第一章 音のない音楽会
神保町の古書街の片隅に佇む「水上書房」の主、水上朔(みなかみ さく)の日常は、古い紙とインクの匂いに満たされていた。祖父から受け継いだその場所は、彼にとって世界の全てであり、静謐な避難所でもあった。本棚の隙間から差し込む午後の光が、埃を金色にきらめかせる。朔は、現実の人間関係よりも、物語の登場人物たちとの対話に安らぎを見出す青年だった。
その日も、朔は買い取ったばかりの古書の山を検分していた。手に取ったのは、函も焼け、背表紙が少しばかり痛んだ夏目漱石の『こころ』の初版本。指先でそっとページを繰ると、乾いた葉が砕けるような微かな音がした。その時、指先に異質な感触が触れた。「先生」と「私」の物語のちょうど中ほどに、一通の古びた封筒が挟まっていたのだ。
宛名も差出人も書かれていない、生成り色の封筒。封は切られていた。好奇心に駆られ、中にあった便箋をそっと引き出す。万年筆で書かれたであろう、インクの濃淡が美しい、流麗な文字が目に飛び込んできた。
『拝啓 名も知らぬあなたへ。
いや、僕だけが知っている、世界で一番美しい名前の君へ。
君のいない世界は、まるで音のない音楽会のようだ。喝采も、旋律も、すべてが意味を失ってしまう。君というただ一人の聴衆がいて初めて、僕の心臓は意味のあるリズムを刻み始めるのだ。君の笑い声は春の小川のせせらぎで、君の眼差しは夏の夜空に瞬く星だ。』
朔は息を呑んだ。それは、燃えるような恋情が綴られた、見事なラブレターだった。言葉の一つ一つが、まるで宝石のように磨き上げられ、読み手の心を直接揺さぶる力を持っている。しかし、物語が最高潮に達するであろう最後のページは、無惨にも破り取られ、存在しなかった。完璧な交響曲の、最も美しい終楽章が失われたかのような喪失感。
誰が、誰に宛てて書いたのか。そして、なぜ結びの言葉が失われてしまったのか。謎は、乾いたインクの匂いと共に、朔の心に深く染み付いた。この手紙は、彼にとって単なる古書の付属品ではなく、結末を探し求めるべき一つの「物語」となった。
数日後の午後、店のドアベルが澄んだ音を立てた。入ってきたのは、薄紫色のワンピースを着た女性だった。店内に咲いた一輪の野の花のような、儚げで、けれど凛とした佇まい。
「あの、祖母の遺品の本を探しておりまして……」
その声は、風鈴の音色のように涼やかだった。月島琹(つきしま ことり)、と彼女は名乗った。朔は、彼女の姿と、あの未完の手紙の美しい言葉とが、心の中で奇妙に重なるのを感じていた。
第二章 インクが滲む時間
琹は、それから頻繁に水上書房を訪れるようになった。彼女が探しているのは、祖母が大切にしていたという特定の装丁の古書で、手掛かりは曖昧だった。しかし、その探索は、二人の距離を縮めるための心地よい口実となった。
「水上さんは、どうして古本屋さんになったんですか?」
埃を払いながら、琹が尋ねる。彼女の周りだけ、空気がふわりと華やぐ気がした。
「祖父の店だったんです。子供の頃から、ここが僕の遊び場で……気づいたら、本の外の世界が少しだけ、怖くなっていました」
自嘲気味に笑う朔に、琹は優しい眼差しを向けた。
「素敵だと思います。たくさんの物語に守られているみたいで」
その言葉に、朔の心臓が小さく跳ねた。過去の失恋が残した傷は、彼を臆病にし、新しい関係へと踏み出す勇気を奪っていた。だが、琹と過ごす時間は、その硬くなった心の表層を、春の雨のように少しずつ溶かしていく。
ある日、朔は思い切って、あの手紙の話を切り出した。未完のラブレターの話に、琹は目を輝かせた。
「まあ、なんてロマンチック……。『音のない音楽会』、ですか。素敵……」
うっとりと呟く彼女の横顔を見ながら、朔は衝動的に提案していた。
「もし、よかったら……一緒に、この手紙の持ち主を探しませんか」
その日から、二人の「捜査」が始まった。便箋のウォーターマークから製紙会社を割り出し、インクの成分から年代を特定する。それはまるで、探偵小説の登場人物にでもなったかのような、心躍る時間だった。休日に神保町の文具店を巡り、古い万年筆について教わったり、図書館で過去の住宅地図を調べたりした。
調査は遅々として進まなかったが、朔にとってはどうでもよかった。琹の隣を歩くこと、同じものを見て驚き、笑い合うこと、その全てが、色褪せていた彼の日常を鮮やかに彩っていった。彼女の指先が偶然触れただけで、全身の血が熱を帯びるのを感じた。これが恋なのだと、痛いほどに自覚していた。
琹もまた、この時間を楽しんでいるように見えた。けれど時折、ふとした瞬間に、彼女の瞳に寂寥の色がよぎるのを朔は見逃さなかった。まるで、何か遠い日の約束を思い出しているかのような、そんな表情だった。その影の意味を、朔はまだ知らなかった。
第三章 綴じられなかった約束
手がかりは、意外なところから見つかった。手紙が挟まれていた『こころ』の巻末に、鉛筆で書かれた小さなサインが残っていたのだ。「K. A. より、S. T. へ」。これまで何度も見ていたはずなのに、なぜか見落としていた。
「K. A. ……月島、さんのイニシャルとは違いますね」
「いいえ……」
琹は、はっとしたように息を吸い込み、震える声で言った。
「私の祖父の名前、秋月(あきづき)要(かなめ)なんです。そして、祖母は……高遠(たかとお)静子(しずこ)。イニシャルが、一致します」
