第1章: 孤独な葬列
『視聴者数:0』
『酸素残量:3%』
網膜に映る赤い警告灯。……ああ、これが僕の人生の幕切れか。
肺が焼ける。ヒュー、ヒュー。粘着質な闇に、自身の吸気音だけが大きく反響している。
ダンジョン最深部、通称『死の胃袋』。ヘドロと鉄錆、そして濃厚な死臭が充満する奈落の底。
雨木カナタは、自身の顔に向けられたドローンカメラを虚ろに見つめた。
脂汗で額に張り付く、手入れされていない黒髪。伸びすぎた前髪の隙間から覗く、クマの刻まれた三白眼。かつて瞳だったものは、洞窟の湿気を吸って濁りきっている。継ぎ接ぎだらけの灰色のローブには、乾いた血痕のような染み。
同接0。当然の結末だ。
Fランク探索者、それも死体漁りを専門とする『掃除屋』の配信など、物好きすら見向きもしない。
足元の泥がずるりと滑る。
膝をついた拍子に、指先が何かに触れた。硬く、冷たい感触。
ライトを向ける。光の束が闇を切り裂き、そこに横たわる「それ」を浮かび上がらせた。
「あ……」
喉が鳴る。
白骨化しかけた遺体。だが、その装備に見間違えようはない。かつてテレビの向こうで輝いていた、伝説の『雷光の英雄』の鎧。表面の彫金は朽ちかけ、肋骨の隙間からはダンジョン蟲が這い出している。
英雄の成れの果て。
(これを売れば……)
心臓が早鐘を打つ。乾いた唇を舐める。この剣一本で、億は下らない。スラムの狭い部屋を出て、一生遊んで暮らせるチケット。装備を剥ぎ取れ。カメラを切れ。誰も見ていない。
震える手が、遺体の剣に伸びる。指先が柄に触れようとした、刹那。
『……寒い』
声。
いや、鼓膜ではない。脳髄を直接握り潰されるような圧迫感。
視界の端で、英雄の遺体の指が微かに動いた錯覚。物理的な動きではない。そこにある「未練」が、ヘドロのように渦巻き、訴えかけてくる。
「……すみません。僕なんかが、触れて」
カナタは剣から手を離し、泥だらけの手で合掌した。
そして、震える指でドローンの設定を操作する。タイトル変更。『英雄、最期の言葉』。
「装備は……持っていきません」
カメラに向かい、独り言のように呟く。呼吸が浅い。酸素欠乏で視界がチカチカと明滅する。
「聞こえますか、あなたの声。……僕が、届けますから」
カナタの瞳に、奇妙な熱が宿る。
呼応するように、遺体から立ち昇る蒼白い燐光。それらがカナタの胸郭へと吸い込まれていく。
肋骨の内側が膨張する感覚。血管の一本一本に、他人の熱い血液が無理やり流し込まれる激痛。
「ぐ、ぁあああッ!?」
喉が裂けるほどの絶叫。
脳裏に雪崩れ込む映像の奔流。愛する妻の笑顔。守りたかった娘の泣き顔。無念。悔恨。帰りたかった、帰りたかった――!
「受け取り……ました」
血の混じった唾を吐き捨て、ふらりと立ち上がる。
猫背だった背筋が、見えざる糸で釣られたように伸びていく。濁っていた三白眼の奥、宿るは雷光の如き鋭い光。
第2章: 涙のスパチャ
「おい見ろ、同接がバグってるぞ」
「なんだこいつ、動きが……英雄(アルヴィン)か?」
コメント欄、滝のごとし。
視聴者数、50万人突破。
カナタの四肢は、意思とは無関係に躍動していた。
立ちはだかるは階層主『腐敗の巨竜』。腐肉を垂れ流す顎が、眼前の獲物を噛み砕こうと迫る。
平時のカナタなら、恐怖で腰を抜かし、失禁していただろう。だが今、彼の右手は自然と剣の柄に掛かっていた。
(遅い)
思考よりも速く、筋肉が弾ける。
踏み込み、一閃。
泥と汚水が跳ねるより疾く、紫電が闇を焼き払った。
巨竜の首が、音もなく滑り落ちる。
ドサリ。
地響きと共に巨体が崩落。同時に、カナタの体から力が霧散した。
膝から崩れ落ちる。肩で息をするたび、肺がヒューヒューと鳴く。
だが、視聴者が息を呑んだのは、その圧倒的な武勇ではない。
カナタは、まだ痙攣する巨竜の死骸には目もくれず、カメラを拾い上げた。
レンズの向こう側。何千キロも離れた場所にいるであろう、英雄の遺族に向けて。
「……最期まで、彼は戦っていました」
掠れた声。
目元を覆う長い前髪が、汗で濡れて透けている。
「『リサ、誕生日おめでとう。プレゼントは渡せそうにない。ごめん』……それが、彼の最期の思考(ことば)です」
その言葉が発せられた瞬間、コメント欄の流れが止まった。
そして、爆発。
『ウソだろ、今日あの子の誕生日じゃん……』
