記憶の笑顔

記憶の笑顔

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第一章 時の止まった笑顔

古いアルバムを開くたび、私の視線はいつも一枚の写真に釘付けになった。それは、私がまだ小学校に上がる前、家族四人で海辺を訪れた時に撮られたものだ。父が私の肩を抱き、弟は砂まみれになりながらピースサインをしている。皆、太陽の光を浴びて心底楽しそうな笑顔を浮かべているのに、母だけがどこか違う。口角は上がっているものの、その目は笑っておらず、まるで遠くを見つめているかのように焦点が合わない。あの不自然な笑顔は、私が物心ついた頃から、ずっと心に引っかかっていた謎だった。

「ねぇ、お母さん。この時の写真、どうしてそんな変な顔してるの?」

幼い私が尋ねると、母はいつも困ったように眉を下げ、ごめんねとだけ言って、曖昧に笑うのだった。父も弟も、その話題には決して深く触れようとせず、まるでその笑顔の謎が、私たち家族に課せられた不可侵の領域であるかのように。私は、それが母の隠された過去、あるいは私たちには知らされていない深い悲しみの証なのではないかと、漠然とした不安を抱き続けていた。葉山彩、28歳。デザイン事務所に勤める私は、忙しい日常の中でも、ふとあの写真の母の顔を思い出し、胸の奥に薄暗い影を感じていた。

最近、母の様子が少しおかしいことに気づいていた。お気に入りの花瓶をどこに置いたか忘れたり、つい先ほど話したばかりの友人の名前を思い出せなかったり。最初は些細な物忘れだと思っていた。年齢のせいだと、父も私も笑って済ませていた。しかし、その頻度が増すにつれて、私の胸に重い警鐘が鳴り響き始めた。

「お母さん、今日、おばあちゃんから電話があったよ。覚えてる?」

私が尋ねると、母は一瞬、顔色を曇らせた後、「ええ、もちろんよ。〇〇さんね」と、祖母の名前を間違えた。指摘すると、はっとした顔でごめんなさい、と力なく微笑んだ。その笑顔は、かつて写真で見たものと同じ、どこか不自然で、そしてひどく寂しげだった。

あの笑顔と、最近の母の物忘れ。点と点が、私の頭の中でゆっくりと繋がり始めようとしているような、不穏な感覚に囚われた。長年、心の奥底に沈んでいた問いが、再び水面に浮上し、私を捉えて離さなかった。母のあの笑顔は、一体何を隠しているのだろう?そして、それは今、何を示唆しているのだろう?私は、無性にその真実を知りたくなった。

第二章 隠された断片

私の探求は、静かに始まった。母が目を離した隙に、普段使っている手帳や、めったに開かない引き出しをそっと覗く。何を探しているのか、自分でも明確には分からなかった。ただ、あの不自然な笑顔と、最近の母の不調を結びつける、何か決定的な手がかりを見つけ出したい、という衝動に駆られていた。

ある日の午後、母が趣味の陶芸教室に出かけている間に、私は思い切って母の寝室のクローゼットの奥を調べてみた。父と母の思い出の品が詰まった段ボール箱の中に、一冊の古いノートを見つけた。それは、私が生まれる前の、まだ母が若い頃に書いていたらしい日記帳だった。表紙は色褪せ、ページも黄ばんでいたが、慎重に開いてみると、そこには若かりし日の母の、瑞々しい筆跡が残されていた。

しかし、読み進めるうちに、私の胸はざわつき始めた。ところどころのページが、まるで深い悲しみを隠すかのように、黒いインクで塗りつぶされているのだ。具体的な固有名詞や日付が判読できないよう、執拗に。それでも、かすかに読み取れる言葉の断片は、私の心を揺さぶった。

「失うことの恐怖」「笑顔の練習」「私がいなくなっても、この家族を守ってあげて」

特に「笑顔の練習」という言葉に、私は息を飲んだ。あの写真の笑顔は、やはり作り物だったのか。そして、「失うことの恐怖」とは、何を意味するのだろう?私がいなくなる?母は、一体何を恐れ、何から私たちを守ろうとしていたのだろう?

その夜、食卓を囲む家族の姿が、私にはいつもとは違って見えた。温かい湯気が立ち上る味噌汁、父と弟の弾むような会話、そしてその中で、時折遠くを見つめる母の瞳。皆、以前と変わらない穏やかな日常を演じているようだったが、私にはその背後に隠された、深い秘密の影を感じていた。父と弟も、母の物忘れに気づいているはずなのに、決してそのことには触れようとしない。まるで、触れてはならないタブーであるかのように。彼らの優しさは、私にはむしろ、母を守るための壁のように感じられた。私だけが、この秘密の淵で独り、暗闇を手探りで進んでいるような、孤独感に襲われた。

私は、あの笑顔の奥に隠された真実を、どうしても知らなければならない、と強く思った。それは、もはや私自身の平穏のためだけでなく、この家族の、そして母自身の尊厳を取り戻すための、切実な願いへと変わっていった。

第三章 真実の肖像

母の物忘れは、日を追うごとに悪化していった。数日前には、テレビに映る私の子どもの頃の写真を見て、「あら、この可愛らしい女の子は誰?」と、まるで他人事のように尋ねた。その時、私の胸は、凍りつくような冷たさに襲われた。もはや、些細な物忘れなどではなかった。それは、記憶が確実に、そして容赦なく、母の中から消え去っていく音だった。

