***第一章 消えた親友と一冊の古書***
柏木湊(かしわぎみなと)の世界は、古紙とインクの匂いで満たされていた。神保町の路地裏に佇む「柏木古書店」の店主である彼は、活字の森に埋もれることで、世界の喧騒から身を守っていた。埃っぽい静寂こそが、彼の安息の地だった。
そんな湊の世界に、遠慮なく土足で踏み込んでくる唯一の人間がいた。相葉陽介(あいばようすけ)。太陽のような笑顔を振りまく、フリーのカメラマン。二人は幼馴染で、内向的な湊と社交的な陽介は、磁石の異なる極のように惹かれ合っていた。
「湊、またそんなカビ臭い場所に籠って。たまには空を見ろよ、空を」
陽介はいつもそう言って、湊を外の世界へ引っ張り出した。彼が撮る写真は、いつも光に満ち溢れていた。湊は陽介の隣でだけ、息をすることができた。
その陽介が、煙のように消えた。
一週間前、何の連絡もなしにぱったりと姿を消したのだ。警察に相談しても、「成人男性の家出でしょう」と軽くあしらわれた。事件性はない、と。しかし、湊には分かっていた。陽介はそんな無責任な男ではない。
不安が胸を締め付ける中、湊は自分の店に見慣れない一冊の本が置かれているのに気づいた。陽介が最後に立ち寄った日に違いない。それは『星を編む人』という古い児童書だった。湊の店の商品ではない。陽介がどこかで見つけて、持ってきたのだろう。
何気なくページをめくった湊は、息を呑んだ。いくつかのページに、陽介の筆跡で、走り書きのようなメモが残されていたのだ。
『最初の光は、インクの海に沈む』
『迷子の猫が見た景色』
意味をなさない言葉の羅列。そして、最終ページには一枚の古い写真が挟まっていた。セピア色に変色したその写真は、鬱蒼とした森の中に立つ、古びた天文台を写していた。湊も陽介も、こんな場所には行った記憶がない。
これは、ただの失踪ではない。陽介が自分にだけ遺した、不可解なメッセージだ。湊は固く唇を結んだ。陽介を探し出す。そのためなら、この安全なインクの森から出ることも厭わない。彼の世界が、静かに軋みを上げて動き始めた。
***第二章 星屑の暗号***
陽介の残した暗号は、まるで夜空に散らばる星々のように、湊を惑わせた。しかし、湊は諦めなかった。彼は古書店のインクの匂いの中で、陽介との記憶の糸をたぐり寄せ始めた。
『最初の光は、インクの海に沈む』
湊ははっとした。それは、二人が高校時代、古書店の隅で交わした会話だった。「この店にある本全部のインクを集めたら、きっと深い海のようになるな」「その海の底には、物語の最初の光が沈んでるんだろうな」――陽介はそう言って笑っていた。
「インクの海」とは、この古書店のことだ。そして「最初の光」とは?湊は店内を見回し、陽介がいつも座っていた窓際の席に目をやった。その席の床板が、一枚だけ僅かに浮いていることに気づく。床板を剥がすと、そこには小さな鍵が隠されていた。
次の暗号は『迷子の猫が見た景色』。
これは、小学生の頃、二人が一緒に探した迷子の猫「タマ」のことだ。タマは結局、近所の神社の裏手にある、見晴らしの良い丘の上で見つかった。「ここからだと、街が全部見えるな」と、陽介は得意げに言っていた。湊は急いでその丘へ向かった。丘には古びたベンチが一つ。その裏に、鍵のかかった小さな木箱が埋められていた。先ほどの鍵が、カチリと音を立てて錠を開けた。
箱の中には、一枚の地図が入っていた。それは関東近郊の古い地図で、一つの場所に赤い丸がつけられている。そこは、今は廃村となった「星見村」という場所だった。そして、その村の近くには、地図記号で天文台が示されている。写真の天文台だ。
なぜ陽介は、こんな回りくどいことをしたのか。湊の心には、陽介との思い出が鮮やかに蘇っていた。いつも無口な自分のために、陽介は様々なゲームを考えてくれた。宝探し、秘密基地作り。それは、いつだって二人だけの冒険だった。
