ゼロの選択
第一章 幻影のピアニスト
俺の呪いは、選ばなかった過去を現実の断片として蘇らせる。それは甘美な毒薬だ。目を閉じれば、今とは違う人生の香りが鼻腔をくすぐり、瞼の裏には、あり得たはずの自分が鮮やかに映し出される。
今夜の幻影は、ピアニストになった俺だった。薄暗いジャズバーのステージ、スポットライトに照らされたグランドピアノの前に座り、鍵盤の上を滑る自分の指先を眺めている。バーボンが香る空間に、俺が弾いているとは思えないほど官能的で、どこか物悲しいメロディが溶けていく。だが、奇妙な違和感が背筋を走った。俺は、こんな哀しい曲を知らない。そもそも、俺は幼い頃にピアノを挫折したし、好きな酒はジンだったはずだ。幻影の中の俺が嗜むバーボンの味は、知らない大人の味だった。
「…またか」
幻影が霧散すると同時に、ずしりと重い疲労が全身を打ち据える。現実の俺は、埃っぽい自室のベッドに横たわっているだけ。窓の外では、街を蝕む『停滞の霧』が、街灯の光をぼんやりと滲ませていた。人々が選択を諦めるたびに濃くなるというこの霧は、記憶を奪い、過去の亡霊を呼び寄せる。霧に完全に心を食われた者は『忘却者』となり、自我を失うのだという。
枕元のサイドテーブルに置かれた、空っぽのフォトフレームが目に入った。母親が遺した唯一の形見だ。俺が幻影の追体験を終えるたび、このフレームには、選ばれなかった人生を歩む『もう一人の俺』と、幸せそうに微笑む母の姿が、陽炎のように一瞬だけ浮かび上がる。
今も、フレームの中にピアニストの俺と母が写っていた。しかし、そこに写る『俺』は、今の俺より少しだけ大人びて見える。そして、なぜだろう。その笑顔は、幸福であるはずなのに、泣いているように見えた。
『すべての選択は、もう一つの自分を殺すこと』
幼い俺を置いて消えた母が遺した、呪いのような言葉。その言葉の意味を、俺はこの空っぽのフレームと、日に日に濃くなる霧の向こうに探し続けていた。
-----
第二章 忘却者の街
霧は、街の古い地区ほど濃かった。そこは、選択の機会すら忘れ去られた者たちが集う場所だ。俺は母の足跡を辿り、錆びついたアーケード街へと足を踏み入れた。湿ったコンクリートの匂いと、どこからか聞こえる古びたラジオの音が混じり合い、時間の感覚を曖昧にさせる。
道の端で、虚ろな目をした老婆が空を見上げていた。彼女の口元がかすかに動いている。「もしあの時、あの船に乗っていたら…」。彼女は『忘却者』になりかけているのだ。彼女の周りには、船乗りになったであろう、逞しい男の亡霊がゆらりと佇んでいた。選ばれなかった可能性の亡霊が、現実の人間を霧の中へと引きずり込もうとしている。
俺はアーケードの奥にある、今は廃墟となった母のアトリエにたどり着いた。ドアを開けると、乾いた絵の具と古い紙の匂いが、封印された記憶を呼び覚ますかのように鼻をついた。床には、描きかけのキャンバスが何枚も散らばっている。その中に、一枚のスケッチがあった。見知らぬ異国の港町。その力強く、それでいて繊細なタッチに、俺は息を呑んだ。
その夜、俺は強烈な幻影に襲われた。画家になった俺が、陽光溢れるアトリエでキャンバスに向かっている。窓の外には、あのスケッチと全く同じ港町が広がっていた。俺の手は、まるで熟練の職人のように滑らかに動き、鮮やかな色彩をカンバスに乗せていく。その絵のタッチは、紛れもなく、母のものだった。
幻影から覚め、フォトフレームを掴む。そこには、ベレー帽を被った画家の俺と、誇らしげに寄り添う母の姿が浮かんでいた。その『俺』の目は、深い叡智と、どこか諦観を宿しているように見えた。今の俺にはない、何かを知っている目だった。なぜ、幻影の中の俺は、母と同じ絵を描けるのだろう。なぜ、写真の中の『俺』は、いつも俺より少しだけ、人生の先輩のような顔をしているのだろう。
母の言葉が、脳内で不気味に反響した。
『すべての選択は、もう一つの自分を殺すこと』
――殺されたのは、本当に『もう一人の自分』だったのだろうか。
-----
第三章 根源の選択
すべての答えは、母が最後にいた場所に違いない。俺は、家族で暮らした古い家に向かった。今はもう誰も住まず、停滞の霧が最も濃く渦巻く場所となっている。家の扉を開けた瞬間、濃密な霧が俺の意識を奪いに来た。
そして、俺は『究極の幻影』を見た。
それは、俺が存在しない世界だった。
