第一章 この世界は、腐っている
「――臭い」
私の第一声は、愛の囁きでも、断罪への悲鳴でもなかった。
ただ、純粋な生理的嫌悪だった。
王立学園の卒業パーティー。シャンデリアが煌めく大広間。
目の前には、私を指差す婚約者のアルフレッド第二王子。
そして、彼の腕に抱かれ、涙目で私を見上げる男爵令嬢リナ。
「聞こえないのか、エララ! 貴様のその冷酷な振る舞い、もはや看過できん! 聖女リナに対する数々の嫌がらせ、そして毒の混入……今ここで、貴様との婚約を破棄する!」
王子の声が響く。
周囲の貴族たちがざわめき、蔑みの視線を私に向ける。
けれど、私の意識はそこにはない。
思い出したのだ。
ここが乙女ゲーム『聖なる乙女と薔薇の騎士』の世界であり、私が断罪される悪役令嬢エララ・フォン・バルシュタインであること。
そして何より――前世、私が疫学と公衆衛生に人生を捧げた、潔癖症の研究者であったことを。
「……殿下」
私は扇子で口元を覆った。
優雅さを装うためではない。
この会場に充満する、吐き気を催すほどの『不衛生な悪臭』を遮断するためだ。
この世界は、狂っている。
風呂は月に一度。
排泄物は窓から通りへ投げ捨てる。
香水は体臭をごまかすために浴びるように使う。
そしてあろうことか、目の前の「聖女」リナ。
彼女の「治癒魔法」は、傷口を塞ぐだけで、内部の細菌感染を無視する欠陥品だ。
「なんだ、その態度は! 申し開きがあるなら言ってみろ!」
「申し開きも何も……殿下。まず、その手を離していただきたいのです」
私は冷ややかに告げた。
「リナ様のドレスの裾……先ほど、馬車の車輪に触れましたわね? そしてその車輪は、下水塗れの石畳を転がってきた。今の殿下の手は、間接的に街の汚物をお触りになったのと同じです」
シン、と会場が静まり返る。
「なっ……貴様、何をわけのわからないことを!」
「わけなどわかりたくもありません。不潔です。ああ、鳥肌が立つ」
私はドレスのポケットから、自作の小瓶を取り出した。
中身は高濃度のアルコールと、ハーブから抽出した殺菌成分。
シュッ、シュッ。
自分の周囲に霧を吹く。
「ひどい……! エララ様、私が汚いとおっしゃるのですか!?」
リナが泣き崩れる演技をする。
その涙を王子が親指で拭う。
私は思わず後ずさった。
「ええ、汚いですわ。生物学的に」
私の戦いは、恋敵との泥仕合ではない。
病原菌との、仁義なき戦いだったのだ。
第二章 孤独な啓蒙活動
私が「嫌がらせ」として告発された内容は、すべて衛生管理の一環だった。
リナに熱湯で洗濯したハンカチを押し付けたこと。
彼女が怪我をした際、傷口を焼酎で洗い流し、悲鳴を上げさせたこと。
王子の食事に、生の食材を禁じ、すべてウェルダンにするよう厨房に圧力をかけたこと。
それらすべてが、「冷酷な悪女の所業」として処理された。
「エララ、お前はなぜそんなに、人の肌に触れるのを嫌がるんだ?」
かつて、王子は私にそう尋ねたことがあった。
私は真実を言えなかった。
『あなたの爪の間に、顕微鏡で見れば数百万の雑菌が見えるからです』なんて。
だから私は、領地で孤独に戦った。
領民には「呪い除けの儀式」と称して、煮沸消毒を徹底させた。
「悪魔の泥」と噂された石鹸を、強制的に配布した。
下水道整備事業は、「地下牢の拡張」だと勘違いされたまま進めた。
その結果どうなったか。
我がバルシュタイン領だけが、疫病の発生率が異常に低い。
乳幼児の死亡率も激減した。
だが、王都の貴族たちはそれを理解しない。
「バルシュタイン家は、悪魔と契約して病を遠ざけている」と囁き合った。
そして今、この断罪の場。
「リナの聖なる力こそが、国を救うのだ! 貴様の怪しげな薬など必要ない!」
アルフレッド王子が叫ぶ。
リナが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
愚かだ。
致命的に、愚かだ。
私は扇子を閉じた。
パチン、という乾いた音が響く。
「殿下。リナ様の治癒魔法で、最近『黒死の熱』にかかった兵士たちを治療なさいましたね?」
「ああ、そうだ! 全員、外傷は見事に塞がり、回復した!」
「……その兵士たちが今、どこにいるかご存知で?」
「何を……?」
