共鳴石の見る夢

共鳴石の見る夢

0 5897 文字 読了目安: 約12分
文字サイズ:

第一章 響かない言葉、温かい石

僕の唯一の友人は、言葉を話さない。

月長石にも似た、乳白色の滑らかな石。手のひらに心地よく収まるほどの大きさで、光の角度によって淡い虹色の光沢を浮かび上がらせる。祖父が亡くなった時、書斎の片隅で埃を被っていたのを僕が見つけた。名前はコハク。僕がそう名付けた。

コハクはただの石ではなかった。「共鳴石」と、祖父の遺したメモには記されていた。持ち主の感情に呼応して、その温度や色合いをかすかに変えるのだという。嬉しいことがあると、じんわりと人肌のような温もりを帯び、悲しいことがあると、氷のように冷たく、色も心なしか曇って見える。

大学を卒業して、在宅で翻訳の仕事を始めてから、僕の世界はますます狭くなった。元来、人と話すのが得意ではない。当たり障りのない会話はできても、その奥にある本心を探り合うようなやり取りに、いつもひどく消耗してしまう。だから、声を発しないコハクとの関係は、僕にとって完璧な安息だった。

「今日はね、依頼主から褒められたんだ。君のおかげだよ、いつも静かに側にいてくれるから、集中できる」

机に向かい、キーボードを叩く指を休めては、僕はコハクに話しかける。返事はない。けれど、手のひらに乗せたコハクは、いつもより少しだけ温かい気がした。その確かな熱が、僕の言葉が確かに届いている証のように思えた。夕暮れの光が部屋に差し込むと、コハクの表面に浮かぶ虹彩が、まるで微笑みかけるようにきらめく。僕らは、僕らだけの言葉で友情を育んでいた。僕が一方的に与え、コハクが静かに受け止める。その非対称な関係こそが、僕の心を穏やかに保つための揺りかごだった。

その日も、いつもと同じはずだった。仕事を終え、夕食を済ませ、一日の締めくくりにコハクを手に取った。今日あった些細な出来事、翻訳に行き詰まった箇所、窓の外を飛んでいった鳥の種類。とりとめのない話を、いつものように聞かせていた。

「……結局、人間関係って難しいよな。メールの文面一つで、相手の機嫌を損ねてないか考えすぎたりして。その点、君は最高だよ。何も言わないし、何も求めない」

自嘲気味にそう呟き、コハクを指でそっと撫でた、その瞬間だった。

パリン、とガラスにヒビが入るような、微かで、しかし耳の奥に突き刺さる鋭い音がした。驚いて手のひらを見つめると、コハクの滑らかだったはずの表面に、髪の毛ほどの細い亀裂が一本、走っているのが見えた。それだけではなかった。石全体が、今まで見たこともないほど青白い光を放ち、熱病にうなされる患者のように、不規則に明滅を繰り返している。手のひらに伝わるのは、心地よい温もりではない。火傷しそうなほどの、痛々しい熱だった。

「コハク……? どうしたんだ?」

僕の声は震えていた。僕の言葉が、コハクを傷つけたのだろうか。最後の自嘲が、この石の許容量を超えてしまったのだろうか。友情だと思っていた関係は、僕が気づかないうちに、この無口な友を蝕んでいたのかもしれない。

静寂に満ちていた僕の世界に、初めて不協和音が響き渡った。光を失い、ひび割れたコハクは、僕自身の壊れかけた心のようだった。僕は、僕のたった一人の友人を、この手で壊してしまったのかもしれない。その恐怖が、冷たい霧のように僕の全身を包み込んでいった。

第二章 褪せたインクの囁き

コハクの亀裂は、日を追うごとに僅かずつ広がっていった。かつて宿していた虹色の光沢は失われ、ただのくすんだ石ころへと変わり果てていくようだった。僕は仕事も手につかず、来る日も来る日も、コハクを治す方法を探し続けた。地質学の専門書を読み漁り、インターネットでパワーストーンの類を調べ尽くしたが、有力な情報は何も見つからない。当然だ。コハクは、科学やオカルトで分類できるような代物ではないのだから。

望みの綱は、祖父の遺品しかなかった。僕は屋根裏の物置に上がり、埃っぽい段ボール箱を一つ一つ開けていった。古い万年筆、使い込まれた革の手帳、そして、黄ばんだ和紙に墨で書かれた、いくつかの古文書のようなもの。その中に、祖父が遺した日記帳を見つけた。

表紙をめくると、祖父の懐かしい、丸みを帯びた文字が並んでいた。日記は、祖父が若かりし頃から晩年まで、断続的に綴られていた。僕は藁にもすがる思いで、共鳴石に関する記述を探した。