『本物だ。今の剣技、今の言葉、全部本物だ』
『今まで遺品を盗む奴しかいなかったのに』
『ありがとう……届けてくれてありがとう……!』
画面を埋め尽くす虹色のスパチャ。
称賛、感謝、涙。
しかし、カナタは表情を変えない。ただ、薄汚れた袖で目元を乱暴に拭っただけ。
「……僕なんかに、礼なんて」
その時、カナタの隣に降り立つ、透き通るような影。
月光を紡いだような銀髪。琥珀色の瞳。死装束を現代風のドレスに仕立て直した少女が、ふわりと宙に浮いている。
「背筋が曲がっていてよ、カナタ」
彼女――シズクが、誰にも聞こえない声で囁いた。
半透明の指先が、カナタの頬を掠める。冷たさはなく、ただ微かな風のような感触。
「もう、仕方ない人ね。……でも、よくやったわ」
小さく頷き、逃げるように配信を切る。
暗闇に戻ったダンジョンで、膝を抱える青年。
世界中が彼を英雄と呼んでも、その耳には、まだ妹の断末魔がこびりついて離れない。
第3章: 偽善者の烙印
眩いフラッシュ。煌びやかなシャンデリア。
Sランク探索者、レオン・スターリングのパーティー会場は、天上の楽園のようだった。
「Hey Guys! 今日も伝説を見逃すなよ?」
完璧に整えられた金髪。光を反射する白銀の聖鎧。レオンが白い歯を見せて笑えば、コメント欄は黄色い歓声で埋め尽くされる。
その煌めきの端、借りてきた猫のように縮こまるカナタ。洗濯したはずのローブから、染みついた死臭が漂う気がしてならない。
「紹介しよう。最近話題の『掃除屋』くん、カナタだ!」
馴れ馴れしく肩を組んでくるレオン。香水の甘ったるさが、鼻をつく。
カメラがカナタの青白い顔をアップにする。
「……あ、どうも」
「彼は素晴らしい才能を持っている。だが、少し教育が必要だね?」
レオンの碧眼が、爬虫類のように細められた。
公開処刑の合図。
数日後。
編集された動画が世界を駆け巡った。
『衝撃の真実! 掃除屋カナタ、仲間を囮にして逃亡』
映像の中のカナタは、傷ついた仲間を見捨てて背を向けているように見えた。実際は、レオンが「引け!」と命令し、カナタが負傷者を背負おうとした瞬間が巧みにカットされていた。
『最低だな』
『死者の声? 全部やらせだろ』
『死ねよ詐欺師』
『住所特定したわ。妹も殺したらしいな』
鳴り止まぬ通知音。
スマホの画面を埋め尽くす罵倒の嵐。
自宅ドアに書かれた「人殺し」の赤文字。割られた窓ガラス。
「……やっぱり」
割れたガラスの破片を、素手で拾い上げる。指先が切れ、赤い血が滲む。痛みは遠い。
「僕は、生きていてはいけない人間なんだ」
かつて妹を見捨てて生き延びたあの日から、わかっていたこと。
英雄気取りで、少しでも償えると思った自分が愚かだった。
「カナタ! 聞こえる!? 早まるんじゃないわよ!」
シズクの声が響く。だが、カナタは耳を塞いだ。
灰色のローブを深く被り直す。
目指す場所は一つ。
生還率0%、最難関ダンジョン『奈落』。
死ぬなら、せめて誰にも見つからない場所で。
第4章: 無数の弱者たち
闇。
完全なる闇。
『奈落』の底には、光も音も存在しない。
あるのは、積み重なった死骸の山と、濃密な魔素の淀みだけ。
岩肌に背を預け、荒い息を吐くカナタ。
食料は尽きた。水もない。
意識が泥の中へと沈んでいく。
(これでいい。これで、やっと終われる)
重くなる瞼。
その時だった。
『……だ』
『……やだ』
『……まだ、死にたくねぇ』
声。
一つではない。十、百、いや、数千。
地面から、壁から、無数の腕が伸びてくる。泥のような、煙のような、名もなき亡者たち。
彼らは英雄ではない。Fランク、Eランク。誰にも顧みられず、レオンのような強者に踏み台にされ、ゴミのように捨てられた弱者たち。
「う、あああ……!」
頭蓋骨がきしむほどの頭痛。
数千人の「無念」が、カナタの精神を食い破ろうとする。
『なんで俺たちだけ』
『助けてくれ』
『痛い、痛い、痛い』
「ごめん、なさい……僕には、無理だ……」
耳を塞ぎ、うずくまる。
だが、その亡者たちの群れの中から、ひとつの小さな手が伸びてきた。
『お兄ちゃん』
見開かれる目。
幻聴かもしれない。だが、その声は確かに、あの日の妹のもの。
『生きて』
その言葉が、カナタの心臓を鷲掴みにした。
(生きて? 僕が?)
