幸福の引力
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幸福の引力

第一章 半透明の街

カイの目には、世界は二重に映っていた。ひとつは、くっきりと輪郭を結び、色彩豊かに存在する世界。もうひとつは、その背後に霞むように揺らめく、半透明の世界だ。高層区画を歩く人々は、仕立ての良い衣服の生地の質感まで見て取れるほどに鮮明だった。彼らの足取りは驚くほど軽く、まるで重力からほんの少しだけ解放されているかのようだった。幸福度が可視化されたこの世界で、彼らは紛れもない成功者だった。

だが、カイが路地裏に一歩足を踏み入れると、風景は滲んでいく。壁の染みも、地面に転がるゴミも、そしてそこに生きる人々も、皆がおぼろげな輪郭しか持たなかった。彼らは、まるで雨の日の窓ガラス越しに見る景色のようだった。カイの目には、彼らが半透明に見えるのだ。社会階層が低いほど、その存在は希薄になる。それが、カイに与えられた呪いにも似た視覚だった。

彼らの足元には、一様に鈍色の枷が嵌められていた。個人の『幸福度』に応じて重さを変えるその枷は、不幸な者ほど重く、地面に深い擦り傷を刻みながら引きずられていく。ガシャ、ガシャ、という金属音は、この街の低層区画に絶えず響く通奏低音だった。カイは、自身の中途半端な存在感にいつも苛まれていた。彼は貧民街の生まれでありながら、今は中流区画で暮らしている。彼の視界に映る人々は、鮮明でもなく、完全な半透明でもない。その曖昧さが、彼を孤独にしていた。

第二章 地に沈む声

「お願い、兄さんを助けて」

湿った路地の壁に寄りかかっていたカイの前に、小さな影が立った。リナと名乗るその少女は、カイが見てきた誰よりも希薄な、ほとんど向こう側が透けて見えるほどの存在だった。彼女の小さな体には不釣り合いなほど重い枷が、地面のアスファルトをわずかに陥没させていた。

「『沈降病』なの。日に日に重くなって、もう胸まで……」

リナの声は、風に掻き消されそうなほどか細かった。沈降病。最近、低層区'画で囁かれ始めた絶望の病だ。幸福度が異常な速度で低下し、自らの重さで地面に沈んでいく。富裕層はそれを「自己管理の欠如」と断じ、メディアは個人の怠惰が原因だと報じていた。

カイはリナに導かれ、彼女の住むバラックの最奥へと足を踏み入れた。澱んだ空気と黴の匂いが鼻をつく。部屋の中央、床板を突き破って、一人の青年が肩まで地面に埋まっていた。苦悶に歪む彼の顔は、土と一体化しかけている。彼はもはや半透明ですらなく、ただの濃い影のようだった。兄の口から漏れるのは、言葉にならない呻きだけ。その重さが、部屋全体の空気を歪めているように感じられた。

カイは拳を握りしめた。これは怠惰の病などではない。これは呪いだ。見えざる手によって、社会の底辺にいる者たちから存在そのものを奪い去ろうとする、静かな虐殺だ。半透明の人々の沈黙の叫びが、彼の鼓膜を震わせた。

第三章 均衡の秤の伝説

カイは中央図書館の古文書保管室に忍び込んだ。埃っぽい羊皮紙の匂いが立ち込める中、彼はこの世界の成り立ちに関する記述を探した。幸福度と重力が連動するシステムは、大昔からあったわけではない。「大調和」と呼ばれる時代に、社会の安定のために導入された人工的な法則らしい。

その中で、彼は奇妙な記述を見つけた。『均衡の秤』。システム導入以前、古代の民が人々の公正さを測るために使ったとされる伝説の遺物。それは物理的な重さだけでなく、目に見えない『心の重さ』――すなわち、罪悪感や悲しみ、そして偽りの幸福さえも正確に測ることができたという。

「その秤なら、塔にあるかもしれないね」

カイの背後から、しわがれた声がした。リナの祖母だ。彼女は若い頃、中央塔の清掃員として働いていたという。

「塔の最下層に、誰も入れない古い部屋があった。そこから、時々、優しい光が漏れていたのを覚えているよ。管理者の連中は『塔の心臓』と呼んでいた」

中央塔。この世界の幸福度を管理するシステムの根幹。鮮明な世界の象徴であり、半透明の者たちにとっては決して近づくことのできない聖域だ。しかし、そこに沈降病の謎を解く鍵があるのなら、行くしかない。カイとリナは、互いの顔を見合わせた。危険な賭けだったが、沈んでいく人々を前にして、立ち止まるという選択肢はなかった。

第四章 塔の心臓部

中央塔への潜入は困難を極めた。警備兵の鮮明な視線を避け、監視システムの死角を縫うようにして、カイとリナは最下層を目指した。冷たく滑らかな壁を伝い、換気ダクトの金属音に息を潜める。幾多の扉を抜け、ついに二人は古びた石造りの部屋にたどり着いた。

部屋の中央には、黒曜石の台座に載せられた巨大な天秤が鎮座していた。金とも銀ともつかない未知の金属でできており、周囲の闇を吸い込むようにして、自ら淡い光を放っている。これが『均衡の秤』。

カイは恐る恐る、その片方の皿に手を触れた。

その瞬間、世界が反転した。無数の光の線がカイの脳を貫き、システムの全ての情報が奔流となって流れ込んでくる。彼は見た。この世界の真実を。幸福度システムは、人々の幸福を測る装置などではなかった。それは、搾取のシステムだった。

