第一章 星からの挑戦状
柏木湊(かしわぎ みなと)の日常は、静寂と論理で構築されていた。大学院の研究室、窓の外に広がる無機質なキャンパス、そしてディスプレイに映し出される宇宙物理学の数式。それが彼の世界のすべてだった。感情という不確定要素を極力排除し、すべてを因果律で捉えようとする湊にとって、親友である橘陽介(たちばな ようすけ)の存在は、唯一のバグであり、同時に救いでもあった。
その日、湊のスマートフォンが、けたたましい通知音を立てた。珍しく陽介からのメッセージだった。開くと、一枚の写真が添付されている。満天の星を写した、夜の山の写真だ。息を呑むほど美しいが、陽介が撮る写真にしてはどこか素っ気ない。そして、写真の下には、たった一行。
『これを解いてくれ。お前なら、分かるはずだ』
意味が分からなかった。何かのクイズか、いつもの悪ふざけか。湊が返信を打ちあぐねていると、数時間後、今度は陽介の母親から着信があった。震える声が、湊の鼓膜を突き刺した。
「陽介が、昨日から山に入ったまま、帰ってこないの……」
陽介が遭難した。その事実は、湊が組み立てていた論理の世界に、大きな亀裂を入れた。警察の捜索が始まったが、手がかりは少ない。湊の頭の中では、陽介からの最後のメッセージが、不気味なエコーのように何度も繰り返された。
『これを解いてくれ』
湊はもう一度、送られてきた写真を開いた。星空の写真。プロの写真家を目指していた陽介が、ただ美しいというだけでこんな素っ気ない構図の写真を送ってくるだろうか。湊は写真を拡大し、星の配置を注意深く観察した。その瞬間、背筋に冷たいものが走った。物理学を専攻する湊だからこそ気づける、微かで、しかし決定的な違和感。いくつかの星の位置が、現代の天球図と僅かに、しかし明確にずれている。これは、今この地球上から見える星空ではない。
陽介は、この星空に何を隠したのか。そして彼は今、どこにいるのか。湊の世界を構成していた静寂は、親友の失踪という巨大な問いによって、粉々に砕け散った。
第二章 忘れられた約束
陽介の部屋は、彼の不在を雄弁に物語っていた。床には無造作に写真集が積まれ、壁には彼が撮った作品が所狭しと貼られている。窓から差し込む午後の光が、舞い上がる埃を金色に照らし、まるで時間が止まったかのようだった。湊は、陽介の両親に許可をもらい、何か手がかりがないかと部屋を調べていた。
「あの子、昔から湊くんのことばかり話していたわ。『湊は頭が良すぎるから、時々世界の面白さを見失うんだ。だから俺が教えてやらないと』なんて言って」
陽介の母親が、お茶を運びながら寂しそうに微笑んだ。その言葉は、湊の胸の奥にしまい込んでいた記憶の蓋をこじ開けた。
内向的で、いつも本ばかり読んでいた子供時代の湊。そんな彼を、無理やり外の世界に引きずり出したのが陽介だった。「おい湊、カブトムシ捕りに行くぞ!」「この川の先には海の怪物がいるらしい!」その突拍子もない提案に、湊はいつも眉をひそめながらも、結局は陽介の輝く瞳に負けてついて行った。陽介といる時間は、論理では説明できない驚きと発見に満ちていた。彼がファインダーを覗くとき、その瞳は世界の真理を捉えようとする科学者のように真剣だった。
本棚の隅に、一冊だけ場違いな、古びた天文学の専門書があるのを見つけた。湊がページをめくると、いくつかのページに付箋が貼られ、陽介の独特な丸い文字でメモが書き込まれている。特定の恒星の名前、そして不可解な数字の羅列。送られてきた写真の謎に繋がるものかもしれない。しかし、それだけでは何も解けなかった。まるで迷宮に放り込まれたような気分だった。
陽介、お前は俺に何を伝えたかったんだ。お前のその直感的な世界を、俺の論理で解き明かせとでも言うのか。焦りと無力感が、湊の心を締め付ける。壁に貼られた写真の中で、陽介は太陽のように笑っていた。その笑顔が、今はひどく遠いものに感じられた。
第三章 時を超えた答え
捜索は難航し、季節は夏から秋へと移ろいでいた。陽介の失踪は「絶望的」という言葉で語られるようになり、湊は研究室に引きこもる時間が増えていった。陽介の謎を解けない限り、彼の不在を受け入れることなどできなかった。
ある雨の夜、湊は陽介の部屋で再び手がかりを探していた。諦めにも似た気持ちでアルバムをめくっていると、一枚の色褪せた写真に目が留まった。小学生の頃の湊と陽介が、泥だらけになって、裏山の大きな樫の木の下に何かを埋めている。その写真を見た瞬間、雷に打たれたように、記憶の断片が繋がった。
タイムカプセルだ。
