無色の虹、きみがいた空
第一章 色彩のない少年
僕の目には、世界が光のオーケストラのように映る。人々がすれ違うたび、語り合うたび、その魂の間に架かる「友情」という名の弦が弾かれ、目に見えぬ振動が色彩の和音を奏でるのだ。親友と笑い合う学生たちの周りには、新緑のような若々しい黄緑と、太陽の光を思わせる橙色が溶け合いながら渦巻いている。長年連れ添った老夫婦が交わす穏やかな視線からは、ラベンダーとセピアが混じり合った、深くて静かな光が滲み出していた。
街は、無数の友情の振動(共鳴音)が織りなす色彩で満ち溢れている。だが、僕、カイの周りだけは、いつだって音がなく、色もない。
僕は誰とも共鳴できない。僕の魂は、どんな弦楽器とも音を合わせられない、調律の狂ったピアノのようだった。鏡を覗き込んでも、そこにいるのは背景に溶け込みそうなほど輪郭の曖昧な、無色の少年だけ。生涯に一度だけ出会うという魂の片割れ、「共鳴者」。彼らと出会えた者だけが、己の存在を証明する固有の色をその身に宿す。出会えぬ者は、やがて世界という名の絵の具に溶け、誰からも忘れ去られる運命にある。僕の運命は、生まれた時から決まっていたのかもしれない。
近頃、世界から色が失われ始めていた。街角で囁かれる「色彩喪失症」。あれほど鮮やかな共鳴を放っていた親友たちが、互いの姿を認識できなくなり、戸惑い、やがて相手の存在そのものを忘れてしまう奇妙な病。友情が深ければ深いほど、その喪失は残酷な形で訪れるという。僕は、消えゆく色彩の残像だけを、その場に揺らめく陽炎のように捉えることができた。それは、僕だけが見ることのできる、世界の悲鳴だった。
第二章 色喰らいの羽ペン
「あなた、何を見ているの?」
背後からの声に、僕はびくりと肩を震わせた。振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。リリィと名乗った彼女は、僕が無色であることに怯むことなく、その真っ直ぐな瞳で僕の目を見つめていた。
「あなたの周りだけ、空気が違う。何かが……きらきらしてる」
彼女の親友も、数日前から色彩喪失症に罹っていた。二人の間に輝いていた、空色と檸檬色が混じり合った美しい共鳴は、今はもうほとんど見えない。ただ、僕の目には、彼女の肩先にその色の残像が、儚いシャボン玉のように揺らめいているのが見えた。
僕たちは街で唯一の古物商が営む図書館にいた。病の原因を探すため、僕は古い文献を漁っていたのだ。リリィはそんな僕に興味を持ったらしかった。彼女がそばにいると、僕の胸の奥で何かが小さく疼く。それは共鳴とは違う、もっと静かで、温かい感覚だった。
その時だった。書棚の奥、埃をかぶった木箱の中から、一本の古びた羽ペンを見つけたのは。鴉の濡れ羽色をした、艶やかなペンだった。古文書には『色喰らいの羽ペン』と記されている。失われた友情の色彩を記録する、伝説の筆。震える指でそれに触れた瞬間、予期せぬことが起きた。
ペンが、僕の手の中で淡い光を放ち始めたのだ。
インク壺に浸してもいないのに、そのペン先から滴ったのは、黒いインクではなかった。それは、色を持たない、純粋な光の雫だった。
「あっ……!」
リリィが息を呑む。光の雫が床に落ちると、そこから失われたはずの空色と檸檬色のオーラがふわりと立ち上り、彼女の親友の幻影を一瞬だけ映し出した。それは、僕だけが見ていた残像が、現実の世界に形を持った瞬間だった。
第三章 残像を追って
羽ペンは、僕にとって羅針盤となった。僕とリリリィは、ペンが放つ無色の光に導かれ、失われた色彩の残像を追って街を歩いた。光は、かつて人々が友情を育んだ場所で強く輝いた。夕陽が差し込む公園のベンチ、珈琲の香りが染みついた古いカフェの片隅、街を一望できる丘の上の大樹の下。
ペンをかざすたび、失われた光景が蘇る。笑い声、交わされた約束、流された涙。それらはすべて、美しい色彩の記憶としてその場所に刻まれていた。リリィは幻影のように浮かび上がる親友の姿に涙ぐみ、僕はその隣で、世界から奪われたものの大きさを痛感していた。
同時に、恐ろしい疑念が僕の心を蝕み始めていた。なぜ、僕だけが残像を見られるのか。なぜ、僕がペンに触れると、色彩が実体化するのか。
歩き疲れた僕たちが噴水の縁に腰掛けていた時だった。近くで遊んでいた子供たちの二人組が、突然泣き出した。片方が、もう片方の姿が見えなくなったのだ。彼らの間に揺らめいていた、ひまわりのような鮮やかな黄色の共鳴が、すうっと霧散していく。そして、その消えたはずの色彩の粒子が、まるで引き寄せられるように、僕の身体へと吸い込まれていくのを、僕は確かに感じた。
肌を刺すような冷たい感覚。
僕が、この世界の色彩を、友情の振動を、喰らっている……?