店内の空気が、シン、と張り詰めた。まさか、と思った。こんな奇跡のような偶然があるだろうか。
「じゃあ、この手紙は、君のおじいさんが……」
「はい」と頷いた琹の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。朔は狼狽え、言葉を失う。
琹は、ぽつりぽつりと語り始めた。彼女の祖父、要は、祖母の静子に想いを寄せながらも、それを伝えられずにいた。プロポーズを決意し、手紙と、祖母が好きだった漱石の『こころ』を贈る準備をしていた矢先、不慮の事故で帰らぬ人となったのだ、と。
「祖母は、祖父からの言葉を待っていたんだと思います。でも、それは永遠に届かなかった。だから……祖母は生涯、誰とも結婚しませんでした。ずっと、祖父を想い続けて」
朔の全身を、雷に打たれたような衝撃が貫いた。自分が心を奪われ、美しい結末を夢想したこの恋物語は、始まりすらしなかった、悲しい悲しい、永遠の悲恋だったのだ。自分が胸をときめかせた言葉の数々は、愛する人に届くことなく、冷たい紙の上で化石になってしまった想いの断片だった。
「ごめんなさい、私、ずっと探していたんです。祖母の遺品を整理していたら、祖父の日記を見つけて。そこに、この手紙と本のことが書かれていました。祖父が亡くなった時に、どこかに紛れてしまったようで……。いつか見つけて、祖母のお墓に供えたいって、ずっと思ってたんです」
彼女が探していた本。それは、朔が持っている、この『こころ』そのものだった。
「日記には、こうも書かれていました。『破り取った最後の一節は、栞代わりにして本に挟んだ』って……。一番大事な言葉だから、そうしたんだと思います」
朔の心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。最後の一節。そんなものは、どこにもなかった。自分が見つけた時、すでにそれは失われていたのだ。
希望に満ちた琹の眼差しが、ナイフのように朔の胸に突き刺さる。彼女の祖父母の叶わなかった想いの終着点を、自分は提示してやれない。それどころか、その残酷な事実を告げなければならない。
恋愛の成就を夢見ていた自分の心は、一瞬にして砕け散った。過去のトラウマが蘇る。やはり自分は、誰かを幸せにすることなどできないのだ。愛は、かくも残酷で、人を傷つける。その思いが、鉛のように心を沈ませた。
第四章 君と綴る最初の頁
その夜、朔は半狂乱で店の中を探し回った。本を棚から引きずり出し、床に広げ、一冊一冊のページを確かめる。あの手紙の切れ端が、どこかに紛れ込んでいるはずだ。琹の、あの期待に満ちた顔を裏切りたくなかった。祖父母の悲恋を、これ以上悲しい物語で終わらせたくなかった。
夜が白み始めた頃、朔は疲れ果てて床に座り込んだ。その時、ふと視界の隅に入った一冊の本。それは彼が普段、栞代わりに使っている文庫本だった。その本のページに、何気なく挟んでいた一枚の紙片。古びた、インクの染みた小さな紙切れ。
――そうだ、これは。
朔は思い出した。あの『こころ』を見つけるよりずっと前、別の古書から見つけ、インクの滲み具合が綺麗だったから、というだけの理由で取っておいた紙片だ。まさか。
震える手でそれを手に取り、光に透かす。そこには、あの手紙と同じ、流麗な万年筆の文字が記されていた。
『――だから、どうか僕の人生の、最後の頁を君と綴らせてほしい』
心臓が大きく高鳴った。見つけた。何十年もの時を経て、持ち主の元を離れ、奇跡のように自分の手元にあったのだ。これは、運命だったのかもしれない。
朔はすぐに琹に電話をかけた。店に来てほしい、とだけ告げて。
やってきた琹の顔は、不安と期待でこわばっていた。朔は何も言わず、その小さな紙片を彼女の手に乗せた。
琹は文字を読み、息を呑んだ。そして、その場に崩れるようにして泣き出した。それは悲しみの涙ではなく、安堵と、愛しさに満ちた涙だった。
「……ありがとう。ありがとう、水上さん」
涙の中で、彼女は花が咲くように微笑んだ。「これで、祖父と祖母は、やっとこの本の中で一緒になれたのね」
その笑顔を見て、朔は決意した。
祖父母の物語は、悲恋だったかもしれない。だが、その想いは消えたわけじゃない。時を超え、本を巡り、こうして今、自分たちの目の前にある。物語は、終わりじゃない。受け継がれ、続いていくのだ。自分の臆病さで、この繋がりを絶ってはいけない。
「月島さん」
朔は、震えそうになる声を懸命に抑え、まっすぐに彼女の目を見た。
「僕も、あなたと……僕の人生の、新しい頁を綴りたい」
それは、手紙の受け売りではない。彼自身の心から生まれた、精一杯の言葉だった。
琹は驚きに目を見開いた。その瞳に再び涙が浮かぶ。だが今度は、喜びの光がきらめいていた。彼女は、何も言わずに、ゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。
夕日が差し込む水上書房の店内で、二人はそっと手を取り合った。本棚の影が長く伸び、まるで無数の物語の登場人物たちが、二人を祝福しているかのようだ。
叶わなかった恋が遺した言の葉の栞は、長い旅の果てに、新しい恋の始まりを指し示していた。彼らの物語は、まだ真っ白な、最初の頁が開かれたばかりだった。