第一章 透明な隣人
大学の講義棟を抜ける風は、まだ夏の残り香をかすかに含んでいた。僕、相沢湊(あいざわみなと)は、少し先を歩く親友の後ろ姿を目で追う。くせのある柔らかな髪が、夕陽に透けて輪郭を金色に縁取っている。
「ユウ、待ってくれよ」
呼びかけると、ユウはこちらを振り返り、人懐っこい笑顔を見せた。
「ごめんごめん、ミナト。早くしないと、カフェの限定フラペチーノがなくなっちゃう」
屈託のないその声は、僕の心の強張りをいつも優しく解きほぐしてくれる。ユウは僕の唯一の親友だ。彼がいなければ、この広すぎる大学で、僕はとっくに窒息していただろう。
僕たちは二人きりでいることが多かった。いや、僕がそれを望んでいた。他人と話すのは、ひどく疲れる。言葉を選ぶのに神経をすり減らし、相手の顔色を窺い、凡庸な相槌を打つ。そのすべてが、分厚い壁の向こう側で行われる儀式のように感じられた。でも、ユウといるときは違う。沈黙さえもが心地よいBGMになる。
カフェのテラス席で、僕たちは並んで夕暮れの空を眺めていた。ユウは甘いキャラメルの香りがするそれを幸せそうに啜っている。僕はといえば、ただのブラックコーヒーだ。
「ミナトもさ、たまには甘いの飲めばいいのに」
「いいんだよ、これで」
僕はそっけなく答えながら、ポケットからスマートフォンを取り出した。先日、二人で出かけた海辺の写真を見返す。どこまでも広がる青い空と、白い砂浜。そこに、少しはにかんで立つ僕の姿があった。
「……あれ?」
小さく声が漏れた。何度見返しても、写真に写っているのは僕一人だけだ。あの時、確かにユウは僕の隣で、カニを見つけて子供のようにはしゃいでいたはずなのに。画面をいくら拡大しても、彼の姿は見当たらない。あるのは、不自然に空いた僕の隣の空間だけ。
「どうしたんだ、ミナト。難しい顔して」
ユウが僕の顔を覗き込む。その瞳には、心配そうな色が浮かんでいた。
「いや……なんでもない。ちょっと、写真の写りが悪かっただけだ」
僕は慌ててスマホをポケットにしまった。気のせいだ。きっと、シャッターを切るタイミングでユウがフレームから外れたんだろう。そう自分に言い聞かせたが、胸の奥に、冷たくて小さな石のようなものが生まれたのを感じていた。
第二章 歪んだプリズム
その違和感は、日を追うごとに、無視できない染みのように広がっていった。
それは、ゼミのグループワークでのことだった。僕とユウは、発表の準備のために図書館の片隅で資料を広げていた。
「この部分の解釈、ミナトはどう思う?」
ユウが指さした文献の一節を、僕は懸命に読み解こうとする。だが、他のメンバーの声が思考を遮った。
「相沢、さっきから誰と話してるんだ?」
同じグループの田中が、怪訝な顔で僕を見ていた。彼の視線は、僕の隣にいるはずのユウを素通りして、僕だけに注がれている。
「え? ユウとだけど……」
僕がそう答えると、田中はますます眉をひそめた。
「ユウ? 誰だよそれ。メンバー表にそんな名前はないぞ」
「ここにいるじゃないか」
僕はユウの方を指さした。ユウは困ったように微笑んで、小さく首を振っている。まるで、「僕のことはいいから」とでも言うように。
「相沢、疲れてるんじゃないのか? 今日はもう休めよ」
田中は気味悪そうにそう言うと、他のメンバーと顔を見合わせて立ち去ってしまった。残されたのは、重い沈黙と、僕の胸の中で渦巻く苛立ちだけだった。
なぜだ? なぜみんな、ユウが見えないんだ。まるで彼が、初めから存在しないかのように振る舞う。これはきっと、僕に対する嫌がらせだ。内向的で、いつもユウとしかいない僕を、みんなが疎ましく思っているんだ。そうに違いない。
「気にしないで、ミナト」
