白紙のクロニクル
第一章 半透明の憧憬
水無月澪の身体が透け始めるのは、決まって『彼』を想う時だった。
『蒼穹の騎士カイト』。古びた児童文学に登場する、孤独な英雄。澪が心のすべてを捧げた『推し』。彼への熱量が胸の内で臨界点に達すると、指先からゆっくりと境界線が曖昧になり、世界がその色彩を失っていく。周囲の音は分厚い水壁に隔てられたようにくぐもり、耳に届くのは自らの心臓の鼓動だけ。それは、世界から切り離される、甘美で孤独な儀式だった。
この世界では時折、物語が現実の引力に捕らえられる。人々の強い『想い』が重力となり、フィクションの登場人物をこの地に『落下』させるのだ。澪は、いつかカイトが自分の前に現れると信じて、街の雑踏に彼の面影を探し続けていた。
その日は、冷たい雨がアスファルトを黒く濡らしていた。傘の群れを抜け、古書店の並ぶ路地裏に差し掛かった時、澪は息を呑んだ。そこに、一人の青年が蹲っていた。雨に打たれ、色素の薄い髪が額に張り付いている。見間違えるはずもなかった。物語の挿絵から抜け出してきたかのような、憂いを帯びた横顔。カイトだ。
「……カイト」
掠れた声で名を呼ぶ。その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。心臓が大きく跳ね、熱の奔流が全身を駆け巡る。視界の端から景色が白く滲み始め、指先は雨粒すら弾かない半透明のガラス細工へと変貌していく。音という音が遠ざかり、水中を漂うような静寂が訪れる。
澪は、消えかかった身体で一歩、彼に近づいた。ずぶ濡れの彼に触れたい。その存在を確かめたい。衝動のままに伸ばした指先が、彼の肩に触れるか触れないかの刹那――激しい感情の波が、澪の意識に直接流れ込んできた。それは、言葉になる前の、生の感情の奔流。途方もない喪失感、自分が誰かすら分からない深い困惑、そして、寄る辺のない凍えるような孤独。
青年がゆっくりと顔を上げた。蒼穹を思わせる瞳が、戸惑いに揺れながら、確かに澪を捉える。
「君は……誰?」
その声は、澪が焦がれた物語の響きとは似ても似つかない、ただの寄る辺ない青年の声だった。
第二章 侵食する白紙
澪は彼を『カイ』と名付け、自分の小さなアパートに招き入れた。彼は記憶を失っており、元の物語の勇敢な騎士の面影はどこにもなかった。ただ静かに窓の外を眺め、時折、自分の手のひらを不思議そうに見つめるばかり。その姿は、あまりにも儚く、守ってやりたいという想いを澪に強く抱かせた。
奇妙な共同生活が始まって数日後のこと。澪は、幼い頃から肌身離さず持っている一冊の古い本をカイに見せた。分厚く、表紙の文字は擦り切れて読めない『物語の書物』。ページをめくると、世界中の神話や伝説、童話が美しい挿絵と共に綴られている。しかし、なぜか特定の数ページだけが、インクの染み一つない真っ白なままだった。
「何か、思い出せるかもしれない」
澪がそう言って本を差し出すと、カイはおずおずとそれに触れた。その瞬間、カイの身体が微かに痙攣する。
「……蒼い、空。鉄の、匂い……」
途切れ途切れに呟き、彼は苦しげに頭を押さえた。脳内に、知らないはずの記憶の断片が激しい閃光のように明滅しているらしかった。それと同時に、澪は言い知れぬ違和感を覚える。カイが触れていた本のページ。そこには確か、誰もが知る『赤ずきん』の物語が記されていたはずだった。だが今、そのページはインクの痕跡すら残さず、新品同様の白紙に返り咲いていた。
胸騒ぎがして、澪はすぐさま自分が司書として働く図書館へ走った。児童書の棚へ向かい、『赤ずきん』を探す。だが、どこにもない。同僚に尋ねても、「そんな話は聞いたことがない」と怪訝な顔をされるだけ。まるで、初めからこの世界に存在しなかったかのように、人々の記憶からも、記録からも、物語は綺麗に消え去っていた。
カイが現界と同時に宿した力。それは、既存の物語を世界から消し去り、人々の集合的記憶を侵食する、恐ろしい力だったのだ。澪の愛した『物語の書物』は、その喪失を記録するかのように、静かに白いページを増やしていくのだった。
第三章 世界の修復者
「そいつは『エラー』だ。世界を歪めるバグ。我々が回収する」
