第一章 玻璃(はり)の輪郭
僕、カイの身体は、誰かと心を近づけるほどに、その輪郭を失っていく。まるで薄い玻璃細工が陽光に溶けるように、徐々に、しかし確実に、世界から透けていくのだ。
この世界には法則がある。人は皆、生涯でただ一人、『結びつきの友』と呼ばれる運命の相手を持つ。その者とだけ、魂の奥深くで感情を分かち合える。それ以外の人間関係は、水面に映る月のように、決して触れることのできない表層的なものに過ぎない。多くの者は、自分の『結びつきの友』を見つけられぬまま、静かな孤独を抱いて生を終える。
だから、ユナが僕に話しかけてきた時、戸惑いの方が大きかった。彼女は、この灰色の街で唯一、鮮やかな色彩を放っているような少女だった。
「ねえ、あなた、いつもあの樫の木の下で本を読んでるでしょ」
図書館からの帰り道、夕暮れの光が埃を金色に染める小径で、彼女はそう言った。栗色の髪が風に揺れ、好奇心に満ちた瞳が真っ直ぐに僕を射抜く。
「……ああ」
「何読んでるの?見せて」
彼女は僕の手から本を軽やかに抜き取った。その指先が僕の肌に触れた瞬間、心臓が跳ねると同時に、ひやりとした喪失感が背筋を駆け上った。見れば、触れられた部分の手の甲が、ほんのわずかに向こうの景色を透かしている。
僕は慌てて手を引いた。
「ご、ごめん。これは……」
「古い神話?面白そう!」
ユナは僕の動揺に気づくことなく、無邪気に笑った。その笑顔に、僕は自分の身体がまた少し、世界から薄れていくのを感じていた。友情という名の甘美な毒が、僕の存在を蝕んでいく。
第二章 零れ落ちる色彩
ユナとの時間は、僕の孤独を溶かしていく魔法のようだった。僕たちは古い鐘楼に忍び込んで街を見下ろしたり、誰も知らない小川で水切りをしたりした。彼女と笑い合うたび、僕の心は満たされていったが、その代償はあまりにも大きかった。
ある日、丘の上で並んで座り、地平線に沈む夕日を眺めていた時のことだ。
「カイの手、なんだか綺麗ね。光が透けてるみたい」
ユナが僕の右手をそっと持ち上げた。陽光を浴びた僕の手は、もはや半透明の水晶のようで、骨の影さえうっすらと見えている。僕は息を呑んだ。
その時だった。僕の指の間から、サラサラと何かがこぼれ落ちた。それは夕日の光を乱反射して、七色にきらめく微細な砂だった。
「わあ……!」
ユナが歓声を上げる。「何これ、虹色の砂?すごく綺麗!」
彼女は夢中になって、草の上に散らばった砂を手のひらに集め始めた。その砂が、僕という存在が削げ落ちた欠片なのだと、どうして彼女に言えるだろう。僕が彼女との絆を深めるたびに、僕の色が、僕の重みが、こうして世界から失われていくのだ。
「宝物にするね」
ユナは持っていた小さなガラス瓶に、その砂を大切そうにしまった。彼女の笑顔を見るたび、僕の身体からまた数粒、色彩が零れ落ちる。僕はただ、痛みを隠して微笑み返すことしかできなかった。
第三章 結びつきの枷(かせ)
僕の身体は日に日に透明度を増していった。街の人々は僕の横を通り過ぎても気づかず、ぶつかっては訝しげに虚空を振り返るようになった。僕という個の輪郭が、世界から認識されなくなり始めていた。
「私ね、時々感じるの」
ある雨の日、図書館の片隅で、ユナが声を潜めて言った。窓を打つ雨音が、僕たちの間に静かな共鳴を生んでいた。
「遠いどこかで、誰かが私と同じ旋律を口ずさんでる。きっと、私の『結びつきの友』だわ」
その言葉は、祝福であると同時に、僕にとっては残酷な宣告だった。彼女はやがてその運命の相手と出会い、本当の感情を分かち合うのだろう。僕のような、法則から外れた不確かな存在など、すぐに忘れてしまうに違いない。
僕には、そんな兆候など一度も感じたことはなかった。僕の運命は、誰とも結ばれていないのかもしれない。あるいは、この影のようになる呪いこそが、僕の結びつきの形なのかもしれなかった。
「カイは?感じる?」
「……いや」僕は短く答えた。「僕には、いないんだと思う」
ユナは心配そうに僕の顔を覗き込んだ。だが、彼女の瞳には、もはや僕の表情がはっきりと映らなくなっていた。僕の顔は、背景の書架の景色と混じり合い、曖昧な陽炎のように揺らめいていた。世界の法則という巨大な枷が、僕と彼女の間を無慈悲に隔てていくのを感じた。
第四章 嵐の夜の誓い
その夜、世界は嵐に見舞われた。風が窓を叩き、雷鳴が空を引き裂く。僕はユナが熱を出して倒れたという知らせを受け、彼女の家に駆けつけた。
部屋のベッドで横たわるユナは、ひどく苦しげに喘いでいた。医者は首を振り、「『結びつきの友』が見つからないことによる、魂の衰弱です。心が孤独に耐えきれなくなっている」と告げた。この世界では珍しくない、静かで緩やかな死の宣告だった。
