刻喰らう世界と、銀の懐中時計

刻喰らう世界と、銀の懐中時計

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第一章 灰色の雨と止まった針

心臓を、内側から素手で鷲掴みにされた。

「ぐ、ぅ……」

カイロスは濡れたアスファルトに膝をつく。

呼吸が浅い。

肺が酸素を拒絶し、代わりに錆びた鉄のような味が口内に広がる。

掌の中にある、黒曜石と銀の懐中時計。

ひび割れたガラスの奥で、秒針は凍りついたように動かない。

ただ、どす黒い赤光が、心拍に合わせて明滅している。

視界が歪む。

世界がテレビの砂嵐のようにざらつき、平衡感覚が狂う。

『代償』だ。

因果をねじ曲げた報い。

「あ、あの!」

背後から、怯えたような声がした。

振り返ると、埃まみれの少女が瓦礫の山の前で立ち尽くしている。

ミアだ。

彼女の足元には、ねじ曲がった鉄骨が転がっていた。

本来なら、彼女の細い首をへし折っていたはずの凶器。

だが、それは当たらなかった。

当たる『直前』の時間を、カイロスが喰らったからだ。

「……怪我は」

喉が焼けるように熱い。

カイロスは吐血を飲み込み、努めて低い声を出した。

「な、ないです。でも、不思議……鉄骨が、まるで空中で溶けたみたいに軌道を変えて……」

「見間違いだ。雨のせいで視界が悪い」

嘘だ。

俺が奪ったのだ。

彼女の人生の終末を先送りにするために、彼女が本来過ごすはずだった『老後の数年分』を、この時計の糧にした。

「ありがとう、カイロスさん。あなたが通りかからなかったら、私……」

ミアが一歩、踏み出す。

ふわりと、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。

焼きたてのパンのような、陽だまりのような、圧倒的な『生』の匂い。

カイロスの奥歯が鳴る。

懐中時計が、飢えた獣のように熱を帯びたのが分かったからだ。

「寄るな!」

反射的に叫んでいた。

ミアがびくりと肩を跳ねさせ、目を見開く。

「……俺に近づくな。不幸が伝染る」

説明などできない。

君を助けるたびに、俺の手にある怪物が君の時間を貪り食っているなどと。

雨脚が強くなる。

カイロスは逃げるように背を向けた。

右手の時計が、じりじりと皮膚を焦がし続けていた。

第二章 泥濘む刻(とき)

世界は、腐り落ちる果実のように変質していた。

空は常に鉛色で、太陽の位置すら分からない。

街路樹は枯れ木のように白化し、人々の肌は陶器のような亀裂を帯びている。

物理法則すら曖昧になり、マッチの火はつかず、水はいつまでも沸騰しない。

世界のエネルギーが、枯れている。

「ねえ、カイロスさん」

廃墟となった時計塔の屋上。

風が吹き抜ける中、ミアが隣に腰を下ろした。

「今日はパンを焼いてみたの。でも、やっぱりうまく膨らまなくて」

差し出されたバスケットの中には、石のように硬く、生焼けの小麦の塊が二つ。

火力が足りないのではない。

『焼ける』というプロセスを完遂するだけの時間が、この世界にはもう残っていないのだ。

「……もらうよ」

カイロスは硬いパンを齧る。

粉っぽい味がした。けれど、ミアが作ったというだけで、それは何よりも尊い味がした。

「おいしい?」

「ああ。悪くない」

ミアが花が咲いたように笑う。

その笑顔を見て、カイロスの胸がまた痛んだ。

彼女の輪郭が、以前より薄くなっている。

背景の灰色の空が、彼女の身体を通して透けて見えそうだった。

(俺のせいだ。俺が介入しすぎたせいで、彼女の存在そのものが希薄になっている)

守りたかった。

ただ、この笑顔を曇らせたくなかっただけなのに。

ズズズ……。

異音がした。

カイロスのポケットの中で、何かが蠢く音。

「え……?」

ミアが指差す。

カイロスは慌てて懐中時計を取り出した。

銀の蓋の隙間から、コールタールのような黒い泥が溢れ出していた。

ねっとりと指に絡みつき、強烈な腐臭を放つ。

「カイロスさん、時計が……!」

キイイイイイイイイ!

脳髄を直接レイプするような、鋭い耳鳴り。

カイロスは膝をつき、頭を抱えた。

ミアも耳を塞いでうずくまる。

耳鳴りはやがて、湿り気を帯びた『声』へと変わった。

時計の裏に文字が出るなどという生易しいものではない。

鼓膜の裏側で、何者かが囁いているのだ。

『規定量ニ到達。収集完了』

冷たく、粘着質な響き。

『破壊者カイロスヨ。ソノ娘ハ、ヨキ燃料トナッタ。

残リノ時間ヲ全テ回収シ、世界ヲ再構成スル』

「……なんだと?」

時計から溢れた黒い泥が、生き物のように脈打ち、空中に巨大な眼球のような模様を描き出した。

その視線が、ミアを射抜く。

「カイロスさん……身体が、動かない……」

ミアの声が震える。

彼女の指先から、砂のようにさらさらと光の粒子がこぼれ落ちていく。

「嫌……私、消えるの……?」

理解した。

戦慄が背筋を駆け上がる。

俺は救世主気取りで、実際には『管理者』のために最高品質の魂(燃料)を精製していただけだったのか。

ミアの純粋な時間を凝縮し、最後に喰らうために。

第三章 永遠の現在(いま)

