第一章: 砕け散る美学
地下工房。澱んだ湿気。そこに漂うのは、石粉に塗れた黒い作業着の匂い。
アリスは、まとわりつく色素の薄い灰色の髪を苛立たしげにかき上げた。疲労で充血した瞳が射抜くのは、目の前の「少女」。のみで削り出された大理石の皮膚、その滑らかさ。今にも吐息が漏れ聞こえそうな質感。だが、アリスの指先——タコと無数の古傷に覆われたその指——の震えは止まらない。
[A:アリス:冷静]「……違う」[/A]
[Think]脈もなければ、熱もない。これはただの石だ。死人を冒涜するだけの、冷たい塊だ。[/Think]
作業台の脇、鉄槌を掴む指に躊躇いはなかった。振り上げられた鉄塊。少女の端正な顔面へ、一閃。
轟音。
弾け飛ぶ鼻梁。白い破片がアリスの頬を裂く。
[A:アリス:怒り]「こんなものは、美しくない!」[/A]
[Shout]ガシャァァンッ!![/Shout]
二度、三度。形あるものが無慈悲な粉塵へと還るまで、腕は振るわれ続けた。荒い呼吸だけが残響する工房。そこへ不意に響く拍手。乾いた、それでいて硬質な音色。
[A:エリオ:喜び]「相変わらず手厳しいね、天才様。その石ころ、結構な値がついたんじゃない?」[/A]
入り口の影。現れた少年の姿に、アリスの呼吸が凍りつく。
着崩した上質なリネンのシャツ。透き通るような金髪はランプの光を吸い込んで輝いている。だが、アリスの視線を釘付けにしたのは、その美しい顔立ちではない。彼の右半身。
引きちぎられた袖。そこにあるはずの肉色の腕は、肩口から指先まで、すべてが鋭利な群青色の結晶に置換されていた。鉱石病。致死率一〇〇パーセントの呪い。
エリオは、凶器めいた右手を隠そうともせず、ひらひらと振って見せる。
[A:アリス:驚き]「エリオ……お前、その腕」[/A]
[A:エリオ:照れ]「綺麗だろ? 最近じゃ、ヴァイオリンの弦より硬くなっちまってさ」[/A]
かつての親友。死の刻印をアクセサリーのように見せびらかし、粉砕された石膏の山を踏み越えてくる。
[A:エリオ:冷静]「単刀直入に言うよ、アリス。僕を彫ってくれ」[/A]
[A:アリス:怒り]「断る。僕はもう、依頼は受けない」[/A]
[A:エリオ:狂気]「遺体(イシ)じゃない。このまま、生きたままの僕を彫るんだ。僕の心臓が宝石になる、その瞬間の僕を」[/A]
群青色の指先が、自らの左胸——心臓の上へと突き立てられる。裂ける衣服。滲んだ血が結晶の青に吸われていく様。
[A:エリオ:興奮]「君の鑿(のみ)で、僕の時間を止めてくれよ。石ころになって忘れ去られる前に」[/A]
◇◇◇
第二章: 硝子の不協和音
拒絶。だがその言葉も、エリオの厚顔無恥な笑顔の前には無力だった。
工房の片隅に彼が居座ってから、三日が過ぎる。
[Shout]キィィィン、ギャリリリリ……![/Shout]
耳を劈く高周波のノイズ。アリスの神経をヤスリが削る。
演奏だ。動かなくなった右腕の結晶を「弓」とし、左手で支えたヴァイオリンの弦に擦り付ける。松脂の代わりに自らの身体を削り、弦を切り裂く奏法。それは音楽と呼ぶにはあまりに暴力的。
[A:アリス:怒り]「うるさい! 出て行けと言ってるだろ!」[/A]
投げつけられたスケッチブックを、エリオはひらりと避ける。
[A:エリオ:喜び]「酷いなぁ。これが僕の『最期の音(スワンソング)』だよ? 聴衆が君ひとりなんて贅沢だろ」[/A]
[A:アリス:冷静]「それは音じゃない。悲鳴だ」[/A]
[A:エリオ:悲しみ]「……そう聴こえる? なら、正解だ」[/A]
一瞬、エリオの表情から剥がれ落ちる道化の仮面。透き通る金髪の隙間から覗く瞳。そこに揺れる死への恐怖を、アリスは見逃さなかった。
舌打ち一つ。再び握られる木炭。
キャンバスに重なる、何枚ものエリオのデッサン。当初の苛立ちは消え、アリスの「眼」は、エリオの歪な演奏姿に奇妙な引力を感じ始めていた。
石膏像にはない、醜くも熱い、生の執着。
群青色の結晶が照明を反射し、汗ばんだ白い肌との境界線で微細な光の粒子を撒き散らす。
[Think]美しい。[/Think]
脳裏を過る思考。瞬時にこみ上げる吐き気。友の死にゆく姿を美しいと感じる自分への嫌悪。
[A:アリス:怒り]「……じっとしてろ。輪郭がブレる」[/A]
[A:エリオ:喜び]「おっ、やる気になった? やっぱりアリスは僕のこと大好きだねぇ」[/A]
