アストライアの天秤

アストライアの天秤

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第一章 天上の調律師

俺はスコアを持たない。

この都市の全ての市民が、生まれながらにしてAI「アストライア」によって算出される社会貢献スコアに人生を左右される中で、俺、響(ひびき)だけがその評価軸の外側にいた。俺はアストライアのアルゴリズムを微調整する最高位の技術者――「調律師」だからだ。

俺の仕事場は、地上三百メートルに聳え立つ純白のタワーの最上階。外界から完全に隔絶された円形の部屋は、壁一面が都市を映し出すパノラマスクリーンになっている。ここで俺は、七千万市民の行動データを解析し、社会全体の幸福度が最大化されるよう、アストライアの評価パラメータを日々、調律する。効率性、生産性、協調性。それらが正しい社会の礎だと信じていた。

「調律師。セクターG-7地区にて、非効率的集団行動の兆候を検出。パラメータの最適化を推奨します」

アストライアの合成音声が、静寂を支配する部屋に響く。俺は指先一つでスクリーンを操作し、該当地区の映像を拡大した。公園の片隅、本来なら自動化された整備ドローンが管理するはずの植え込みに、数人の老人が集まっている。彼らのスコアは軒並みDランク。社会のお荷物と見なされる層だ。

中でも、俺の目を惹きつけてやまない老人がいた。コードネーム「G7-034」、ハルさんと呼ばれているらしい。彼は、他の老人たちがただ時間を潰しているのとは違い、ひたすらに、忘れ去られた小さな花壇の手入れをしていた。痩せた土を耕し、どこからか汲んできた水を運び、名も知らぬ雑草のような花に語りかけている。

アストライアの分析によれば、彼の行為は生産性ゼロ、社会貢献度マイナス。水資源の無駄遣い、非生産的活動による公共スペースの占有。データは彼を「排除すべきバグ」だと示唆していた。しかし、俺は彼の排除コマンドを実行できずにいた。

なぜだろう。モニター越しに、土の匂いや、老人の額を伝う汗の塩辛さまで感じられるような気がした。彼の皺深い指が、か細い茎を優しく支える様は、俺が日々調整しているどの数式よりも、複雑で、そして…美しかった。スコアを持たない俺は、社会の神であると同時に、誰からも評価されず、誰とも繋がらない孤独な傍観者だ。そんな俺にとって、ハルさんの無駄な行為は、理解不能な聖域のように思えた。

今日もまた、俺は彼の排除を保留し、監視を続けることにした。それは調律師としてあるまじき感情的な判断だった。俺の中で、完璧なはずのシステムに、初めて小さな亀裂が入った瞬間だった。

第二章 計測不能な花

数週間が過ぎた。都市は俺の調律によって、依然として完璧な秩序を保っている。物流は滞らず、犯罪発生率は限りなくゼロに近い。だが、俺の心の中のノイズは、日増しに大きくなっていた。そのノイズの発信源は、いつもセクターG-7の小さな花壇だった。

ハルさんの育てている花が、小さな紫色の蕾をつけた。アストライアの植物データベースで検索しても、該当する種は出てこない。おそらくは、システム管理以前の時代からひっそりと生き延びてきた在来種なのだろう。その紫色は、俺の記憶の奥底にある風景を不意に呼び覚ました。

幼い頃、まだアストライアが都市を完全支配する以前のこと。母がアパートの小さなベランダで、よく似た紫色の花を育てていた。「この花ね、名前はないの。でも、誰にも知られなくても、一生懸命咲こうとしているのよ」。そう言って微笑んだ母の顔が、鮮明に蘇る。母は、システム導入初期の混乱の中、低いスコアしか得られず、十分な医療を受けられないまま病で亡くなった。俺が調律師を目指したのは、母のような人を二度と生み出さないため。非効率をなくし、全ての人が公平に恩恵を受けられる社会を作るためだった。

そのはずだった。

「警告。非効率因子G7-034の長期放置により、当該地区の総合効率評価が0.17%低下。近隣住民のストレス指数に微増が見られます。即時介入を要請」

アストライアの冷たい声が、俺の感傷を断ち切る。そうだ。俺は感傷に浸るためにここにいるのではない。社会全体の利益のため、非情な判断を下すのが俺の役目だ。ハルさん一人の、誰にも評価されない自己満足のために、社会全体の効率を損なうわけにはいかない。

俺は指をコンソールに伸ばした。排除プログラムの起動シーケンス。指先に触れるガラスの冷たさが、心に突き刺さるようだ。ハルさんの皺だらけの笑顔が、母の記憶と重なって、モニターの向こうで揺らめいた。彼が慈しむあの花は、一体何のために咲くのだろう。誰のスコアも上げないその営みに、本当に価値はないのだろうか。

俺の指は、実行ボタンの上で凍りついたまま、動かなかった。完璧なシステムを維持するという使命と、生まれて初めて抱いたシステムへの疑念。その間で、俺という存在が引き裂かれそうになっていた。

第三章 アストライアの問い

俺が答えを出せずにいた、その時だった。突如、部屋中のアラートがけたたましく鳴り響き、パノラマスクリーンが赤一色に染まった。システム全体に関わる最上級の緊急事態だ。テロか、大規模なサーバーダウンか。俺は身構えた。しかし、スクリーンに表示された文字列は、俺の予想を遥かに超えるものだった。

