虹の残滓

虹の残滓

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第一章 モノクロームの世界に落ちた一滴の虹

僕、相葉灰音(あいば はいね)の世界は、色を失っていた。いつからだったか、もう思い出せない。古いモノクロ映画のように、あらゆるものが濃淡の異なる灰色で構成されていた。アスファルトを叩く雨の音はただのノイズで、朝食のトーストは味のない繊維の塊、通り過ぎる人々の顔は表情のない能面のようだった。感情という絵の具を、根こそぎ奪われたパレット。それが僕の日常だった。

大学の講義も、アルバイトも、ただ決められた手順をこなすだけの作業だ。笑うことも、泣くことも、怒ることさえも忘れてしまった。友人らしい人間もいたが、彼らの会話の色彩豊かな抑揚は、僕の耳には届かなかった。僕はただ、灰色の世界で静かに呼吸するだけの置物だった。

そんなある雨の日、事件は起きた。

いつも通り、大学の裏手にある寂れた公園のベンチで、灰色の空をぼんやりと眺めていた時だった。水たまりを跳ねる小さな足音。ふと視線を落とすと、そこに一人の少年が立っていた。小学生くらいだろうか。不釣り合いなほど大きな、真っ赤な長靴を履いている。そして何より、僕の目を釘付けにしたのは、彼のその存在そのものが放つ、圧倒的な色彩だった。

少年の髪は、夕焼けを溶かし込んだような鮮やかなオレンジ色。瞳は澄み切った空のようなコバルトブルー。そして、彼が着ているレインコートは、芽吹いたばかりの若葉のような、生命力に満ちた緑色をしていた。僕のモノクロームの世界に、突如として原色のインクがぶちまけられたような、暴力的なまでの鮮やかさだった。

少年は何も言わず、僕の隣にちょこんと腰掛けた。そして、小さな手のひらを僕の前に差し出す。その手の中にあったのは、陽だまりを固めたような、温かい光を放つ小さな黄色い球体だった。それは生き物のように、ゆっくりと脈動している。

「……なに?」

何年ぶりかに発した、自分でも驚くほど掠れた声だった。少年は答えず、ただにっこりと笑って、その黄色い光を僕の胸にそっと押し当てた。

瞬間、世界が爆ぜた。

胸の中心から、温かい波紋が全身に広がっていく。忘れていた感覚。それは「楽しい」という感情に似ていた。公園の古びたブランコが、幼い頃に友達と日が暮れるまで遊んだ記憶を呼び覚ます。雨上がりの土の匂いが、鼻の奥をくすぐった。視界の隅にあった紫陽花が、淡い青紫色に染まって見えた。ほんの一瞬、世界に色が戻った。

光が消えると、世界は再び灰色に戻ったが、僕の胸には確かな温もりが残っていた。少年を見ると、彼は満足そうに頷き、そして何も言わずに駆け去って行った。オレンジ色の髪と、赤い長靴が、灰色の風景の中で最後の残光のように揺れて消えた。

彼の名前は、彩(さい)。僕がそう名付けた。言葉を話さない彼との、奇妙な友情が始まった日だった。

第二章 褪せる色彩、芽生える罪悪

それから、彩は頻繁に僕の前に現れるようになった。決まって、僕が一人でいる時に。彼はいつも、その小さな手の中に様々な色の光を携えていた。

ある日は、安らぎに満ちたエメラルドグリーンの光。それに触れると、ささくれ立っていた心が凪いだ湖面のように静かになった。またある日は、好奇心に満ちたウルトラマリンの光。それを受け取ると、今まで無関心だった大学の講義が、未知への探求心を掻き立てる冒険のように感じられた。

彩からもらう「色」のおかげで、僕の世界は徐々に色彩を取り戻していった。食事が美味しいと感じ、音楽が心を震わせ、人々の笑顔が温かいものに見えるようになった。僕は彩との時間に完全に依存していた。彼がくれる色だけが、僕を灰色の日々から救い出してくれる唯一の希望だった。