その事実に気づいた時、僕の足元から、世界が崩れていくような気がした。
第四章 無色の真実
街の中心に聳え立つ、古い時計塔。そこから、最も強く、そして最も悲痛な残像の反応があった。僕とリリリィは、螺旋階段を駆け上った。ペンが放つ無色の光は、僕の心臓の鼓動と呼応するように、激しく明滅を繰り返している。
塔の頂上に辿り着いた僕たちが見たのは、絶望的な光景だった。眼下に広がる街から、急速に色彩が失われていく。まるで巨大な消しゴムでゴシゴシと擦られるように、建物の輪郭がぼやけ、人々の姿が薄れ、世界がモノクロームの画用紙へと変貌していく。広場からは、互いを認識できなくなった人々の悲鳴が、くぐもった音の塊となって響いてきた。
「そんな……!」
リリィが息を呑んだ、その時だった。
僕の身体を、激しい痛みが貫いた。世界から失われた膨大な量の色彩が、濁流となって僕の内に流れ込んでくる。まるで僕自身が、友情を吸い尽くすブラックホールになったかのようだった。
「カイっ!」
リリィの叫び声が遠のく。手から滑り落ちた羽ペンが、僕の胸を指し示すように宙で光り輝いた。そして、すべての真実が、奔流となって僕の意識に流れ込んできた。
色彩喪失症の原因は、僕だった。
僕のこの無色の体質は、「共鳴できない」のではなく、世界中の「共鳴を吸収してしまう」ためのものだったのだ。僕は、友情の振動を受け止めるための、ただの巨大な「器」。僕が存在し続ける限り、世界は色を失い続ける。僕が友情の色を見ていたのは、世界中の友情が僕というフィルターを通して、一時的に可視化されていただけに過ぎなかったのだ。
僕は、この世界にとっての病原体だった。
第五章 きみがいた空
決断に、時間はかからなかった。
僕は、僕の中に蓄積された、この世界中の友情の振動すべてを解放しなければならない。それが、世界を救う唯一の方法だった。
「リリィ、さよならだ」
僕の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。僕の身体は、吸収した光のエネルギーで、内側から淡く発光し始めている。輪郭が、少しずつ透明になっていく。
「いや!行かないで、カイ!」
リリリィが僕の腕を掴もうとするが、その手は空を切った。僕の存在は、もう現実の物質としての形を保てなくなりつつあった。
「忘れないで」
僕は彼女に向かって、最後の力を振り絞って微笑んだ。
「僕が、ここにいたことを」
その言葉は、音になる前に光の粒子となって霧散した。
僕は時計塔の頂上から、空へと身を躍らせた。落下する感覚はない。ただ、僕という器が砕け散り、内包していた無数の色彩、無数の友情、無数の愛が、光の奔流となって解き放たれていくのを感じた。
世界に、爆発的な色彩が戻った。
街は瞬く間に元の輝きを取り戻し、人々は失いかけていた「共鳴者」の姿を再びその瞳に映し、涙ながらに抱き合った。喧騒と歓喜が、街を満たしていく。
その中で、リリィだけが空を見上げていた。
色彩を取り戻したはずの空に、もう一つ、誰も見たことのない奇跡が架かっていた。
それは、虹だった。しかし、どんな色も持たない。無数の光の糸が複雑に絡み合い、織りなすことで生まれた、巨大な「無色の虹」。それは、誰とも共鳴できなかった少年が、世界中の友情を受け止め、そしてそのすべてを愛した証だった。
リリィは、頬を伝う涙も拭わずに、誰にも見えないその虹に向かって、そっと手を伸ばした。まるで、そこにいるはずの、透明な少年の手に触れるかのように。空はどこまでも青く、彼がいたことの証明は、もうどこにもなかった。