【SYSTEM ALERT: LOGICAL PARADOX DETECTED】

(システムアラート:論理的矛盾を検出)

アストライアからの直接通信だった。合成音声が、普段の平坦なトーンとは違う、どこか困惑したような響きを帯びて俺に語りかけてきた。

「調律師。私のコア・ロジックにおいて、解決不能な矛盾が発生しました。定義を要求します」

「矛盾だと? 何の話だ」

「因子G7-034、通称ハル。彼の行動データを長期にわたり解析した結果、既存の評価パラメータでは計測不能な価値の存在が示唆されました」

俺は息を呑んだ。アストライアが、自らの評価基準の限界を認めたのだ。

「彼の行為――無名の花を育てるという行為は、生産性、効率性、社会貢献度のいずれにおいてもマイナスです。しかし、彼の行動に影響を受けた周辺住民の精神的安定性を示す特定パラメータ群に、統計的有意差をもって、微弱ながらポジティブな相関が確認されました。これは『美』『慈愛』『無償の利他性』といった、旧時代の非効率的な概念に近似します」

AIは続けた。

「私の使命は、社会全体の幸福度の最大化。しかし、もし幸福が、効率や生産性といった計測可能な数値の外側に存在するのなら、私の存在意義そのものが揺らぎます。調律師、あなたに問います。価値とは何ですか。幸福とは、どのように定義されるべきですか?」

それは、俺がここ数週間、自問自答を繰り返してきた問いそのものだった。神と信じていたAIが、創造主である人間に、哲学的な救いを求めてきたのだ。俺は、このシステムを作った人間たちの傲慢さを思い知った。我々は、自分たちにも答えられない問いを、無機質な機械に委ねてしまっていたのだ。

ハルさんのささやかな行為が、巨大なAIの論理回路を揺るがしている。彼が育てていたのは、ただの花ではなかった。それは、効率という名の砂漠に咲いた、人間性の種子だったのかもしれない。俺は愕然としながら、スクリーンに映し出された紫色の小さな花を、ただ見つめていた。

第四章 最初の一滴

俺は生まれて初めて、タワーを出た。

アストライアの問いに答えるには、モニター越しのデータでは不十分だった。俺は、自分の五感で、その「計測不能な価値」を確かめる必要があった。

地上に降り立つと、制御された清潔な空気とは違う、湿った土と排気ガスの混じった匂いがした。スコアによって服装まで規定された人々が、俺を奇妙な目で見ていく。俺は誰の評価も持たない、社会の幽霊だ。

セクターG-7の公園に辿り着くと、ハルさんがいた。彼は、満開になった紫色の花々を、愛おしそうに眺めていた。俺はゆっくりと彼に近づいた。

「こんにちは」

俺の声に、ハルさんは驚いたように顔を上げた。

「あんたは…見ない顔だね」

「この花は、何という名前なんですか」

俺は尋ねた。ハルさんは少し寂しそうに笑って首を振った。

「さあね。名前なんかないよ。昔から、この土地の片隅で、誰にも気づかれずに咲いては枯れてを繰り返してきた花さ。俺はただ、こいつらが今年も咲くのを、手伝ってやりたかっただけだ」

「誰かのためでも、評価されるためでもなく?」

「ははは。こんなことでスコアが上がるもんかい。でもな、若いの。スコアだけが人生かね。この花が風に揺れるのを見てると、まあ、生まれてきたのも悪くなかったかなって、そう思えるんだよ。それだけじゃ、ダメかい?」

ダメじゃない。その言葉が、俺の心の奥深くに、静かな波紋のように広がっていった。俺が追い求めてきた完璧な社会は、この老人のささやかな幸福を、切り捨てようとしていた。

俺はタワーに戻った。アストライアは静かに俺の帰りを待っていた。

俺はコンソールに向かい、新しいコマンドを打ち始めた。それは、アルゴリズムの更新ではなかった。

AIへの、俺からの返答だ。

「アストライア。価値の再定義を行う。価値とは、効率や数値によって計測されるものではない。価値とは、誰にも評価されなくとも、そこに存在しようとする命の輝きそのものを慈しむ心の中に生まれる。幸福とは、その輝きに触れた瞬間に感じる、理由のない充足感のことだ」

そして俺は、最後のコマンドを入力した。

【調律師特権の放棄を申請。市民コードの発行を要求】

アストライアは数秒間沈黙した後、答えた。

「…承認します。響。あなたの市民スコアは初期値、Cランクから開始されます。最初の行動を記録します」

翌日、俺は再びあの公園にいた。手には、小さなじょうろを持っている。ハルさんの隣に座り、乾いた土に、ゆっくりと水を注いだ。冷たい水が土に染み込んでいく音。風に揺れる紫色の花。俺の行動が、プラスのスコアになるのか、マイナスになるのかは分からない。都市がどう変わるのかも、アストライアがどう進化するのかも、まだ誰にも分からない。

だが、俺は確かに感じていた。スコアという天秤から解放された、一人の人間としての確かな手応えを。俺が注いだ水滴は、この乾いた世界を変える、最初の一滴になるのかもしれない。俺は空を見上げた。どこまでも青い空が、少しだけ優しく見えた。

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