[A:アリス:照れ]「黙れ。口を動かすな、呼吸もするな」[/A]
流れる空気は、かつて喧嘩別れしたあの夏の日とは違う。嫉妬も、羨望も、今は死という絶対的なフィルターを通して濾過され、透明な理解へと変わりつつあった。
だが、その穏やかな時間は唐突に破られる。無機質なノックの音によって。
◇◇◇
第三章: 処刑人の鑿
主治医であるヴァーンの執務室。充満するホルマリンと古書の黴びた匂い。
漆黒の喪服めいたドレスに身を包んだ彼女は、赤いベルベットの手袋をした指先で、一枚のレントゲン写真を弾いた。
[A:ヴァーン:冷静]「結論から申し上げますわ。直ちに制作を中止なさい」[/A]
深く刻まれるアリスの眉間の皺。
[A:アリス:怒り]「なぜだ。エリオの病状なら把握している。最期まで彫り上げる時間はまだあるはずだ」[/A]
銀縁眼鏡の位置を直すヴァーン。その瞳は氷点下。
[A:ヴァーン:冷静]「時間? ええ、本来ならばありましたわ。あなたが鑿を振るわなければ、の話ですが」[/A]
[A:アリス:驚き]「……どういう意味だ」[/A]
[A:ヴァーン:冷静]「鉱石病の結晶化プロセスは、特定の周波数の振動によって劇的に加速します。特に、石を穿つ鑿の打撃音……あれが骨格を通じて共鳴し、病巣を活性化させるのです」[/A]
早鐘を打つ心臓。明滅する視野。背もたれから崩れ落ちそうになる身体を、アリスは必死に支える。
[A:アリス:恐怖]「ま、まさか……」[/A]
[A:ヴァーン:冷静]「ええ。あなたがこれまで『永遠の美』として残してきた依頼人たち。彼らは皆、あなたの彫刻によって寿命を削り取られ、本来よりも早く死に至ったのです。あなたは芸術家ではない。ただの——処刑人ですわ」[/A]
[System]SAN値チェック: 失敗[/System]
[Shout]あ、ああ、あアアアアッ!![/Shout]
口元を押さえ、その場に嘔吐するアリス。
胃液の酸味と共に、走馬灯のように駆け巡る過去の記憶。感謝の言葉を述べて死んでいった少女。安らかに目を閉じた老人。彼らの命を縮めていたのは、救済だと信じていた自分の「手」だったという事実。
[A:アリス:絶望]「僕は……僕は、殺していたのか……?」[/A]
ふらつく足取りで部屋を飛び出した。
工房に戻れば、作りかけのエリオのデッサンが目に飛び込む。それはもはや絵ではない。死刑宣告書だ。
[Shout]ガシャァァンッ!! バキィッ!![/Shout]
[A:アリス:狂気]「触るな! 見るな! 消えろ!!」[/A]
手当たり次第に投げつけられる道具、倒れる棚、粉砕される作りかけの石膏像。戻ってきたエリオが何か叫んでいるが、耳鳴りが酷くて聞こえない。
のみを床に叩きつけ、裏口から夜の雨の中へと走り出す。
泥にまみれ、路地裏のゴミ捨て場にうずくまる。
手を見つめる。血と泥で汚れたその手は、もう二度と洗っても綺麗にはならない気がした。
[A:アリス:悲しみ]「もう、誰も殺したくない……」[/A]
雨音。それはのみを叩く音のように、執拗に響き続けていた。
◇◇◇
第四章: 魂の延命
どれくらいの時が経っただろう。
冷たい雨は止み、生温かい風が路地裏の腐臭を運ぶ。
アリスの目の前に現れたのは、ずぶ濡れの革靴。
[A:エリオ:悲しみ]「……みぃつけた、よ。かくれんぼは、へたっぴだね……アリス」[/A]
顔を上げれば、変わり果てたエリオの姿。
結晶化は右腕だけにとどまらず、首筋を這い上がり、顎のラインを侵食している。圧迫された声帯、壊れた笛のような掠れ声。
[A:アリス:恐怖]「来るな! 離れろ! 僕が近くにいるだけで、お前の時間は……!」[/A]
後ずさる背中、冷たい煉瓦の壁。
崩れ落ちるようにアリスの胸へ倒れ込むエリオ。硬い結晶の感触と、高熱を発する生身の体温が同時に伝わってくる。
[A:エリオ:冷静]「聞いたよ、ヴァーン先生から。……僕を殺すのが怖い?」[/A]
[A:アリス:絶望]「当たり前だ! これ以上、僕のせいで死ぬな!」[/A]
泥だらけのアリスの頬を掴む左手。無理やり合わせられる視線。その瞳は、病魔に冒されているとは思えないほど、強く、澄んでいた。
[A:エリオ:怒り]「ふざけるな。誰が死ぬと言った? 僕は『生きる』ために頼んでるんだ」[/A]
[A:アリス:驚き]「なにを……」[/A]