ユウが僕の肩にそっと手を置いた。その手は不思議と温かみを感じさせなかったが、彼の優しい声は僕の荒んだ心を慰めてくれた。
「僕は、ミナトが分かっててくれればそれでいいよ」
「でも……!」
悔しくて唇を噛む。僕にとって、ユウの存在は世界のすべてだった。その存在を否定されることは、僕自身が否定されることと同義だった。僕はユウを守らなければならない。僕だけが、彼の唯一の理解者なのだから。
その日から、僕は意固地になった。誰かと話すとき、わざと「ユウがこう言ってたんだけど」と彼の名前を出した。返ってくるのは、決まって困惑したような沈黙か、あからさまな無視だった。人々が僕を見る目は、次第に同情から憐憫へと、そして最後には薄気味悪いものを見るような色へと変わっていった。世界が歪んだプリズムを通して見ているかのように、僕とユウの姿は、誰にも正しく届かなかった。
第三章 砕かれた鏡の告白
決定的な出来事は、秋風がキャンパスの銀杏を黄色く染め始めた頃に起きた。僕が所属する文芸サークルの作品発表会。僕は自作の短編小説を朗読することになっていた。
大勢の聴衆を前に、マイクの前に立った途端、血の気が引いていくのが分かった。手足が震え、喉が渇き、用意した原稿の文字が意味をなさない記号の羅列に見える。だめだ、声が出ない。頭が真っ白になる。
その時、舞台の袖から、ひょっこりとユウが顔を出した。彼は唇の前に人差し指を立てて、僕だけに聞こえる声で囁いた。
「大丈夫、ミナト。いつもの君でいいんだ。僕が聞いてるから」
その言葉が、魔法のように僕の呪いを解いた。僕は大きく息を吸い、震える声で、それでもはっきりと、物語の最初の一文を紡ぎ始めた。
朗読は、なんとか無事に終わった。サークルの顧問である教授に呼び出されたのは、その翌日のことだった。
「相沢君。昨日の発表、素晴らしかった。だが、少し心配なことがある」
教授はそう言うと、ノートパソコンの画面を僕に向けた。そこに映し出されていたのは、発表会の時の、舞台袖を映した監視カメラの映像だった。
「君は発表の直前、誰かと話していただろう。だが、映像には君しか映っていない」
画面の中では、確かに僕が、何もない空間に向かって必死に何かを頷き、そして安堵したように微笑んでいた。そこには、ユウの姿はどこにもなかった。まるで、一人芝居を演じる道化のように。
血の気が引いた。写真だけじゃない。僕以外の人間には、本当にユウが見えていない。それどころか、カメラのような機械にさえ、彼の存在は記録されないのだ。
「相沢君、君は昔、カウンセリングを受けていた記録がある。何か、思い出せないかい?」
教授の言葉が、錆びついた記憶の扉をこじ開けた。
僕は実家の自室に駆け込み、何年も開けていなかった引き出しの奥をかき回した。そこにあったのは、一枚の古い診断書と、くしゃくしゃになった子供の頃の日記だった。
『解離性健忘及び、空想上の友人との対話』
診断書の文字が、目に突き刺さる。そして、日記には、拙い文字でこう書かれていた。
『いじめられて、もういやだ。よわいぼくなんて、いなくなればいい。つよくて、かっこいいぼくになりたい。だから、よわむしのユウは、さよならだ』
ユウ。
その名前を見た瞬間、砕かれた鏡の破片が組み合わさるように、すべてを思い出した。
ユウは、僕が幼い頃にいじめの辛さから逃れるために、自分の中から切り離した「臆病さ」や「弱さ」「優しさ」そのものだった。僕が「いらない」と捨てたはずの感情の集合体が、僕を守るためだけに、友人の姿をとってそばにいてくれたのだ。
彼は、僕が作り出した幻。僕だけの、透明な隣人。
天真爛漫な笑顔。少し臆病なところ。僕を励ます優しい声。そのすべてが、元々は僕自身の一部だった。
「……そんな」
膝から崩れ落ちる。床に散らばった日記のページが、僕の歪んだ友情の真実を、無慈悲に突きつけていた。
