残響に触れる君はもういない

残響に触れる君はもういない

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第一章 残響に棲む

僕、相沢カイトの世界は、半年前のあの日から音と色を失った。代わりに、死んだ親友、ハルキが遺した「感情の残響」だけが、僕の心をかろうじて彩っていた。

ハルキが死んでから、僕には奇妙な能力が芽生えた。彼が生前に触れたものに手をかざすと、その瞬間に彼が抱いていた感情が、音や色となって流れ込んでくるのだ。それは、僕だけがアクセスできる、ハルキとの秘密の通信手段だった。

彼の部屋は、今や僕にとって聖域であり、同時に博物館でもあった。壁に立てかけられたアコースティックギターに触れれば、コードをかき鳴らすときの弾むような喜びが、陽だまり色のハーモニーとなって聞こえる。読みかけでページの角が折られた文庫本からは、物語のクライマックスに胸を高鳴らせる期待感が、群青色のさざ波のように広がった。僕は毎日、学校にも行かず、この部屋でハルキの残響に浸っていた。そうしている時だけ、孤独を忘れられた。ハルキがまだ、すぐそばにいるような気がしたからだ。

「カイトくん、少しは外に出たらどうだい」

ドアの外から、ハルキのお母さんの心配そうな声が聞こえる。僕は返事をせず、息を殺した。彼女の優しさが、僕には針のように痛かった。ハルキを失った悲しみは、僕だけのものではない。なのに僕は、自分だけの殻に閉じこもり、彼の思い出を独占している。罪悪感が胸を締め付けるが、この残響に触れる行為をやめることは、ハルキを二度殺すことのように思えてならなかった。

その日も、僕はいつものようにハルキの机に向かっていた。彼の筆跡が残るノート、使い古されたシャープペンシル。一つ一つに触れ、懐かしい温もりに安堵する。だが、ふと、引き出しの奥に硬いものが当たるのを感じた。取り出してみると、それは僕の知らない、ずしりと重い黒檀の万年筆だった。キャップには銀の細工が施され、古風で、陽気なハルキの趣味とはおよそかけ離れている。

好奇心に駆られ、僕はそっと万年筆を両手で包み込んだ。

次の瞬間、僕の全身を凄まじい衝撃が貫いた。

それは、いつものような温かいハーモニーではなかった。耳をつんざくような、黒く尖った不協和音。視界が真っ赤に染まり、網膜の裏で無数の棘が明滅する。心臓を直接氷の指で掴まれたような、圧倒的な「恐怖」と「焦燥」。それは、僕が知るハルキのどんな感情とも違っていた。彼はいつも太陽みたいに笑っていた。こんな、魂が凍てつくような恐怖を、ハルキが抱いていたなんて。

万年筆が手から滑り落ち、床に硬い音を立てて転がった。僕は喘ぎながら後ずさる。壁に背中を打ち付け、ようやく呼吸を取り戻した。床に転がる黒い万年筆は、まるで不吉な生き物のように見えた。

一体、何なんだ。ハルキ、君は一体、何をそんなに怖がっていたんだ?

僕が知っている君は、本当の君じゃなかったのか?

僕たちの友情は、僕が信じていたような、光に満ちたものではなかったというのか?

その疑念は、僕が築き上げた思い出の聖域に、最初の、そして最も深い亀裂を入れた。

第二章 偶像のひび

あの万年筆に触れて以来、僕の世界は静かに変容し始めた。これまで心地よいBGMでしかなかったハルキの残響が、不穏なノイズを孕んで聞こえるようになったのだ。

僕は、ハルキが抱いていた「恐怖」の正体を知りたかった。それは同時に、知りたくないという強い抵抗感との戦いでもあった。もし、僕の知らないハルキの闇に触れてしまったら? 僕の中にいる完璧な親友のイメージが、粉々に砕け散ってしまったら? それでも、僕は彼の遺品を漁ることをやめられなかった。まるで、禁断の果実を求めるように。

ハルキの部屋のアルバムを開いた。二人で海へ行った時の写真。満面の笑みで僕の肩を組むハルキ。写真に触れる。キラキラと光る水面のような、楽しい感情のメロディが流れてくる。だが、その奥にかすかな影が差していることに、今の僕は気づいてしまった。低く、持続するチェロの単音のような、微かな「不安」。なぜだ? あんなに楽しそうだったじゃないか。