駄目だ。
失ってたまるか。
僕の存在がどうなっても構わない。彼女がいない世界など、僕にとっては透明でいることよりも虚無だ。
僕は震えるユナの手を、両手で強く握りしめた。僕の身体はすでに、輪郭さえおぼろげな光の塊のようになっていた。
「ユナ」
僕は呼びかける。僕のすべてを、残された存在のすべてを、この手を通して彼女に注ぎ込むように。僕の喜びも、悲しみも、君と出会えた奇跡も、すべて。
「僕の感情を、君にあげる」
友情という、この世界ではありえないはずの絆を、僕は最後の力で編み上げた。僕の身体から、夥しい量の虹色の砂が滝のように流れ出し、床できらめきの絨毯を作る。視界が白んでいく。ユナの温もりが、僕がこの世界に存在した最後の証だった。
そして、僕の意識は完全に光に溶け、カイという存在は、世界から完全に消滅した。
第五章 忘れられた砂の記憶
ユナは奇跡的に回復した。しかし、彼女の記憶から、カイという少年の存在は綺麗さっぱり消え去っていた。嵐の夜に誰かがそばにいてくれた、温かい感覚だけを胸に残して。
日常に戻った彼女の机の上には、いつからかそこにある、虹色の砂が詰められた小瓶が置かれていた。
(これ、なんだっけ……)
なぜこれを持っているのか、誰からもらったのか、全く思い出せない。なのに、この小瓶を見るたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられるのだ。懐かしいような、ひどく切ないような、名前のない感情が込み上げてくる。
世界の法則では、『結びつきの友』以外にこんな深い感情は抱けないはずだった。だが、彼女の心には確かに、説明のつかない温かい疼きが存在していた。
彼女は瓶を手に取り、窓の外を眺めた。空っぽのはずの樫の木の下に、一瞬、誰かの影が見えた気がした。だが、瞬きをすると、そこには誰もいなかった。
忘れている。
私は、誰かとても大切な人を、忘れてしまっている。
その確信だけが、まるで道標のように彼女の心に灯っていた。
第六章 虹彩の創造
ユナは、失われた記憶を取り戻そうと必死だった。彼女は毎日、虹色の砂が入った小瓶を握りしめた。この砂だけが、唯一の手がかりだった。
ある満月の夜、彼女は決意した。運命の『結びつきの友』を待つのではない。私が、私の意志で、絆を創るのだ。
彼女は小瓶の蓋を開け、きらめく砂をそっと手のひらに広げた。それはまるで、小さな星屑の銀河のようだった。
「思い出せない『誰か』へ」
ユナは瞳を閉じ、すべての意識を手のひらの砂に集中させた。
「あなたが誰だか分からない。でも、あなたが私にとって、かけがえのない存在だったことは分かる。この砂が、その証だから」
彼女は、胸に渦巻く名もなき感情――愛しさ、切なさ、感謝――そのすべてを、祈りのように砂へと注ぎ込んだ。世界の法則に、定められた運命に、たった一人で抗うように。
「私は、あなたともう一度、繋がりたい」
その瞬間、手のひらの砂がまばゆい虹彩の光を放った。光は奔流となってユナの胸へと流れ込み、彼女の心臓の奥深くで、一つの新しい核を形成した。それは、世界のシステムを打ち破る、意志によって創造された最初の感情の絆だった。
第七章 君という名の光
ユナが目を開けると、世界は変わって見えた。いや、世界が変わったのだ。
彼女の心の中に、温かく確かな光が灯っていた。それは、カイという名の光源だった。
彼女がふと喜びを感じ、微笑む。すると、彼女の傍らに、陽だまりのような黄金色の影がふわりと現れた。
少し寂しくなって窓の外を眺める。すると、寄り添うように、静かな青色の影が揺らめいた。
カイは肉体を失い、記憶からも消えかけた。しかし今、彼はユナの感情そのものを色として映し出す『影』となり、永遠に彼女の傍らに寄り添う存在となったのだ。形はなくとも、その存在は誰よりも確かだった。
「……おかえり、カイ」
ユナは、傍らに揺れる影に向かって、涙を浮かべながら微笑んだ。影は応えるように、優しい虹色にきらめいた。
この日を境に、世界は少しずつ変わり始めた。人々は、『結びつきの友』以外の他者とも、微かだが感情を共有できるようになった。街には今までになかった複雑な色の感情が生まれ、世界は美しくも混沌とした色彩に満ちていった。
友情は、もはや個を失う犠牲ではなかった。それは、他者という光を通じて自分自身の新たな色を見出し、世界そのものを塗り替えていく、創造の営みへと昇華したのだった。
ユナの傍らで揺れる虹色の影だけが、その革命の始まりを、静かに見守っていた。