「お父さん、母さんのこと、何か知ってるんでしょ?あの笑顔のこと、物忘れのこと、全部…」

その日の夕食後、私は意を決して、父の書斎に押し入るように問い詰めた。父は、私のただならぬ剣幕に、疲れたようにソファに腰を下ろし、深いため息をついた。

「彩。お前には、ずっと話すべきか迷っていたことだ。」

父の重々しい口調に、私の心臓は嫌な音を立てて波打った。

「お母さんは、若い頃に『遺伝性の記憶障害』の診断を受けていたんだ。」

その言葉は、まるで鋭い刃物のように私の胸を貫いた。遺伝性。私が生まれる前から、母はそんな病と闘っていたのか。私は言葉を失い、父の次の言葉を固唾を飲んで待った。

「母さんは、記憶が失われていくことに、誰よりも怯えていた。特に、大切な家族の思い出を忘れてしまうことが、一番怖いって。だから、写真に写る時、私たちに心配をかけないように、必死で笑顔を作ろうとしていたんだ。」

父の言葉は、まるで途切れることのない糸のように、私の中でバラバラだった情報の断片を繋ぎ合わせていく。

「あの日記にあった『笑顔の練習』って…」

「ああ、そうだよ。母さんは毎晩、鏡の前で笑顔の練習をしていた。忘れていく自分を責めながら、それでも家族の前では笑顔でいようと。あの笑顔はね、彩。家族に心配をかけないように、そしていつか忘れてしまうかもしれない自分自身と、大切な私たち家族を繋ぎ止めるための、精一杯の闘いの笑顔だったんだよ。」

私の脳裏に、これまでの家族写真の母の笑顔が、走馬灯のように蘇った。不自然で、どこか寂しげに見えたあの笑顔は、まさかそんなにも切実で、痛ましい願いが込められていたとは。私は、これまで母の笑顔に隠された秘密を、まるで探偵のように追い求めていた。しかし、その真実は、私の想像をはるかに超える、深く、そして悲しいものだった。私が感じていた漠然とした不安は、母が抱えていた絶望のほんの一部だったのだ。

そして、日記に塗りつぶされていたページ。父はそれをそっと取り出し、一部の塗りつぶしを剥がして見せた。そこには、震えるような筆跡でこう綴られていたのだ。「たとえ私の記憶が全て消え去っても、どうか家族の顔だけは、忘れたくない。愛する子どもたちの笑顔だけは、この胸に永遠に刻んでおきたい。」

私の価値観は、根底から揺らいだ。母を誤解し、その苦しみに気づかずに、ただ謎を追い求めていた自分が、ひどく愚かに思えた。家族は、母の病を知りながら、私たち子どもに負担をかけまいと、その秘密を守り、母を支え続けていたのだ。私は、家族の深く、そして静かな愛情に、今更ながらに気づかされた。そして、母の笑顔が持つ、真の意味を、ようやく理解することができたのだった。

第四章 永遠に刻む記憶

真実を知った夜から、私の母への眼差しは大きく変わった。これまで、不自然に映っていた母の笑顔は、今では私に、言葉にならないほどの深い愛情と、困難に立ち向かう強さを感じさせるものとなった。私は、母を誤解し続けてきた自分を深く恥じ、そして、これからは母の苦しみに寄り添い、共に生きていくことを決意した。

母の記憶障害は、緩やかに、しかし確実に進行していた。私の名前を呼ぶ時にも、一瞬の間が空くことが増えた。それでも、私は毎日、母に話しかけ、昔の思い出を語り聞かせた。アルバムを開き、写真に写る家族それぞれの顔を指差しながら、その時のエピソードを何度も繰り返した。母が、たとえ今日の内容を忘れてしまっても、その声の響きや、私の表情が、母の心に何らかの温かい感情を残してくれると信じて。

私は、デザインの仕事で培ったスキルを活かし、家族の思い出を一枚の大きな絵に描くことにした。それは、母がこれまで私たちに見せてきた、様々な表情の笑顔をコラージュしたものだった。時には少しぎこちなく、時には心からの喜びが溢れる笑顔。そして、その中心には、あの海辺で撮った写真の、不自然な笑顔があった。しかし、今やその笑顔は、私には悲しみではなく、家族を守ろうとした母の気高き愛の証として輝いて見えた。

ある穏やかな秋の日、私たちは久しぶりに家族写真を撮ることにした。場所は、母が特に気に入っていた、裏庭に咲くコスモス畑だった。母は、少しばかり顔に疲れが見えるものの、私の隣で穏やかに微笑んでいた。カメラのファインダー越しに、私は母の顔をじっと見つめた。その笑顔は、かつて写真で見たような、どこか張り詰めた不自然さはなく、ただ、そこにいることの喜びと、私たち家族への深い愛情に満ちていた。それは、記憶を繋ぎ止めようとする必死の闘いの笑顔ではなく、今この瞬間を、私たちと共に生きる喜びを表現する、真の意味で「自然な笑顔」だった。

シャッターが切られる瞬間、母は私の手をそっと握った。その温もりが、私の心にじわりと広がっていく。記憶は形を変えても、失われても、家族の心の中には永遠に刻まれる。私は、そう確信した。

母が、私の名前を呼ぶことすら難しくなっても、その瞳の奥には確かに私の存在を映している。私の手から零れ落ちていく記憶を、家族という名の絆で、ひたすらに拾い集めていく。この家族の物語を、私は未来へと語り継いでいく。失われた記憶の向こうに、確かに存在する愛の形を、いつまでも。

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