次に、彼が愛用していたヘッドフォンに手を伸ばした。いつも最新のロックを大音量で聴いていたハルキ。ヘッドフォンからは、予想通りドラムの力強いビートとギターの歪んだリフのような、高揚感の残響が響いてきた。しかし、その激しい音の隙間に、まるで息を潜めるように、冷たい金属音のような「孤独」の残響が混じっている。

一つ、また一つと、ハルキの偶像にひびが入っていく。僕が信じていた「太陽のようなハルキ」は、実は無理をして笑っていたのだろうか。僕という、内向的で頼りない友人のために。だとしたら、僕らの友情は、彼の自己犠牲の上に成り立っていた、いびつなものだったのかもしれない。

思考はどんどん悪い方へ転がっていく。僕がハルキに依存していたように、彼もまた、僕との関係に何かを見出していたはずだ。それは純粋な友情ではなかったのか? 僕をリードし、守ることで、彼自身の何かを満たしていただけだったのか?

混乱した僕は、ハルキの机の引き出しをもう一度、乱暴に開けた。あの万年筆が、全ての始まりだった。その出所さえ分かれば、何かが掴めるかもしれない。引き出しの底に敷かれた古い新聞紙をめくると、一枚のレシートが挟まっていた。日付は五年前。市内にあった文房具店のものだった。しかし、その店は数年前に閉店し、跡地にはコンビニが建っている。

手がかりが途絶えたかと思われたその時、レシートの隅に、ハルキの小さな文字で書かれたメモを見つけた。

『星見の丘の約束。忘れるな』

星見の丘。それは僕とハルキだけの呼び名だった。市街地から少し離れた山の中腹にある、廃墟と化した古い天文台のことだ。子供の頃、僕らはそこを秘密基地にして、よく星を眺めに行った。

そうだ、天文台だ。あの万年筆は、きっとそこに関係がある。

僕は、ほとんど衝動的に立ち上がった。半年ぶりに、自らの意志で外の世界へ足を踏み出す時が来た。真実を知るのが怖い。でも、偽りの思い出の中に閉じこもり続けることは、もっと苦しい。僕は震える手でドアノブを握り、ゆっくりと回した。

第三章 天文台の告白

錆びた鉄の階段を上るたびに、軋む音が廃墟に響き渡った。星見の丘、僕らの天文台は、記憶の中よりもずっと荒れ果てていた。壁は蔦に覆われ、割れた窓ガラスから吹き込む風が、埃っぽい空気とカビの匂いを運んでくる。

ドーム状の観測室にたどり着くと、中央には巨大な望遠鏡が、巨大な墓標のように鎮座していた。その土台のコンクリートには、僕とハルキが子供の頃に彫った、稚拙なイニシャルが今も残っている。僕は、あの万年筆が置かれていたであろう場所を探した。きっと、この望遠鏡の近くだ。

僕は目を閉じ、ゆっくりと望遠鏡の冷たい金属の土台に手を触れた。

来る。あの感情が。僕は覚悟を決めた。

しかし、僕を襲ったのは、予想を遥かに超える奔流だった。

視界が完全にブラックアウトし、耳鳴りが頭蓋骨を内側から叩き割るように響く。これは恐怖だ。だが、万年筆の時よりも遥かに生々しく、強烈な恐怖。違う。これは恐怖だけじゃない。後悔、絶望、そして、どうしようもない無力感。

ハルキ、君はここで、こんなにも苦しんでいたのか。僕が何も知らずに、のうのうと生きていた間に。

涙が頬を伝った。親友の苦しみに気づけなかった自分が、心底許せなかった。

その時だ。奔流のまっただ中で、一つの鮮明な光景が脳裏に浮かんだ。

それは、土砂降りの雨の中、坂道を猛スピードで滑り落ちていくトラックの姿だった。傘もささずに道の真ん中に立ち尽くす、小さな背中。ハルキだ。違う、あれは僕だ。幼い頃の、僕だ。トラックがすぐそこまで迫っている。危ない!

叫ぼうとした瞬間、僕の体を誰かが突き飛ばした。ハルキだ。彼は僕を庇って、トラックの前に……。

違う。これも違う。

事故の記憶が、捩れていく。真実はもっと、単純で、そして残酷だ。

あの日、僕らはこの天文台で喧嘩をした。些細なことだった。僕の弱虫な性格を、ハルキが少しからかったのだ。僕はそれにひどく傷つき、泣きながら天文台を飛び出した。雨が降っていた。ハルキが後ろから追いかけてくる声が聞こえた。「カイト、待てよ! ごめん!」