『共鳴石は、持ち主の魂を吸って育つ。それはさながら、感情を糧とする生き物のようだ』

『喜びや悲しみといった単純な感情は、石の表面を彩るに過ぎない。石の芯を育むのは、もっと深く、純粋な養分だ』

ページをめくる指がもどかしい。そして、僕は決定的な一文を見つけ出した。褪せたインクで書かれたその言葉は、僕の心臓を鷲掴みにした。

『この石が真に糧とするもの。それは、誰とも分かち合ったことのない、持ち主だけの『共有された秘密』である。心を完全に裸にし、その最も柔らかな部分を差し出した時、石は初めて持ち主を真の友と認め、その魂を輝かせる』

「共有された、秘密……」

僕は呟き、日記を閉じた。僕にそんなものがあるだろうか。いや、ある。心の奥底、誰にも触れさせないと誓った場所に、固く閉ざした記憶の箱がある。

大学時代のことだ。僕にも一度だけ、親友と呼べる人間がいた。カイトという、僕とは正反対の、太陽のような男だった。彼となら、どんなことでも話せる気がした。僕は生まれて初めて、自分の弱さや夢を、他人に打ち明けた。僕の秘密は、彼の前ではただの笑い話になった。僕は救われたのだと思っていた。

しかし、僕が打ち明けたささやかな悩みやコンプレックスは、いつの間にか僕のいない場所で、格好の酒の肴になっていた。僕が信頼の証として差し出した心の欠片は、彼にとっては単なる面白いゴシップに過ぎなかったのだ。その事実を知った時の、全身の血が凍りつくような感覚。世界が灰色に見えたあの日の絶望。以来、僕は誰にも心を開くことをやめた。

コハクに、この話をする? 馬鹿な話だ。この醜く、惨めな記憶こそ、僕が最も隠したい部分だ。こんなものを聞かせたら、コハクはもっと傷ついてしまうに違いない。亀裂はさらに深まり、今度こそ本当に砕け散ってしまうだろう。

だが、日記の言葉が頭から離れない。『心を完全に裸にする』。僕はずっと、コハクに心地の良い言葉だけを聞かせてきた。褒め言葉や、当たり障りのない愚痴。それは、僕が人間関係で繰り返してきたのと同じ、上辺だけの付き合いではなかったか。コハクを壊したくない。でも、このまま何もしなければ、コハクはゆっくりと光を失い、ただの石になってしまう。

僕はひび割れたコハクを手のひらに乗せた。それはもう冷たく、重いだけだった。僕の葛藤が伝わっているのか、石はぴくりとも動かない。僕は決断を迫られていた。唯一の友人を救うために、最も恐れている過去の亡霊と向き合う覚悟があるのか、と。

第三章 告白と砕け散る光

数日間、僕は眠れない夜を過ごした。部屋の隅で、コハクは沈黙を続けている。その姿は、僕に決断を促す無言の圧力のようだった。僕はもう、コハクの温もりを思い出せなくなりつつあった。このままでは、僕らの友情の記憶までもが、ひび割れた石と共に風化してしまう。

ある雨の夜、僕はついに覚悟を決めた。窓を叩く雨音が、僕の心臓の鼓動を隠してくれるようだった。僕は深呼吸を一つして、冷え切ったコハクを両手で包み込んだ。

「……コハク。聞いてくれるか。僕が、どうしてこんな風になったのか」

声が震える。喉が渇き、言葉がうまく出てこない。それでも、僕は続けた。

「僕にも昔、親友がいたんだ。カイトっていうんだ。僕は……彼になら、何でも話せると思ってた。僕の弱いところ、ダメなところ、全部……。でも、違ったんだ。彼は、僕の秘密を笑いものにしていた。僕の信頼は、彼にとってただの遊びだったんだ」

一言発するごとに、胸の奥に突き刺さっていた棘が、一本ずつ抜けていくような、それでいて抉られるような痛みが走る。涙が頬を伝い、コハクの上にぽつりと落ちた。

「僕は怖くなった。人に心を打ち明けるのが。信じることが。だから、君がいてくれて……本当に、救われてたんだ。君は何も言わない。裏切らない。僕にとって、完璧な友人だった。……ごめん。僕は君に、僕の都合のいい理想を押し付けていただけなんだ。本当の友達じゃなかったのかもしれない」

全てを吐き出した時、僕は嗚咽していた。子供のように声を上げて泣いたのは、何年ぶりのことだろう。その時だった。

カッ!

目の前が真っ白になるほどの閃光が、僕の手の中から放たれた。あまりの眩しさに目を閉じる。直後、硬いものが砕け散る、甲高い音が部屋中に響き渡った。恐る恐る目を開けると、僕の手のひらにあったはずのコハクは、跡形もなく消え失せていた。代わりに、きらきらと光る砂のような無数の破片が、床に散らばっている。

「……あ……あぁ……」

声にならない声が漏れた。終わった。僕の最も醜い告白が、コハクを完全に破壊してしまったのだ。僕は、自分の手で、最後の絆を断ち切ってしまった。絶望が、津波のように押し寄せる。膝から崩れ落ち、床に散らった光の砂をかき集めようとしたが、それは指の間からさらさらとこぼれ落ちていくだけだった。