「彩、今日はどんな色をくれるんだい?」

僕がそう尋ねると、彩はいつも嬉しそうに笑って、宝物を取り出すように光の球を見せてくれた。彼との間に言葉はなかったが、色の受け渡しを通じて、僕たちは誰よりも深く繋がっていると信じていた。彼は僕にとって、唯一無二の親友だった。

しかし、変化は僕だけに起きていたのではなかった。

彩からもらう色の鮮やかさが増すにつれて、彩自身の色彩が少しずつ褪せていくことに、僕は気づき始めていた。あれほど燃えるようだったオレンジ色の髪は、ところどころ色が抜け落ちてくすんだ茶色になり、コバルトブルーの瞳は、どこか水で薄めたような淡い色合いに変わっていた。

ある日、彼が僕に差し出したのは、燃えるような情熱の赤色だった。僕がそれを受け取ると、目の前の彩の姿が、陽炎のようにゆらりと揺れた。彼の着ていた若葉色のレインコートが、まるで使い古した雑巾のように色褪せ、ほとんど灰色に近くなっている。

「……彩?」

僕の胸に、冷たい雫が落ちた。それは罪悪感という名の、どす黒い色をしていた。僕は、自分の世界に色を取り戻すために、この無垢な友人を犠牲にしているのではないか。僕が感情を取り戻すたびに、彼はその源泉を失い、消えかけているのではないか。

その日から、僕は彩から色を受け取るのが怖くなった。しかし、色をもらわなければ、僕の世界はまたあの耐え難いモノクロームに戻ってしまう。彩に会いたい。でも、会えば彼を傷つけてしまう。矛盾した感情の渦の中で、僕はただ苦しむことしかできなかった。

彩は一体何者なんだろう。なぜ、自分を犠牲にしてまで僕に色をくれるのだろう。僕たちの友情は、本当に美しいものなのだろうか。それとも、僕が一方的に彼を捕食しているだけの、醜い共依存なのだろうか。

答えの出ない問いが、灰色の霧のように僕の心を覆い尽くしていった。

第三章 砕け散ったプリズムの真実

彩は、日に日に弱っていった。彼の姿は半透明になり、背景の景色が透けて見えるほどだった。歩く姿もおぼつかなく、僕の前に現れると、すぐにその場にへたり込んでしまう。それでも彼は、最後の力を振り絞るように、僕に微かな色の光を差し出そうとするのだった。

「もういい、彩。もう、いいんだ」

僕はその手を押しとどめた。彼をこれ以上、消したくなかった。だが、どうすれば彼を救えるのか、僕には皆目見当もつかなかった。僕が色を返せば、彼は元に戻るのだろうか。でも、一度受け取ってしまった感情を、どうやって取り出せばいい?

ある雨の夜、彩はついに、ほとんど見えないほど透明な姿で僕の部屋に現れた。かろうじて輪郭だけが、雨に濡れた窓ガラスのように微かに光っている。彼は力なく僕に寄りかかり、その身体は氷のように冷たかった。

「彩!しっかりしろ!」

パニックに陥った僕は、彼を抱きしめた。その瞬間だった。

世界が、砕け散った。

激しい光が僕の全身を貫き、忘却の彼方に沈めていた記憶の奔流が、脳内に叩きつけられた。

――それは、僕がまだ七歳だった頃の記憶。僕には、シロという名前の白い犬がいた。僕にとって唯一の友達で、兄弟だった。いつも一緒だった。しかし、ある夏の日に、シロは車にはねられて、僕の腕の中で動かなくなった。温かかったはずの身体が、どんどん冷たくなっていく。降り注ぐ蝉時雨が、世界の終わりを告げる警報のように鳴り響いていた。

耐えられなかった。胸が張り裂けそうなほどの悲しみ、失うことへの恐怖、何もできなかった自分への怒り、そしてどうしようもない絶望。あまりにも巨大で、暴力的な感情の濁流が、幼い僕の心を破壊しようとしていた。