母は若く、才能に溢れ、世界中を旅する自由な芸術家だった。彼女の周りにはいつも人が集まり、その笑顔は太陽のように輝いていた。孤独も、貧しさも、絶望もない。俺を育てるために諦めた、数多の夢をすべて叶えた、完璧な人生。
その幸福な光景は、俺の心をナイフのように抉った。
「ああ……そうか…」
声が漏れた。嗚咽が続いた。
俺が生まれなければ、母さんは、こんなにも幸せだったのか。
俺の存在が、母の人生を奪ったのか。
絶望が俺を霧の底へと引きずり込もうとした、その時。家の片隅で、母が遺した最後の日記が淡い光を放った。震える手でそれを開く。インクが滲んだ、最後のページ。
『あの子を産むか、産まないか。私の人生で、最大の選択。もし産まなければ、私は自由になれる。夢を追える。でも、もし産めば――私は、この腕にあの子を抱ける。あの子の笑顔を見られる。どちらかを選べば、もう一人の私は死ぬ。ああ、でも。私は、あなたに会いたい』
全身に電撃が走った。
そういうことだったのか。俺が見ていた幻影は、俺自身の『選ばれなかった可能性』ではなかった。あれはすべて、母が経験した人生の分岐点。ピアニストの夢を諦めたのも、画家になる道を捨てたのも、すべて母だったのだ。
そして、呪いの根源は、母が俺を産むと決めた『究極の選択』。
『すべての選択は、もう一つの自分を殺すこと』
母は、『俺を産まない人生』という、輝かしいもう一人の自分を殺して、俺を選んだ。その罪悪感が呪いとなり、殺したはずの『もう一人の自分』の幸福な人生を、幻影として見せつけ続けた。そしてその呪いは、母の選択の『結果』である俺へと、そのまま受け継がれたのだ。母が消えたのは、数多の幻影に耐えきれず、ついに『俺のいない世界』へと囚われてしまったから。
フォトフレームに浮かぶ、数々の幸せそうな『もう一人の俺』。あれは、『俺』ではない。もし母が違う選択をしていたら生まれていたかもしれない、俺の『あり得たかもしれない兄弟』の姿だったのだ。そして、その写真に父の姿がなかったのは、この選択が、父と別れた後の、母一人の決断だったから。
「母さん…」
すべてを理解した時、俺の心は不思議と凪いでいた。絶望は消え、ただ一つの、澄み切った決意だけが残されていた。
-----
第四章 ゼロの選択
世界を、そして母を救う方法は、一つしかない。
すべての始まり、呪いの根源となった『選択』そのものを、無に帰すこと。
母の心の中から、『俺を産む』という選択肢を消し去ることだ。
それは、俺という存在が、この世に生まれてきたという事実そのものを消滅させることを意味する。誰の記憶からも、記録からも、俺は消える。
それでいい。いや、それがいい。
母が俺を想う罪悪感から解放されるのなら。世界が停滞の霧から救われるのなら。
俺の短い人生は、そのためにあったのだと思えた。
俺は最後の力を振り絞り、意識を集中させる。時空を超え、若き日の母の魂へと語りかける。
悩まないで、母さん。
苦しまないで。
あなたは、何も諦める必要はないんだ。
あなたのキャンバスは、世界そのものなのだから。
俺は、母の中から『俺』という存在の可能性を、そっと摘み取った。
世界が、真っ白な光に包まれていく。
ありがとう、母さん。
俺を産む選択をしてくれて。
短い間だったけど、あなたの息子で、幸せだったよ。
意識が薄れる中、最後に聞こえたのは、遠い昔に聞いた、優しい子守唄だった。
***
世界から、停滞の霧は消え去った。人々は再び未来を選び、街には活気が戻った。
海辺のアトリエで、世界的に有名な一人の画家がキャンバスに向かっている。彼女の人生は、何一つ不自由のない、輝かしいものだった。誰もが彼女の才能を讃え、その自由な生き方を羨んだ。
しかし、彼女は時折、理由のわからない、胸が張り裂けそうな喪失感に襲われることがあった。
その夜も、彼女はアトリエの窓から夜空を見上げていた。無数の星々の中で、ひときわ強く輝く一つの星に、なぜか目が引き寄せられる。
その星を見ていると、訳もなく涙が頬を伝った。
「……誰かを、忘れているような気がするの」
その呟きは、夜の静寂に溶けて消えた。
彼女が愛した息子の存在も、息子が彼女を救うために自らを消したという悲しい真実も、もう誰も知らない。
ただ、空に輝く星だけが、かつてそこに在った、一つの確かな愛の証のように、静かに瞬いていた。