[A:エリオ:狂気]「長く生きながらえて、ただの石ころになって、誰の記憶からも消える……それが僕にとっての本当の『死』だ! 僕は君の手で、最高傑作として燃え尽きたいんだよ!」[/A]
鼓膜を震わせるエリオの叫び。それは自殺幇助の懇願などではない。芸術家としての、魂の延命措置。肉体の死を超越した、存在証明への渇望。
[A:エリオ:愛情]「頼む、アリス。僕を殺してくれ。そして、僕を永遠にしてくれ。君にしかできないんだ」[/A]
アリスの指が、エリオの背中に食い込む。
恐怖で歯の根が合わない。だが、エリオの体温が、命の鼓動が、手のひらを通じて訴えかけてくる。「今、ここで彫れ」と。
[A:アリス:愛情]「……痛いぞ。死ぬほど」[/A]
[A:エリオ:喜び]「へへ……上等だね」[/A]
支え合うように立ち上がる二人。目指すは破壊された工房。
残された時間は、結晶が心臓を貫くまでの数時間。
あまりにも短い、永遠への助走。
◇◇◇
第五章: 奏者
張り詰める空気。
破壊された残骸は脇に退けられ、中央には巨大な大理石の塊と、椅子に座るエリオだけがある。
[A:エリオ:冷静]「準備はいい?」[/A]
[A:アリス:冷静]「ああ。……動くなよ」[/A]
[System]スキル発動: 魂の彫刻[/System]
振るわれる鑿。
[Shout]カンッ!![/Shout]
鋭い打撃音。同時にビクンと跳ねるエリオの身体。骨を伝う振動が結晶化を加速させる。首元の青い結晶が、ミシミシと音を立てて広がる。
[Sensual]
アリスの視界には、エリオの筋肉の繊維、骨格の歪み、そして血管を流れる血液の奔流までが焼き付いている。
鑿を一突きするたびに、エリオの命が削り取られ、石へと転写されていく。それは性愛よりも深く、暴力的なまでの魂の交合だった。
汗が飛び散る。エリオの荒い息遣いが、アリスの呼吸と重なる。
[A:エリオ:興奮]「もっと深く、そこだ、そこを刻め!」[/A]
言葉にならないエリオの視線が、アリスの鑿を導く。アリスは泣きながら、それでも手元を狂わせることなく刃を突き入れた。友の肉体を喰らい、永遠の美へと昇華させる。その背徳的な愉悦と激痛が、アリスの脳髄を焼き切らんばかりにスパークしていた。
[/Sensual]
エリオは、動かない右腕で架空の弓を弾き続けていた。
音はない。だが、アリスには聴こえている。彼が奏でる、人生最期の旋律が。
[A:エリオ:悲しみ]「……アリス、まだ、聴こえ……る?」[/A]
結晶はすでに口元を覆い、左目まで達していた。
[A:アリス:興奮]「聴こえる! 最高だ! だから止めるな!!」[/A]
アリスの右手に起きる異変。過度の酷使と精神的負荷による、神経の焼き切れ。消失していく指先の感覚。
[Think]動け。あと少しだ。僕の腕なんてどうなってもいい。[/Think]
[Shout]うおおおおおおっ!![/Shout]
絶叫と共に、最後の一撃——瞳のハイライトを刻み込む。
[Shout]カァァァン……![/Shout]
響き渡る澄んだ音。やがて訪れる静寂。
エリオの弓を持つ手が、空中でピタリと止まる。
心臓の鼓動が、途絶えた。
そこに残されたのは、苦痛と歓喜が入り混じった表情で、永遠の音楽を奏で続ける、完全な蒼玉の像。
◇◇◇
数年後。
都市国家アトラスの美術館の片隅に、一つの彫刻が飾られている。
タイトルは『奏者』。
ところどころ粗削りで、未完成のような荒々しさを残したその像は、見る者の魂を揺さぶる圧倒的な「熱量」を放っていた。特に右腕の群青色は、照明の角度によってまるで血が通っているかのように脈動して見える。
その像の前、一人の青年が佇んでいた。
力なく垂れ下がった右袖。かつて「神の手」と呼ばれた右腕は、あの日以来、神経を失い二度と動くことはなかった。
[A:ヴァーン:冷静]「……相変わらず、ここに入り浸っていますのね」[/A]
背後からの声。老婦人に、青年——アリスは穏やかに微笑んだ。かつての険のある表情は消え、色素の薄い瞳には静かな光が宿っている。
[A:アリス:愛情]「ああ。こいつが寂しがるといけないからな」[/A]
アリスは動く左手で、『奏者』の冷たくも温かい頬に触れる。
[A:アリス:冷静]「それに、まだ聴こえるんだ。あいつの音が」[/A]
アリスは見上げた。
代償に失った右腕は重いが、後悔などあろうはずもない。
宝石となった友は、今も彼の心の中で、終わりのないアンコールを奏で続けているのだから。