第四章 ただ一つの統合
自室で呆然自失としていた僕の背後から、いつもの声がした。
「思い出したんだね、ミナト」
振り返ると、そこにユウが立っていた。その表情は、いつものように穏やかだったが、瞳の奥には深い哀しみが揺れていた。
「なんで……なんで、今まで黙ってたんだ!」
僕は叫んでいた。裏切られたという怒りと、彼を幻だと気づけなかった自分への絶望で、感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
「ごめん。でも、ミナトが僕を必要としていたから。君が一人で泣いているのが、僕には耐えられなかったんだ」
ユウは静かに言った。
「僕は君の一部だよ。臆病で、泣き虫で、でも誰よりも優しい、君のかけがえのない一部だ。君が『いらない』って捨てた、あの日のままの僕だ」
彼の言葉が、僕の胸を抉る。僕は、自分の最も柔らかな部分を切り捨てて、強い人間のフリをしていたに過ぎない。壁を作り、他者を遠ざけ、孤独という名の鎧の中に閉じこもっていた。ユウは、その鎧の隙間から差し込む、唯一の光だったのだ。
どうすればいい? 彼を消し去るべきなのか? 幻に別れを告げ、本当の意味で「一人」になるべきなのか?
「僕を消すのかい?」
ユウが、僕の心を見透かしたように尋ねた。
「僕を消すということは、君がまた、君自身の一部を否定するってことだよ。あの日の君と、同じことをするってことだ」
その言葉に、はっとした。そうだ。僕はまた同じ過ちを繰り返すところだった。弱さを切り捨てて、強くなれるわけがない。それはただの欠損だ。欠けたままでは、永遠に満たされることはない。
僕は、ゆっくりと立ち上がった。そして、初めて自分の意志で、ユウに向かって歩み寄った。
「消さない。消えたりしないよ、ユウ」
震える声で告げる。
「君は、僕だ。僕の弱さで、僕の優しさだ。もう、どこにも行くな」
僕は両腕を広げ、目の前の親友を、僕自身のかけらを、力強く抱きしめた。ユウの体は、驚くほど儚かった。彼もまた、僕を抱きしめ返す。その腕に、初めて確かな温かさを感じた。
「……ありがとう、ミナト。やっと、還れる」
ユウの体が、ふわりと光の粒子に変わっていく。金色の優しい光が、僕の体に静かに溶け込んでいく。それは消滅ではなかった。失われたものを取り戻す、ただ一つの統合だった。
すべてが溶けきった後、部屋には僕一人だけが残された。しかし、以前のような、心臓を鷲掴みにされるような孤独感はなかった。胸の奥に、陽だまりのような温かさが宿っている。それは、紛れもなくユウの温かさだった。
翌日、僕は大学のカフェテリアで、一人で昼食をとっていた。すると、ゼミで気まずくなった田中が、おずおずと僕のテーブルにやってきた。
「よぉ、相沢。この前のこと、悪かったな。なんか、追い詰めるようなこと言っちまって」
以前の僕なら、俯いて「別に」とだけ答えていただろう。
でも、今の僕は違った。
僕は顔を上げ、彼の目をまっすぐに見て、少しだけ微笑んだ。声が少し震えたけれど、構わなかった。
「ううん、こっちこそごめん。少し、混乱してたんだ。よかったら、一緒に食べないか?」
僕の言葉に、田中は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「お、おう」と嬉しそうに頷いた。
友情とは、誰か他者と結ぶものだけを指すのではないのかもしれない。自分の弱さを受け入れ、臆病さと手を取り合い、不完全な自分自身と友になること。それこそが、本当の意味で誰かと繋がるための、最初の一歩なのだ。
窓の外には、どこまでも澄み渡る秋の空が広がっていた。それは、ユウが溶けていった夏空の青よりも、ずっと深く、優しい色をしていた。