「十年後の俺たちへ」と題して、宝物を入れたクッキーの缶を埋めたのだ。陽介は「未来の俺への挑戦状だ」と言って、手作りの変な地図を入れていた。湊はすっかり忘れていた、子供の頃の他愛ない約束。
湊はいてもたってもいられなくなり、懐中電灯とスコップを手に、深夜の裏山へと向かった。雨が体を叩き、足元はぬかるんでいる。記憶を頼りに樫の木を探し当て、夢中で土を掘り返した。やがて、スコップの先に硬い感触が伝わる。錆びついたクッキーの缶。震える手で蓋を開けると、中にはビニールに包まれた手紙と、陽介が描いた一枚の絵が入っていた。
その絵を見て、湊は息を呑んだ。クレヨンで描かれた、稚拙だが独創的な星座の絵。そして、その星の配置は、陽介が最後に送ってきた写真の、あの「違和感のある星々」と寸分たがわず一致していた。
陽介のメッセージは、タイムカプセルを掘り起こせという、二人だけの暗号だったのだ。山での遭難は、この場所へ向かう途中の、悲しい偶然だったのかもしれない。湊はビニールから手紙を取り出し、懐中電灯の光で照らした。そこに綴られていたのは、湊の想像を絶する真実だった。
『湊へ。この手紙を読んでいるってことは、お前はちゃんと俺の謎を解いてくれたんだな。さすがだ。
ごめん。ずっと隠していたことがある。俺、治らない病気なんだ。もう、あまり時間がない。
お前に言えなかったのは、お前が俺のことで心を乱して、自分の進むべき道を見失うのが怖かったからだ。お前はいつも一人で考え込んで、世界を難しく捉えすぎる。俺がいなくなったら、お前はまた自分の殻に閉じこもってしまうんじゃないかって、それだけが心配だった。
だから、最後の賭けをすることにした。俺が遺したこの謎が、お前を少しでも外の世界に繋ぎ止めてくれるんじゃないかって。俺との思い出を辿ることで、お前が一人じゃないってことを、思い出してほしかったんだ。
お前のその賢い頭で、俺のこんな馬鹿げた行動を解析してみてくれよ。きっと答えは出ないだろうな。だって、これは論理じゃない。友情っていう、もっと厄介で、温かいもんだから。
じゃあな、親友。俺の分まで、世界の美しいものをたくさん見つけてくれ』
手紙を持つ手が、震えていた。雨粒なのか涙なのか、もう分からなかった。陽介は、自分の死すらも、湊を未来へ進ませるための「仕掛け」に変えようとしていたのだ。論理で割り切れない、あまりにも不器用で、壮大な愛情。湊はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。冷たい雨が、彼の心の奥底にあった孤独と悲しみを、すべて洗い流していくようだった。
第四章 君のいない世界で
陽介の葬儀は、彼がいなくなってから半年が過ぎた、冬の初めに行われた。遺体は見つからなかったが、家族は区切りをつけることを決めたのだ。湊は、あの日掘り起こした陽介の手紙を、スーツの内ポケットに忍ばせて参列した。
祭壇に飾られた陽介の写真は、壁に貼られていた、あの太陽のような笑顔だった。それを見ても、もう以前のような途方もない孤独感はなかった。代わりに、胸の奥に温かい何かが灯っているのを感じた。
あの日以来、湊の世界は変わった。数式や法則だけでは説明できない領域が、この世界には確かに存在することを、彼は身をもって知った。陽介が遺した「友情」という名の、観測不能なエネルギー。それは、湊の中で静かに、しかし確実に作用し続けていた。彼はもう、一人ではなかった。陽介との記憶が、陽介が教えてくれた世界の面白さが、見えない星のように彼を導いていた。
葬儀の後、湊は陽介の父親から、一台の古いフィルムカメラを手渡された。
「陽介が、いつか湊くんに渡したいと言っていたんだ。あいつは、君にしか撮れない世界があるって、信じていたから」
湊はそのずっしりとした重みを、掌で確かめた。ファインダーを覗くと、世界が少しだけ違って見えた。切り取られた四角い窓の向こうに、陽介が見たかったであろう風景が広がっている。
数日後、湊はカメラを首から下げ、夜明け前の丘に立っていた。東の空が白み始め、星々がその姿を消していく。陽介なら、この光をどう撮るだろうか。湊は息を吸い込み、シャッターを切った。カシャリ、という乾いた音が、澄んだ空気に響き渡る。
陽介、お前の挑戦状、確かに受け取った。お前のいない世界は寂しいけれど、決して無意味じゃない。お前が見つけようとした世界の美しさを、今度は俺が見つけてやる。お前が俺の星になってくれたように、俺も誰かの世界を照らす、ささやかな光になれるだろうか。
空には、一番星がまだ淡く輝いていた。それはまるで、遠い場所から瞬く、親友からの返事のようだった。湊はそっと微笑み、新しい一日が始まる世界へと、確かな一歩を踏み出した。