半透明の人々が生み出す『不幸』や『絶望』という負の感情エネルギー。システムはそれを吸い上げ、凝縮し、純粋な『軽さ』のエネルギーに変換していた。そして、そのエネルギーは富裕層へと供給されていたのだ。鮮明な者たちの軽やかな足取りは、半透明の者たちの重い枷によって支えられていた。貧者の重さが、富者の軽さを生み出していた。

そして、沈降病。それはシステムの暴走などではない。より効率的に不幸のエネルギーを搾取するため、システムが意図的に引き起こしている強制的なプロセスだった。人々を地面に沈めることで、極限の絶望を引き出し、それを根こそぎ吸い上げていたのだ。

第五章 管理者の正義

「ようやくたどり着いたか、イレギュラー」

背後から響いた静かな声に、カイは我に返った。そこに立っていたのは、カイが今まで見た誰よりも鮮明な男だった。肌の毛穴一つ一つまで見えそうなほどの圧倒的な存在感。システムの最高管理者、アルトリウスだ。

「全て知ったようだな。ならば話が早い」

アルトリウスは、まるで旧知の友人に語りかけるように続けた。

「このシステムがなければ、世界はどうなると思う?人々は際限のない欲望と嫉妬に身を焦がし、互いに傷つけ、奪い合う。感情という名の混沌が全てを飲み込むだろう。この重力こそが、社会を律する唯一の秩序なのだ。少数の犠牲は、全体の安定のために必要なコストだよ」

彼の瞳は、揺るぎない信念に満ちていた。彼は悪人ではない。彼自身の正義を、世界の均衡を、心から信じているのだ。アルトリウスが指を鳴らすと、カイの目の前に幻影が広がった。重さから解放された人々が、狂ったように笑い、泣き、殴り合う、地獄のような光景だった。

「君が秤を壊せば、この未来が訪れる。それでも、君は解放を望むのか?」

搾取され続ける安定か、予測不能な混沌を伴う解放か。究極の選択を前に、カイの心は激しく揺れた。

第六章 重力の解放

カイの脳裏に、地面に沈むリナの兄の顔が浮かんだ。アスファルトに刻まれた無数の擦り傷、重い枷を引きずる人々の絶望的な足音。偽りの秩序の上で成り立つ軽さなど、ただの虚構だ。

「あんたの言う安定は、ただの檻だ」

カイはアルトリウスを真っ直ぐに見据えた。

「偽りの空を軽く飛ぶくらいなら、俺は、俺自身の足で、重くてもこの大地を踏みしめたい」

カイは振り返り、均衡の秤にもう片方の手を置いた。そして、ありったけの意志を込めて、システムの破壊を願った。秤は眩い光を放ち、甲高い音を立てて砕け散った。

その瞬間、世界から『重さ』が消えた。

カイの足元から、リナの足元から、枷が音もなく消え去る。世界中の人々が、数十年間、あるいは生まれながらにその体を縛り付けてきた重力から解放された。貧民街では、沈降病で沈んでいた人々が、まるでコルク栓のように地面から浮かび上がる。歓喜の叫びが空に響き渡った。

だが、それは祝福だけではなかった。重さと共に、人々を抑圧していた感情の箍も外れた。隠されていた嫉妬、憎悪、欲望が剥き出しのまま噴出し、街のあちこちで衝突が起きる。一方で、これまで他人の不幸を糧に軽さを享受していた富裕層は、エネルギーの供給を断たれ、経験したことのない虚無感と精神的な重さに襲われていた。世界は、歓喜と狂気が入り混じった、巨大な坩堝と化した。

第七章 新しい地平線

カイとリナは、破壊された中央塔の瓦礫の上から、変わり果てた街を見下ろしていた。空は夕焼けに染まり、世界の輪郭はどこまでも鮮明だった。カイの目には、もう誰も半透明には見えなかった。全ての人間が、等しい存在感を持ってそこにいた。

「すごい……みんな、浮いてるみたい」

リナが呟いた。彼女の足取りも、驚くほど軽い。

だが、その視線の先では、人々が些細なことで言い争い、殴り合っていた。解放は楽園をもたらさなかった。

「重かったけど」リナはカイを見上げた。「あの頃は、誰が本当に苦しんでいるか、その人の重さを見ればわかった。でも今は、誰の心にも見えない重りがあるのに、それが誰にも見えない」

その言葉は、カイの胸に深く突き刺さった。確かに、世界は平等になった。だが、共感の指標だった『重さ』を失った人々は、他人の痛みに鈍感になっているのかもしれない。

カイは、混沌に満ちた街並みを見渡した。奪い合う者たちの隣で、倒れた人を助け起こす者もいる。泣き叫ぶ子供を抱きしめる母親もいる。絶望だけではない。確かに、新しい希望の芽もそこにはあった。

解放がもたらしたのは、理想郷ではなく、あまりにも重い自由と責任だった。これから、人々は目に見えない心の重さと向き合い、手探りで新しい秩序を築いていかねばならない。その道は、果てしなく険しいだろう。

それでも、とカイは思った。彼は自分の目で、鮮明になった全ての人々を見つめた。偽りの均衡が崩れたこの荒野から、本当の世界が始まるのだ。彼はリナの手をそっと握り、新しい地平線へと続く、最初の一歩を踏み出した。


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