影喰らいの街と内なる光
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影喰らいの街と内なる光

第一章 剥がれた男と薄影の少女

俺、ユキには、人が人として見えない時がある。いや、むしろ逆か。人に見えすぎると言った方が正しい。肩書きや社会的地位といった、彼らが丹念に塗り重ねたメッキが、俺の目には砂のように剥がれ落ちて見えるのだ。敏腕と謳われる営業部長の姿は、承認を渇望する不安げな少年に。冷静沈着なエリート官僚は、規則の檻の中で震える小動物に。その能力のせいで、俺は社会という名の舞台でうまく踊れたためしがない。

この街では、存在の価値が「影」の濃さで決まる。社会に貢献し、役立つ人間であるほど、その影はアスファルトに焼き付いたように黒々と濃くなる。逆に、社会から無価値と見なされた者の影は、陽炎のように薄く、頼りない。影が完全に消え去った者は、物理的にも存在が希薄になり、やがて誰にも知られず消滅する。人々は、その恐怖に突き動かされるように、己の影を濃くすることに生涯を捧げていた。街には貢献度を計測するセンサーが張り巡らされ、その稼働音である低周波のハミングが、人々の焦燥を静かに煽っている。

ある日の午後、中央広場で俺はそれを見た。街で最も濃い影を持つと噂の市長が、演説の途中でふっと言葉を止め、糸の切れた操り人形のように立ち尽くしたのだ。彼の影は、地面にこびりついたインクのように濃い。だが、俺の目には見えていた。彼の分厚い「市長」というレッテルが音もなく砕け散り、その奥から現れたのは、空っぽの、ただ虚ろな空洞だった。感情も、意思も、何もかもが吸い出されたような抜け殻。群衆は彼の突然の沈黙に戸惑っていたが、その異様さの正体に気づく者は誰もいない。

俺はその場を逃げるように離れた。システムの頂点に立つ者が見せた崩壊の兆し。胸が悪くなるような感覚に、思わず路地裏へ駆け込む。壁に背を預け、荒い息を整えていると、不意に視線を感じた。

振り返った先に、一人の少女がいた。年の頃は十代半ばだろうか。着古したワンピースをまとい、その足元の影は、吐く息が白くなる冬の朝のように淡く、今にも消えてしまいそうだった。社会の物差しで測れば、彼女は「落伍者」だ。存在しないも同然の人間。

だが、俺の目には、彼女が誰よりも鮮やかに見えた。

剥がれ落ちるレッテルなど、彼女は初めから纏っていない。そこにあるのは、好奇心と、わずかな警戒心、そして澄み切った湖のような静かな自我そのものだった。彼女は、俺が今まで見てきたどんな人間とも違っていた。

「あの人、壊れちゃったの?」

少女が、広場の方を指さして呟く。その声は、風鈴のように涼やかだった。

「……そう、見えるのか」

「うん。だって、色がなくなったから」

色、と彼女は言った。この灰色の街で、俺以外の人間がその言葉を口にするのを、初めて聞いた気がした。

第二章 無価値なきらめき

少女はアヤと名乗った。彼女が住むのは、高層ビル群の影に隠された「掃き溜め地区」と呼ばれる場所だった。そこは、社会貢献の計測センサーが届かない、システムの埒外にあるスラムだ。住人たちの影は、誰もが頼りなく揺らめいていた。

しかし、その場所は奇妙な活気に満ちていた。壁には誰かが描いたであろう色鮮やかな花々の絵。どこからか、調子の外れた楽器の音が聞こえてくる。人々は貧しく、明日の食事にも事欠く暮らしをしているはずなのに、その表情には、中央広場の人々が失ってしまった人間らしい感情が息づいていた。彼らは笑い、怒り、そして悲しんでいた。

アヤは、瓦礫の山から拾い集めたガラクタで、小さな彫刻を作っていた。それは鳥のようでもあり、魚のようでもある、不思議な形をしていた。

「こんなものを作って、何になる」

かつての俺なら、そう切り捨てていただろう。社会の役に立たない、無価値な行為。影を薄くするだけの愚行だ。

「何にもならないよ」アヤはこともなげに言って、悪戯っぽく笑った。「でも、これを作ってると、胸のあたりがあったかくなるの。それだけじゃ、だめ?」

その言葉は、俺の中に深く突き刺さった。俺たちはいつから、「何かのため」でなければ、息をすることさえ許されなくなったのだろう。影を濃くするため、社会に貢献するため、消えないため。その目的のために、人々は自らの心を少しずつ削り、システムに差し出していたのではないか。

市長の一件以来、街では「成功者」たちが次々と人形になる事件が頻発していた。彼らは皆、最高の社会貢献指数を記録し、「模範市民」として賞賛された者ばかりだった。俺は、アヤの言葉をヒントに、事件の裏にある法則を探り始めた。そして、古い都市アーカイブの片隅で、ある伝説に行き着く。