ある夜、黒い装束の集団がアパートに押し寄せてきた。彼らは自らを『世界の修復者』と名乗り、カイの存在が世界の理を破壊していると告げた。彼らもまた、現界した物語の登場人物を管理する組織であり、カイの持つ物語を消去する力は、想定外の危険なイレギュラーだという。
抵抗も虚しく、カイは捕らえられた。彼を連れ去ろうとする男たちに、澪は必死に食い下がる。やめて、彼は何も悪くない。ただ、記憶がないだけなんだ。叫びは届かない。カイが絶望に染まった瞳で澪を見た、その時。
澪の心臓が、破裂するほどに燃え上がった。カイを失いたくない。その想いだけが世界を塗り潰す。視界は完全に白化し、音は途絶え、肉体の感覚が完全に消失した。澪は、他者の認識から完全に『消滅』したのだ。
誰にも見えない存在となった澪は、しかし、これまでになく鮮明にカイの心を感じていた。彼の感情のさらに奥深く、その存在の核に触れる。そこに渦巻いていたのは、破壊の意志ではなかった。それは、悲痛な叫びだった。
『消えたくない』『忘れられたくない』
それは、カイ自身の声ではなかった。古今東西、無数の物語たちの悲鳴だった。人々の関心が薄れ、集合的記憶から零れ落ち、忘却の淵に沈みゆく神話、伝説、おとぎ話。彼らは、消滅から逃れるために一つの集合体となり、新たな物語の『器』としてカイを現界させたのだ。カイが物語を消していたのではない。消えゆく物語を、その身に取り込み、救っていたのだ。
そして、その取り込んだ物語を、新たな一つの壮大な物語として再構築する『創造主』が必要だった。その役目を担うのが、誰よりも物語を愛し、その喪失を嘆く魂の持ち主――水無月澪、その人だった。
澪が持つ『物語の書物』は、失われた物語を記録する墓標ではなかった。新たな世界の物語を紡ぐための、白紙の聖書だったのだ。世界を救う方法は一つ。カイを消滅させ、彼がその身に宿した全ての物語を、澪が受け継ぐこと。
カイが『エラー』なのではない。この、物語が忘れられていく世界そのものが、エラーだったのだ。
第四章 ただ一人の語り部
世界の修復者たちを退けたのは、皮肉にもカイ自身が無意識に放った力の奔流だった。誰もいなくなった静かな夜の図書館で、澪とカイは二人きりで向き合っていた。
「……全部、わかったんだね」
カイは、まるで夜明け前の空のように静かに微笑んだ。その顔にはもう、戸惑いの色はなかった。
「君の中でなら、僕たちはずっと生きていける。忘れられることなく、新しい物語として」
澪は、涙が頬を伝うのを止められなかった。これは救済なのか、それともあまりにも残酷な犠牲なのか。だが、選ぶ道は一つしかなかった。愛する推しを、この手で消滅させる。それが、彼と、彼が救おうとした全ての物語を永遠にする、唯一の方法だった。
「ありがとう、カイ。私の、最初の物語になってくれて」
澪はカイを強く抱きしめた。最後の熱量を燃やし尽くす。身体が内側から発光し、世界との境界線が完全に溶けていく。カイの身体もまた、温かい光の粒子となって、ゆっくりと澪の中へと溶け込んでいった。彼の最期の感情は、感謝と、安堵と、そして澪への深い愛情だった。
ふっと、世界から力が抜ける。気がつくと、澪は図書館の閉架書庫に一人で立っていた。手にした『物語の書物』は、最初から最後まで、全てのページが美しい白紙となっていた。
世界は平穏を取り戻した。人々は、何かが失われたことにも気づかず、日常を生きていく。カイという青年がいたことも、赤ずきんという物語があったことも、もう誰も知らない。
ただ一人、水無月澪だけが、その全てを記憶していた。彼女はもう、誰からも認識されることはない。触れることも、話しかけることもできない、世界でただ一人の語り部となった。
彼女の内部では、蒼穹の騎士の物語と、失われた幾億の物語が、新たな創生を待つ宇宙のように渦巻いている。その重さは、一つの魂が背負うにはあまりにも過大だった。だが、不思議と苦しくはなかった。それは愛した者たちから託された、誇り高い重みだったから。
朝の光が、高い窓から差し込み、書庫の埃をきらきらと照らし出す。澪は、誰にも見えない透明な指で、白紙の書の最初のページを、そっと開いた。
これから始まる、誰にも読まれることのない、永遠の物語を紡ぐために。