「傷口を塞いだことで、膿と菌が体内で爆発的に増殖し、敗血症を起こして次々と倒れているそうですよ。先ほど、早馬で報告が届きました」
会場の空気が凍りつく。
第三章 パンデミック・イブ
「嘘だ! リナの力は絶対だ!」
「嘘かどうか、ご自身の体でお確かめになってはいかが?」
私は王子の顔色を指差した。
「殿下、先ほどから首筋を掻いておられますね。それに、顔色が土気色です。汗の量も異常だ」
王子がハッとして首に手をやる。
そこには、赤黒い斑点が浮かんでいた。
「なんだ……これは……?」
悲鳴が上がる。
近くにいた貴族の夫人が、卒倒した。
彼女の腕にも、同じ斑点があったからだ。
そう、この会場はすでに汚染されている。
リナが「治癒」した兵士たちを慰問した際、彼女自身が媒介者(ベクター)となったのだ。
聖女という名の、移動式培養器。
リナが青ざめる。
「ち、違います! 私は聖女です! これはエララ様が毒を……!」
「毒? いいえ、それは『無知』という名の病です」
私はドレスの裾を翻し、壇上へと歩みを進めた。
護衛騎士たちが剣を抜こうとするが、私の迫力に押されて動けない。
「皆様、落ち着いてお聞きなさい!」
凛とした声で、私は会場を制圧した。
「今すぐ、この会場を封鎖します。これは『命令』ではなく『防疫措置』です」
私は懐から、白い布を取り出した。
マスクだ。
それを慣れた手つきで装着する。
「バルシュタイン家の私兵を配置しました。誰一人、許可なく外へ出すことは許しません。感染拡大(パンデミック)を防ぐためです」
「き、貴様、王族を監禁するつもりか!?」
苦しげに呻く王子を、私はマスク越しに見下ろした。
「監禁ではありません。『隔離』です。感謝なさい。私の領地から持ち込んだ特効薬――抗生物質(ペニシリン)の精製液があるのは、ここだけですから」
第四章 白衣の女王
その夜、王城は野戦病院と化した。
ドレスを脱ぎ捨て、簡素な白衣を纏った私は、的確に指示を飛ばした。
煮沸消毒されたシーツ。
徹底的な手洗い。
そして、培養に成功した青カビ由来の秘薬。
「悪女」と呼ばれた私の指示に、最初は反発していた貴族たちも、次々と熱が引いていく奇跡を目の当たりにし、ひれ伏した。
一方で、リナの治癒魔法は逆効果だった。
魔法を使うたびに彼女自身の体力を奪い、免疫を低下させ、彼女自身が重症化した。
夜明け頃。
一命を取り留めたアルフレッド王子が、ベッドの上で私を見つめていた。
「……エララ。私は、間違っていたのか」
「ええ、大間違いです」
私はカルテ(羊皮紙)に書き込みながら、淡々と答える。
「ですが、殿下にも使い道はあります。その身をもって知った恐怖を、国民への衛生教育に活かしてください」
「婚約破棄は……撤回しても、いいか?」
縋るような目。
私はペンを止め、彼を見た。
以前のような、嫌悪感はなかった。
ただ、とてつもなく「面倒くさい」という感情だけがあった。
「お断りします」
「なっ……なぜだ!?」
「殿下。あなたは一度、手を洗わずにパンを食べましたね? その記憶がある限り、私はあなたとキスなどできません」
絶望する王子を放置し、私は病室を出た。
最終章 清潔なる独裁
その後、王国は劇的に変わった。
「聖女」リナは、その特異体質が危険視され、無菌室という名の塔に幽閉された。
アルフレッド王子は王位継承権を放棄し、公衆衛生局の長官として、下水道工事の陣頭指揮を執らされている。
そして私、エララ・フォン・バルシュタイン。
私は今、王城のバルコニーから、白く輝く石畳の街を見下ろしている。
隣に立つのは、私の研究を唯一理解し、資金援助をしてくれた隣国の若き公爵――ではなく、私が開発した自動給水システムの設計図だ。
愛?
そんな不確定で非衛生的なものより、確実なデータと清潔な水が、私を幸福にする。
「エララ様、本日の石鹸の売上報告です」
執事の声に、私は満足げに頷いた。
悪役令嬢は、王子と結ばれる運命を回避した。
代わりに、この国を『消毒』し、最も清潔で、最も死に近い場所から、生還したのだ。
風が吹く。
かつての腐臭は消え、微かに石鹸の香りがした。
これこそが、私のハッピーエンド。
さあ、次は隣国のスラム街を洗濯しに行きましょうか。