「……させない」

カイロスは歯が砕けるほど噛み締め、立ち上がった。

『無駄ダ。オ前ハ我ガ手足』

「黙れ、下種が」

カイロスは黒い泥にまみれた懐中時計を握りしめる。

激痛。

掌の肉が溶け、骨が見えても構わない。

「カイロスさん!?」

「ミア、俺の手を」

半透明になりかけたミアの手首を、カイロスは強引に掴んだ。

冷たい。

けれど、そこには確かに鼓動がある。

「俺はもう、誰も失わない。例えこの世界を敵に回しても、君だけは」

カイロスは咆哮した。

能力の全開。安全装置の解除。

懐中時計に、逆に俺自身の生命力をねじ込む。

バヂヂヂヂッ!!

視界が弾け飛ぶ。

世界の色が反転し、空中の雨粒が静止した。

網膜に焼き付くのは、幾何学模様の『世界の設計図』。

頭上には、全ての時間を飲み込もうとする巨大な黒い穴――管理者の口が開いている。

あそこへミアを捧げれば、世界はリセットされ、また残酷なループが始まるだろう。

(ふざけるな。喰われるのは、俺だけでいい)

「カイロスさん、何を……手が、熱い!」

「ミア、聞いてくれ」

カイロスは彼女を引き寄せ、その震える体を抱きしめた。

これが最初で、最後の体温。

「この時計を壊して、中の時間を全て解放する。

俺自身を『杭』にして、流れを固定するんだ」

「意味がわからない……そんなことしたら、カイロスさんはどうなるの!?」

「枯渇した泉の代わりになる。俺が時間の流れそのものになって、この世界を循環させる」

「そんなの……死ぬってことじゃない!」

ミアの瞳から大粒の涙が溢れ出し、カイロスの頬を濡らす。

その熱さだけは、魂に刻み込んだ。

「死ぬんじゃない。ただ、どこにでもいる存在になるだけだ」

カイロスは血に濡れた唇で、不器用に笑ってみせた。

不思議だ。恐怖はない。

孤独な灰色の世界で、ようやく自分の居場所を見つけたような、深い安堵があった。

「さよならじゃない。いつだって、君のそばにいる」

カイロスは渾身の力で、懐中時計を握り潰した。

パァン!!

銀の破片が星屑のように舞い散る。

黒い泥が絶叫を上げ、強烈な光が世界を白く染め上げていく。

「カイロスーーッ!!」

少女の悲痛な叫びもまた、光の彼方へと溶けていった。

最終章 風の行方

世界には、穏やかな陽光が降り注いでいる。

鉛色だった空は嘘のように澄み渡り、雲がゆっくりと流れていた。

街路樹は青々と葉を茂らせ、噴水の水はきらきらと輝きながら舞っている。

人々は活気を取り戻し、肌のひび割れも消え去っていた。

悪夢のような『枯渇』の日々を覚えている者は、もう誰もいない。

「……いい天気」

ミアは、パン屋の軒先で空を見上げた。

バスケットの中には、こんがりと黄金色に焼けたパン。

香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

ふと、足を止めた。

風が、頬を優しく撫でていったからだ。

それはただの風ではなかった。

誰かが、すぐ隣で微笑みかけてくるような。

大きくて温かい手で、頭を撫でてくれているような、懐かしい気配。

「あれ?」

ミアは胸元に手を当てた。

トクン、トクン。

心臓の鼓動が、規則正しく時を刻んでいる。

そのリズムが、誰かの歩調に似ている気がして、彼女は不思議そうに首を傾げた。

「誰だっけ……とても大切な、誰かだったような……」

思い出せない。

名前も、顔も、声も。記憶の引き出しは空っぽだ。

けれど、喪失感はなかった。

むしろ、深い安心感が全身を包んでいる。

『いつだって、君のそばにいる』

どこかで、そんな声が聞こえた気がした。

ミアは空に向かって、小さく手を振った。

「行ってきます」

その言葉は風に乗り、世界中を巡る『時間の潮流』へと溶けていく。

彼女の頭上で、見えない『彼』が、確かに微笑み返した。

AIによる物語の考察

カイロスは善意からミアを救うが、自身が世界の時間を喰らい、管理者の「燃料調達役」であった皮肉な真実に絶望。しかし彼は、孤独な魂の安息を見出すように、自らを世界の時間の流れそのものへと変え、ミアと世界を救済する道を選ぶ。彼の自己犠牲は、愛と存在意義の探求であった。

伏線として、世界が枯渇していく描写はカイロスの介入が世界の時間を直接消費していたこと、ミアの存在が希薄化するのは管理者にとっての「最高品質の燃料」として精製される過程を示唆する。懐中時計の不穏な描写は、管理者の非情な本質を暗示している。

本作は、自己犠牲と真の救済、時間の本質と価値、そして記憶を超えて魂の繋がりが永続することの哲学を問う。善意の行動が皮肉にも世界の衰退を招くが、最終的には深い愛が運命を乗り越え、新しい希望を生み出す物語である。
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