第一章 硝子の味
舌先に乗せた瞬間、強烈な鉄の味が広がった。
「……これは、除外だ」
俺は顔をしかめ、小瓶の中身――青白いゼリー状の『記憶』をシンクに吐き出す。
顧客のオーダーは『初恋の甘酸っぱさ』だ。
こんな、錆びついた手すりのような後悔の味は求めていない。
「へえ、またハズレ?」
カウンターの奥から、間の抜けた声が飛んでくる。
視線を上げると、ボサボサの茶髪に、サイズの合っていないパーカーを着た男がニヤニヤしていた。
俺は白衣の胸ポケットから、愛用のボイスレコーダーを取り出す。
再生ボタンを押す。
『カイト。二十三歳。常連客だが、金払いはいい。馴れ馴れしいが、害はない』
俺の吹き込んだ、無機質な自分の声。
「記録確認。カイト、営業妨害だ。帰ってくれ」
「つれないなあ、レン。毎日それ聞くの、飽きない?」
カイトはカウンターに頬杖をつき、ショーケースに並んだ色とりどりの小瓶を指先で弾くふりをした。
「俺には必要な儀式だ。お前と違って、俺の脳みそは昨日の晩飯すら保存できないザル構造なんでな」
俺、レンは『前向性健忘』を患っている。
数年前の事故以来、新しい記憶を定着させることができない。
その代わり、他人の記憶を『味』として知覚し、調律する特殊な才能を得た。
記憶のソムリエ。
それが今の俺の生業だ。
「で、今日は何を売りに来た? 失恋の苦味か? それとも上司への殺意という激辛スパイスか?」
「いや、今日は買いに来たんだよ」
カイトは急に真顔になり、ポケットから古びた写真を一枚取り出した。
「……最高の『友情』をくれ。代金はいくらでも払う」
第二章 炭酸の抜けたサイダー
「友情、ねえ」
俺は棚からいくつかの在庫を取り出した。
琥珀色の瓶。ピンク色の瓶。
「これは『幼馴染との再会』。味はミルクティーに近い。こっちは『部活の引退試合』。泥と汗、最後にポカリスエットのような爽快感が来る」
カイトは首を振る。
「違うんだよ、レン。俺が欲しいのは、もっとこう……何もなくても、ただ隣にいるだけでいいっていうか。無言が怖くない関係の味だ」
「注文が細かいな」
俺は溜息をつき、奥の金庫を開けた。
特級品。
ラベルには『名もなき夏』とある。
「試食してみるか?」
スプーンにひとすくい、ゼリーを乗せて差し出す。
カイトはそれを口に含み、目を閉じた。
「……うん」
喉が鳴る。
「微炭酸だ。縁側で食うスイカと、遠くで聞こえるヒグラシの声。……それと、病院の消毒液の匂いが微かにする」
カイトが目を開けた時、その瞳が少し潤んでいるように見えた。
「これだよ。これを探してた」
「五百万だ」
法外な値をふっかける。
どうせ買えやしない。
「いいよ。払う」
カイトは即答し、懐から分厚い封筒を取り出した。
俺は眉をひそめる。
こいつ、ただのフリーターじゃなかったのか。
「……カイト、お前」
「詮索はナシだろ? ソムリエさん」
カイトは小瓶を大事そうに抱え、笑った。
その笑顔が、どこか透き通って消えてしまいそうに見えたのは、店内の照明のせいだろうか。
それから一ヶ月。
カイトは毎日やってきた。
ある時は「最高の冒険」を。
ある時は「喧嘩の後の仲直り」を。
彼は莫大な金を使い、ありとあらゆる『友情』の記憶を買い漁っていった。
俺は毎朝、レコーダーを聞き、カイトという存在を再認識する。
『カイト。金払いのいい奇特な客。……最近、顔色が悪い』
記録の最後、俺の声が少しだけトーンを落としているのが気になった。
第三章 空白のレシピ
雨の降る日だった。
カイトが来ない。
いつもなら正午には「よっ、レン」と間の抜けた顔を見せるはずなのに。
時計の針が三時を回る。
俺は苛立ちを覚え、グラスを磨く手に力を込めた。
(なんで俺が、客一人のためにイラついてるんだ?)