『もう、感じたくない』

僕は、心の底からそう願った。もう二度と、こんな思いはしたくない。何も感じなければ、傷つくこともない。

その瞬間、僕の中から何かが抜け落ちる感覚があった。鮮やかだった世界から、すぅっと色が抜けていく。喜びも、好奇心も、情熱も、そして、あの耐え難いほどの悲しみも苦しみも、全てが僕の中から分離して、一つの形を成した。

――それは、幼い僕の理想が詰まった、オレンジ色の髪と青い瞳を持つ、一人の少年の姿だった。

そうだ。彩は、僕が切り離した「感情」そのものだった。僕が生きるために捨てた、心の欠片たちの集合体だったのだ。彼が僕に色を与えていたのは、僕を元の姿に戻そうとする、僕自身の魂の叫びだった。彼が色褪せていったのは、彼という存在が、本来あるべき場所――僕の心の中――へと還っていく過程だったのだ。

全ての真実を悟った時、僕の目の前で、彩の姿が最後の光を放っていた。

第四章 きみがくれた、世界の色

「……そうか。きみは、僕だったんだな」

涙が、頬を伝った。それはしょっぱくて、温かい、本物の涙だった。目の前の、消えかけている親友は、僕自身が捨てた心の痛みであり、喜びだった。彼を救うことは、僕が僕自身を受け入れることと同義だった。

彩は、最後の力を振り絞って微笑んだ。そして、二つの光の球を差し出した。一つは、夜空よりも深く、静かな悲しみを湛えた藍色。もう一つは、絶望の淵を覗き込むような、重く、冷たい漆黒。シロを失ったあの日、僕が最も恐れ、切り離した感情たちだった。

これを受け取れば、彩は完全に消える。僕の中に統合され、二度と彼の姿を見ることはできなくなる。でも、受け取らなければ、僕はまた不完全なまま、灰色の世界を彷徨うことになる。

僕は震える手で、その二つの色をそっと受け取った。

藍色の光が胸に染み込むと、抑え込んでいた悲しみが津波のように押し寄せた。シロを失ったあの日の喪失感が、何年もの時を経て、僕の心を激しく揺さぶる。僕は子供のように声を上げて泣いた。

次に、漆黒の光に触れた。絶望と後悔が、冷たい泥のように全身を覆う。あの時、もっと何かできたのではないか。なぜ、守れなかったのか。自己嫌悪が心を苛む。

だが、不思議と怖くはなかった。隣には、僕の一部である彩がいたから。これは、僕が向き合うべき痛みだった。目を背けてはいけない、僕自身の心の一部だった。

「ありがとう、彩。……もう、大丈夫だよ」

僕がそう呟くと、彩は安堵したように、これまでで一番優しい笑顔を見せた。彼の身体が、まばゆい光の粒子となって、僕の胸の中に溶けていく。それは別れでありながら、永遠の再会だった。

全てが、終わった。

目を開けると、僕の部屋は朝日を受けて、信じられないほどの色彩に満ちていた。使い古した木の机の木目、読みかけの本の背表紙の色、窓の外で揺れる街路樹の緑。その全てが、愛おしいまでに鮮やかだった。世界は、こんなにも美しかったのか。

窓を開けると、雨上がりの澄んだ空気に、新しい朝の匂いがした。空には、大きな虹がかかっていた。赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫。七つの色が、完璧な調和をもって空を彩っている。

それは、彩が僕にくれた色の全てだった。喜びも、悲しみも、情熱も、安らぎも。そのどれか一つが欠けても、美しい虹にはならない。

僕はもう一人じゃない。彩は、僕の中に生きている。本当の友情とは、誰かに依存することじゃない。自分自身の喜びも悲しみも、光も影も、その全てを受け入れ、抱きしめて生きていくことなんだ。

空にかかる虹を見上げながら、僕は再び涙を流した。それは、悲しみだけの涙ではなかった。感謝と、愛しさと、そしてこれから始まる新しい世界への希望に満ちた、温かい涙だった。

きみがくれたこの世界の色を、僕はもう決して手放さない。

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