『色を失った「影の鏡」』。

それは、社会的な価値や影の濃淡ではなく、その者の内なる「自我の輝き」だけを映し出すという。システムの黎明期に作られ、その危険性から封印された禁断の遺物。

「それ、見てみたい」

俺の話を聞いたアヤの目が、星のようにきらめいた。彼女の淡い影が、その瞬間、ほんの少しだけ輪郭を濃くしたように見えたのは、きっと気のせいではなかった。

第三章 灰色の鏡が映す真実

『影の鏡』は、都市の最下層、忘れ去られた旧時代の博物館の収蔵庫で静かに眠っていた。埃をかぶった鏡面は、くすんだ灰色で、何も映し出す気配がない。俺たちが近づくと、鏡はまるで目を覚ましたかのように、その表面を微かに揺らめかせた。

「怖い……でも、見なきゃ」

アヤが震える声で言う。俺は彼女の肩を抱き、二人でゆっくりと鏡を覗き込んだ。

鏡の中に、俺たちの姿は映らなかった。代わりにそこにあったのは、二つの光だった。俺の光は、静かに燃える青い炎のようだった。そしてアヤの光は、いくつもの色が混じり合った、万華鏡のような眩い輝きを放っていた。これが、俺たちの「自我の輝き」。社会的なレッテルも、影の濃淡も関係ない、ありのままの魂の色。

その時だった。背後から冷たい金属音が響き、複数の足音が俺たちを包囲した。

「禁制品の所持は、社会秩序への反逆と見なす」

現れたのは、都市の秩序を維持する「影の執行官」たちだった。彼らの影は、闇そのものを切り取ったかのように濃く、一切の揺らぎがない。その姿は威圧的で、完璧なシステムの番人に見えた。

だが、俺は見てしまった。鏡に映り込んだ彼らの姿を。

そこにいたのは、色のない、ただただ深い灰色をした空洞だった。光のかけらもない、完全な虚無。彼らは、社会に貢献しすぎた結果、自我の全てをシステムに喰われ、歩く影そのものになっていたのだ。

「鏡を渡せ!」

執行官の一人が、感情のない声で叫び、俺たちに飛びかかってきた。俺はアヤを庇い、鏡を固く抱きしめる。もみ合いになった瞬間、信じられないことが起きた。執行官の腕が、俺の身体をすり抜けたのだ。彼は驚愕に目を見開き、そして――ぴたり、と動きを止めた。市長と同じ、意思のない人形へ。過剰な貢献の果てに、最後の自我さえもシステムに吸い上げられ、彼はついに完全な抜け殻となった。

これが、真実。影の法則は、人々を幸福にするためのものではない。社会を効率的に運営するため、個人の意思を奪い、従順な部品に変えるための「自我統制システム」だったのだ。濃い影は、栄光の証などではない。魂を売り渡した奴隷の烙印だった。

第四章 夜明けの色

俺とアヤは、鏡を持って掃き溜め地区へ戻った。追っ手はいなかった。いや、意思を失った執行官たちには、もはや俺たちを追うという概念さえ存在しないのだろう。

地区の広場で、俺たちは鏡を掲げた。最初は訝しげに見ていた影の薄い人々も、鏡に映る自らの内なる輝きを見て、目を見開いた。ある者は涙を流し、ある者は呆然と立ち尽くし、そしてある者は、忘れていた歌を口ずさみ始めた。彼らは、社会から「無価値」と断じられ、自分自身さえそう信じ込んでいた。だが、鏡は示していた。君たちは、誰よりも鮮やかに「存在」しているのだ、と。

「影の濃さなんて、まやかしだ!」

俺は叫んだ。

「俺たちが生きている証は、地面に落ちる影じゃない! この胸の中で燃えている、自分だけの色だ! それを誰にも奪わせるな!」

その声は、小さなさざ波のように広がっていった。人々は顔を上げ、互いの顔を見た。そこにはもう、影の薄さを卑下する怯えはなかった。システムに回収されなかった「不要」な個性や自由意志。それこそが、人間が人間であるための最後の砦だったのだ。

数日後、街の景色は変わり始めていた。人々は貢献度を稼ぐための無意味な奉仕をやめ、本当にやりたいことを語り始めた。絵を描き、歌を歌い、ただ愛する人と寄り添う。そんな当たり前のことが、街に色彩を取り戻していく。システムの低周波のハミングはまだ鳴り続けているが、人々の笑い声や歌声が、それを少しずつかき消していくようだった。

俺はアヤと共に、朝日が昇る丘の上に立っていた。眼下に広がる街では、まだ多くの人形たちが虚ろに彷徨っている。失われた自我が戻ることはないのかもしれない。だが、その隣で、新しい命の芽吹きが確かに始まっていた。

俺の目には、もう人々のレッテルは映らない。ただ、無数の、色とりどりの光の点が、この街を満たしているのが見えた。孤独の象徴だったこの力は、今、新しい世界を照らす希望の光に変わろうとしていた。

俺たちは鏡を太陽に掲げる。灰色の鏡面が、夜明けの光を浴びて、虹色に輝いた。これから始まる物語は、きっと痛みも伴うだろう。それでも、俺たちはもう、影に怯えることはない。

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