明日になれば、今日のこの苛立ちさえも忘れてしまうというのに。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃい……」
期待を込めて顔を上げる。
だが、そこに立っていたのはカイトではなかった。
黒いスーツを着た、弁護士と名乗る男。
「レン様ですね。カイト様からの遺言と、お預かりした品をお持ちしました」
「……は?」
思考が停止する。
遺言?
「カイト様は、昨日未明、入院先の病院で息を引き取られました。先天性の心疾患でした」
男は事務的に告げ、小さなアタッシュケースをカウンターに置いた。
「彼は、あなたにこれを渡すことだけを生きがいにしていました」
男が去った後も、俺は動けなかった。
死んだ?
あいつが?
俺の手元には、レコーダーと、アタッシュケースが残された。
震える手でケースを開ける。
中に入っていたのは、金塊でも宝石でもない。
たった一本の、透明な小瓶。
ラベルには、下手くそな字でこう書かれていた。
『親友、レンへ』
第四章 最初で最後の晩餐
俺は躊躇った。
他人の記憶を覗くのは仕事だ。
だが、これは違う。
『親友』?
俺はカイトのことを何も覚えていない。
毎日リセットされる関係だ。
それなのに、あいつは俺を親友と呼んだのか。
俺は小瓶の蓋を開けた。
漂ってきたのは、強烈な香り。
これは、俺が知っている匂いだ。
意を決して、中身を口に流し込む。
瞬間。
脳髄を直接殴られたような衝撃が走った。
――映像が溢れ出す。
『よう、レン! 今日も記憶ないのか? 最高だな、毎日初対面で!』
『見てみろよこの記憶、くだらねー!』
『レン、お前また昼飯食い忘れてるぞ』
それは、店でのカイトの姿。
俺が毎日忘れ、記録だけで処理していた時間の集積。
だが、それだけじゃない。
視点が切り替わる。
病院のベッド。
点滴の管。
痩せ細っていく自分の腕を見つめるカイトの視点。
『……怖いな』
独り言が響く。
『死ぬことより、レンに忘れられることが怖いよ』
カイトは、自分の命を削って稼いだ金で、俺の店に来ていた。
そして、記憶のさらに奥底。
封印されていた『核心』が弾けた。
雨の夜。
スリップ音。
激しい衝突。
俺が事故に遭ったあの夜。
対向車に乗っていたのは――カイトだった。
『ごめん、ごめん……! 俺が、俺が無理な運転をしたから……!』
血まみれの俺を抱きかかえ、泣き叫ぶカイト。
あいつは、俺の記憶を奪った加害者だった。
だから、あんなに必死に。
だから、あんなに優しく。
罪滅ぼしか?
同情か?
違う。
記憶の中のカイトの感情が、ダイレクトに俺の心に流れ込んでくる。
それは、罪悪感を遥かに超えた、純粋な『憧れ』と『慈しみ』。
記憶を失っても、淡々と自分の才能を使って生きる俺の姿に、死にゆく彼は救われていたのだ。
『レン。お前が俺を忘れてもいい』
最期の記憶。
病室の天井。
『俺が、お前の分まで覚えていたから。この記憶を、お前に返すよ。これが、俺たちの生きた証だ』
第五章 消えない味
目を開けると、俺はカウンターに突っ伏して泣いていた。
涙の味はしょっぱい。
だが、口の中に残る後味は違った。
それは、どんな高級な記憶よりも温かく、少し焦げ臭い、日向のような味。
「……馬鹿野郎」
俺はレコーダーを手に取った。
消去ボタンに指をかける。
カイトのデータ。
『ただの客』という記述。
俺は躊躇なく、そのデータを削除した。
そして、新しい録音ボタンを押す。
「……記録。カイト」
声が震える。
「俺の、たった一人の親友。……俺の記憶を奪い、そして俺に人生を与えた男」
俺はこの記憶を売らない。
誰にも渡さない。
たとえ明日、俺の脳がこの感情を忘れてしまっても。
この『味』だけは、魂に刻み込まれている。
俺は空になった小瓶を、ショーケースの一番目立つ場所に置いた。
そこには、値段の代わりにこう書いた。
『非売品』
店を出て、空を見上げる。
雨は上がり、雲の切れ間から青空が覗いていた。
その青さは、あの日カイトと食べた、炭酸の抜けたサイダーの色に似ていた。
(終わり)