どれくらいそうしていただろう。涙も枯れ果て、虚無感だけが心を支配していた時、ふと、あることに気がついた。砕け散った破片の中心に、何か小さなものが残っている。それは、小指の爪ほどの大きさの、黒曜石のように滑らかで、深い光を湛えた核のようなものだった。

その核を見た瞬間、僕は祖父の日記の、あるページを思い出した。インクが滲んでいて、判読を諦めた最後のページだ。僕は憑かれたように立ち上がり、日記帳を掴んだ。光にかざし、目を凝らして、滲んだ文字を必死に追う。

『……石は砕けるのではない。殻を破り、新たな段階へ『孵化』するのだ。それは、持ち主が真に心を開いた証。そして——持ち主が次の友を見つける準備ができた証でもある。共鳴石の役目は、孤独を永遠に癒すことではない。孤独から踏み出す、その一歩を支えるためにある』

孵化。準備ができた証。

コハクは、僕の告白によって壊れたのではなかった。僕が初めて、本当の意味で心を開いたことで、その役目を終えたのだ。僕の孤独に寄り添い、僕が再び人を信じる勇気を取り戻すまで、静かに待っていてくれたのだ。砕け散った光は、破壊の残骸ではない。僕の卒業を祝う、祝福の光だったのだ。

僕は床に残された小さな核を、そっと拾い上げた。それはもう、温かくも冷たくもなかった。感情に呼応することもない。ただ、静かで、力強い存在感を放っていた。

第四章 ただの石ころと最初の一歩

コハクとの別れは、不思議と悲しくなかった。いや、悲しみがないと言えば嘘になる。胸の奥には、ぽっかりと穴が空いたような寂しさがあった。けれど、それ以上に、温かい感謝の気持ちが心を静かに満たしていた。コハクは、僕の孤独な世界に差し込んだ、一筋の光だった。そして、僕が自分の足で光の中へ歩き出すのを見届けて、役目を終えて去っていったのだ。

翌朝、僕は庭に出て、小さな穴を掘った。そして、コハクが遺した黒い核を、そっと土の中に埋めた。いつか芽吹くことがあるのか、それともこのまま土に還るのか、僕には分からない。ただ、これが僕にとっての、コハクへの弔いであり、新たな始まりの儀式のように思えた。

砕け散った破片の中から、一番虹色の輝きが美しいものを一つだけ選び、ポケットに入れた。それはもう、何の力も持たない、ただの石ころだ。けれど、僕にはその小さな欠片が、コハクが遺してくれたお守りのように感じられた。

数日が過ぎた。僕の生活は、表面的には何も変わらない。相変わらず家で翻訳の仕事をし、誰と会うわけでもない。だが、僕の内面は確実に変化していた。窓から見える景色が、以前よりも色鮮やかに見える。鳥の声が、ただの騒音ではなく、生命の歌として聞こえる。世界は、僕が心を閉ざしていた時と同じ世界のはずなのに、全く違って見えた。

その日の午後、アパートの隣の部屋に、新しい住人が引っ越してきた。ベランダで荷解きをしているのは、僕と同じくらいの年の青年だった。以前の僕なら、カーテンを閉めて気配を消していただろう。だが、僕はしばらく、その姿を眺めていた。

青年が、ふとこちらに気づいて、少し気まずそうに会釈をした。

僕は、無意識にポケットの中の石の欠片を握りしめていた。それは冷たいままだったが、確かな硬さが僕の指に伝わってくる。それはまるで、コハクからの声なきエールのように感じられた。

『準備はできたんだろう?』

僕は小さく息を吸い、ベランダの窓を開けた。そして、自分でも驚くほど自然に、言葉を発していた。

「こんにちは。今日、越してこられたんですか」

青年は驚いたように目を見開いたが、すぐに人懐っこい笑顔を浮かべた。

「はい!今日からお隣になります。よろしくお願いします」

その笑顔は、かつての親友が浮かべていた太陽のようなものではなかった。もっと穏やかで、少しだけ不器用そうな、でも誠実そうな微笑みだった。僕らは、そこからしばらく、とりとめのない話をした。彼の名前、好きな音楽、この街に来た理由。それは、僕がずっと苦手としていた、他愛もない会話だった。けれど、不思議と苦痛ではなかった。

会話を終えて部屋に戻り、僕はポケットから石の欠片を取り出した。光に透かすと、虹色の筋が静かにきらめいている。それはもう、僕の感情に呼応して温かくなることはない。けれど、僕はこのただの石ころに、言葉にならないほどの友情を感じていた。

コハクが教えてくれたのは、孤独の慰め方ではなかった。孤独から踏み出す、その最初の一歩の尊さだった。友情は、一つの形に留まるものではない。それは時に石のように沈黙し、時に光となって砕け散り、そしてまた新しい関係性の中で、静かに芽吹いていく。

僕のポケットの中の石ころは、これからもずっと、ただの石ころのままだろう。だが、僕はこの小さな欠片と共に、これからの道を歩いていく。もう、一人ではないという確信を胸に抱いて。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る