僕は聞く耳を持たず、坂道を駆け下りた。その時だった。ブレーキの壊れたトラックが、僕のすぐ横をすり抜けて、坂の下にいたハルキの方へ……。

―――ああ、そうか。

僕を襲っていたこの強烈な感情の残響。

万年筆から感じた恐怖も、天文台で感じた絶望も、後悔も。

それは、ハルキのものではなかった。

すべて、僕自身の感情だったのだ。

僕の能力は、他人の感情を読むものではなかった。僕自身が、過去にその物に触れた時の強い感情を、「他人の残響」という形で追体験する、自己防衛的な幻覚だったのだ。

ハルキを失った悲しみと、彼を死なせてしまったという罪悪感。その現実から逃れるために、僕の心は「ハルキはまだここにいる」という都合のいい物語を創り上げた。僕が感じていた彼の残響は、僕がそうであってほしいと願った、僕自身の記憶の捏造だった。

アルバムの写真にあった「不安」は、ハルキが僕を心配していた感情の断片ではなく、ハルキに嫌われたくないと思っていた僕自身の不安。ヘッドフォンから聞こえた「孤独」は、ハルキがいなければ何もできない、僕自身の孤独感だった。

そして、あの万年筆。五年前、この天文台でハルキからプレゼントされたものだ。僕が作家になりたいという夢を語った時、「最初の読者は俺だからな」と笑って渡してくれた。僕は嬉しくて、でも自分にそんな才能があるのか不安で、恐怖に近い感情を抱いた。その時の僕の感情が、万年筆には刻み込まれていたのだ。

全ては、僕の弱さが生み出した幻。ハルキは、僕が思っていたような完璧なヒーローではなかったかもしれない。でも彼は、最後の瞬間まで、僕を追いかけ、僕の名前を呼んでいた。それが、僕たちの友情の、紛れもない真実だった。

僕はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。それは、半年分の涙だった。

第四章 沈黙のち、朝

天文台から下りる道は、不思議なほど穏やかに感じられた。世界から音が消えた。これまで僕を満たしていた偽りの残響はもう聞こえない。ただ、風の音と、自分の足音だけが、やけにクリアに響いていた。空っぽになった心は、しかし、奇妙な静けさに満たされていた。

数日後、僕はハルキのお母さんと一緒に、彼の墓を訪れた。線香の煙が、初夏の空に細く立ち上っていく。僕は、お母さんに全てを話した。僕の奇妙な能力のこと、それが僕自身の心の幻だったこと、そして、事故の日の真実を。彼女は黙って僕の話を聞き、最後にそっと僕の肩を抱いてくれた。

「ありがとう、カイトくん。ハルキの最後の友達が、あなたでよかった」

その言葉は、どんな慰めよりも僕の心を救ってくれた。

僕は、冷たい墓石にそっと手を触れた。

もちろん、何も聞こえない。何の感情も、色も、流れ込んではこない。

ただ、石の硬質な感触と、太陽に温められた微かなぬくもりだけが、手のひらに伝わってきた。

でも、それでよかった。

もう、幻に縋る必要はない。僕が触れていたのは、ハルキの感情の残骸ではなく、僕自身の弱さの残骸だったのだから。本当のハルキは、僕の記憶の中に、心の中に、ちゃんと生きている。彼が僕にくれた勇気も、優しさも、笑い声も、何も失われてはいない。

僕は墓石から手を離し、空を見上げた。突き抜けるような青い空が広がっている。

「さよなら、ハルキ」

声に出して言った。それは、幻影との決別であり、本当の親友への、新しい挨拶だった。

「ありがとう」

帰り道、僕はハルキのお母さんと、昔の話をした。ハルキの子供の頃のいたずら。僕が転んでは、いつもハルキが助け起こしてくれたこと。僕らがどれだけ、お互いを必要としていたか。話しているうちに、自然と笑みがこぼれた。悲しみは消えない。でも、悲しみだけが全てではない。

家に帰り、僕は自分の部屋の机に向かった。そして、引き出しの奥から、一本の真新しい万年筆を取り出した。天文台から帰った翌日に、自分で買ったものだ。

インクを吸わせ、真っ白なノートを開く。

何を書こうか。まだ何も決まっていない。でも、書かなければならない。

僕自身の言葉で、僕自身の物語を。

ハルキが、最初の読者になってくれると約束してくれた、あの日の夢の続きを。

窓から差し込む光が、万年筆のペン先をきらりと照らした。

残響はもう聞こえない。

けれど、僕の世界には今、確かな光と、そしてこれから生まれる物語の、静かな始まりの音が満ちていた。

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