顔を上げる。
シズクが立っていた。彼女もまた、かつて世界に見捨てられた「敗北者」の一人。悲しげに、けれど力強くカナタを見つめている。
「カナタ。彼らは、あなたを呪っているんじゃない。……託しているのよ」
シズクが指差す先。
数千の亡者たちが、カナタを見ていた。
彼らの瞳に宿るのは、憎悪ではない。縋るような、祈るような光。
自分たちの生きた証を、理不尽に踏みにじられた最期を、誰かに知ってほしいという執念。
「……僕に、何ができる」
震える足で立ち上がる。
足元の泥を握りしめる。冷たく、臭い泥。だがそこには、無数の魂が混じっている。
「僕は英雄じゃない。……ただの、死に損ないだ」
ドローンが、奇跡的に再起動する。灯る赤いランプ。
「だけど、掃除屋(ぼく)にしか、できない仕事がある」
カナタの目が、深く暗い光を宿す。
《死者共鳴(ソウル・シンクロ)》、最大出力。
一人の英雄の力ではない。数千の弱者たちの、泥臭い執念の集合体。
漆黒のオーラが、カナタの灰色のローブを染め上げていく。
第5章: 静寂の1億人
「Shit! なんで死なないんだコイツは!!」
響き渡るレオンの絶叫。
『奈落』の深層部。彼が企画した「前人未踏の攻略配信」は、地獄絵図と化していた。
想定外の変異種。仲間たちは既に倒れ、レオンの白銀の鎧も砕け散っている。
「僕を見捨てるな! 僕はレオン・スターリングだぞ!!」
カメラに向かって喚き散らすレオン。
その背後に、巨大な爪が振り下ろされる。
終わりだ。
世界中が見守る中、最強の男が肉塊に変わる――。
ガギィィィン!!
重い金属音。
恐る恐る目を開けるレオン。
眼前に、ボロボロの灰色の背中があった。
「……え?」
カナタだった。
だが、その姿は異様。
背中から、無数の黒い影が翼のように立ち昇っている。何百、何千もの手や顔が、揺らめく影の中に浮かんでいる。
「カ、カナタ……? 貴様、生きて……」
カナタはレオンを振り返らない。
ただ、変異種を見据え、一歩踏み出す。
「お前たちが殺した、彼らの分だ」
振るわれる腕。
剣ではない。影そのものが巨大な杭となり、変異種を貫いた。
圧倒的な暴力。しかしそれは、華麗な光魔法ではない。泥と怨嗟が凝縮された、重く、苦しい一撃。
変異種が断末魔を上げて霧散する。
静寂。
カナタはゆっくりと振り返り、レオンのカメラを見た。
現在の視聴者数、10億人。
人類の歴史上、最も多くの人間が、泥だらけの青年を見つめている。
カナタはレオンに剣を向けない。
ただ、ポケットから一冊の手帳を取り出した。ボロボロで、血に濡れた手帳。
そこには、このダンジョンで死んでいった「名もなき探索者」たちの名前がびっしりと記されていた。
「聞け」
カナタの声が、マイクを通して世界中に響く。
いつもの自信なさげな声ではない。地獄の底から這い上がってきた修羅の声だ。
「トウジ・ヤマダ。Fランク。母への仕送りのために盾となり、見捨てられた」
「サラ・ウィリアムス。Eランク。負傷した仲間を助けようとして、レオン、あんたに囮にされた」
「ケンジ……」
一人、また一人。
読み上げられる名前。
レオンの顔色が青ざめていく。
「や、やめろ! 放送を切れ! 切断しろ!!」
飛びかかるレオン。だが、シズクの展開した《霊的防壁》に弾き飛ばされる。
カナタは止まらない。
喉が枯れ、血を吐きながらも、彼は読み続ける。
その名前の一つ一つが、レオンの築き上げた虚構の英雄像を突き崩していく。
コメント欄から、罵倒が消えた。
流れるのは、涙の絵文字と、祈りの言葉だけ。
「……以上、3412名」
最後の一人を読み終えた時、カナタは手帳を閉じた。
カメラを真っ直ぐに見据える。その瞳から、一筋の涙が頬の泥を伝って落ちた。
「彼らは、確かにここに生きていた。……忘れるな」
その場に崩れ落ちるカナタ。
意識が途切れる寸前、シズクが優しく微笑み、彼の頭を抱きしめるのが見えた。
「おやすみ、カナタ。……よく、頑張ったわ」
◆
数年後。
ダンジョンから遠く離れた、日当たりの良い街角。
小さな花屋の軒先で、一人の青年が水を撒いている。
前髪は短く切り揃えられ、かつての陰鬱な影はない。目元のクマは消え、穏やかな光を宿している。
「いらっしゃいませ」
ドアベルが鳴り、客が入ってくる。
店内の壁には、写真が一枚も飾られていない代わりに、数え切れないほどの「ありがとう」と書かれた手紙が貼られていた。
そしてカウンターの特等席には、誰にも見えないが、銀髪の少女が足をぶらぶらさせながら座っている。
「今日の花も綺麗ね、カナタ」
「ああ、そうだね。シズク」
雨木カナタは微笑み、一輪の白い百合を手に取った。
もう、死臭はしない。
ここには、優しい花の香りだけが満ちていた。