として永遠に定着させたのだ。

視界を覆う強烈な光。

***

「……ん……」

消毒液の匂い。

電子音のリズム。

ゆっくりと目を開ける。

白い天井。点滴のチューブ。

どうやら、随分と長い夢を見ていたらしい。

身体は鉛のように重いが、不思議と胸のつかえは取れていた。

軋む首を巡らせ、窓の方を見る。

夕暮れ時だった。

燃える空。茜色から紫へ、そして群青へと移り変わる壮絶なグラデーション。

「う……」

頬を伝う熱いもの。

なぜ泣いているのか分からない。

何かとても大切なものを失ったような喪失感がある。

胸の真ん中に風穴が空いたようだ。

けれど、その風穴を通り抜ける風は、決して冷たくはなかった。

震える指先で、窓の向こうの空へ触れようとする。

その瞳には、かつての虚無の色はない。

悲しみを宿し、それでも光を捉えようとする、画家の瞳がそこにあった。

「……綺麗だ」

レンは呟く。

その言葉は、消えてしまった誰かへの手向けのように、静かに病室に溶けていった。

クライマックスの情景

AI物語分析

【物語の考察:色彩と代償】

本作は、芸術家が作品を生み出す際に支払う「身を削るような苦痛」を、物理的な記憶の喪失として可視化している。美しい作品(世界の色)が完成するたびに、作者の内面(記憶・自我)が空虚になっていくプロセスは、創作活動における「自己の客体化」のメタファーである。

【メタファーの解説:ルミとグレイ】

白い少女「ルミ」は、辛い現実を直視しないための「防衛機制」や「忘却願望」を象徴する。彼女が常に無邪気で美しいのは、現実逃避が持つ甘美な誘惑だからだ。対する泥の怪物「グレイ」は、直視したくない「トラウマ」や「未練」そのもの。しかし、レンが最後に気づくように、痛み(グレイ)こそが愛した証であり、人間性を繋ぎ止めるアンカーであった。物語は、痛みを捨てて楽になることよりも、痛みを抱えて生きる「人間としての尊厳」を選択する魂の旅路を描いている。

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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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