これも、陽介が仕掛けた冒険なのかもしれない。
湊は地図を握りしめた。胸に広がるのは、不安と、そしてほんの少しの期待。陽介はきっと、そこで待っている。子供の頃のように、「遅いじゃないか」と笑いながら。湊は陽介を信じて、星見村へと向かう決意を固めた。
***第三章 天文台の告白***
星見村は、時間の流れから取り残された場所だった。錆びついたバス停、蔦に覆われた家々。湿った土と腐葉土の匂いが、湊の鼻をついた。地図を頼りに山道を登ると、木々の隙間から、あのセピア色の写真と同じ、白亜のドームが見えた。天文台だ。
扉には鍵がかかっておらず、軋む音を立てて開いた。中はがらんどうで、巨大な望遠鏡が、まるで主を失った巨人のように、静かに天を仰いでいる。床には埃が積もり、壁には星図が色褪せて張り付いていた。そして、望遠鏡の操作卓の上に、一冊のノートが置かれていた。陽介の愛用していた、革張りのノートだった。
湊は震える手でノートを開いた。そこには、陽介の整った文字で、信じがたい事実が綴られていた。
『湊へ。このノートをお前が見ているということは、俺の仕掛けた最後の宝探しを、ちゃんとクリアしてくれたってことだな。さすが、俺の親友だ』
冒頭は、いつもの陽介の口調だった。しかし、ページをめくるにつれて、その内容は湊の心を抉るように突き刺さった。
『ごめんな、黙ってて。実は、俺はもう長くないらしい。脳に、厄介なものができちまった。医者には、あと数ヶ月だって言われたよ。情けないだろ?いつも元気だけが取り柄だったのにな』
湊の目から、涙がこぼれ落ちた。嘘だ。あの太陽のような陽介が、病気?余命?
『お前にこのことを言えなかった。お前の悲しむ顔を見るのが、何より怖かったからだ。俺は、お前にとって、いつまでも太陽みたいな陽介でいたかった。だから、俺は消えることにした。弱っていく姿を見せるくらいなら、謎の失踪を遂げた親友として、お前の記憶に残る方がいい』
ノートのインクが、湊の涙で滲んでいく。
『でも、ただ消えるだけじゃダメだと思った。俺がいなくなったら、お前はまたあの古書の森に閉じこもっちまう。だから、この最後の冒険を用意した。俺が残した星屑の暗号を辿って、お前が自分の足で、外の世界を歩いて、この場所にたどり着く必要があったんだ。湊、お前はもう一人で歩ける。俺が保証する』
これが、失踪の真相。陽介なりの、不器用で、あまりにも優しい、最後のプレゼントだった。彼は自分の死の恐怖と闘いながら、湊の未来のためだけに、この計画を立てたのだ。湊はノートを抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。陽介の友情は、湊が想像していたよりもずっと深く、そして切ない光を放っていた。
***第四章 きみが編んだ星空***
泣きじゃくった後、湊は天文台のドームへ続く螺旋階段を登った。開け放たれた天窓から、満天の星が降り注いでいた。そして、その星空の下に、陽介はいた。
手すりに寄りかかり、静かに空を見上げていた彼は、以前よりずっと痩せていたが、その笑顔は昔のままだった。
「よう、湊。遅かったじゃないか」
「……陽介」
声が震えた。言葉が続かない。陽介は穏やかに微笑んだ。
「やっぱり、お前ならここまで来れるって信じてた」
二人は多くを語らなかった。言葉は必要なかった。ただ隣に立ち、同じ星空を見上げた。陽介が愛した、光の世界。それは、陽介自身が湊に与え続けてくれたものだった。
「俺さ、星になるんだ」陽介が不意に言った。「だから、寂しくなったら空を見上げろよ。一番でっかく輝いてるのが、俺だからさ」
「……馬鹿言えよ」
湊はそう返すのが精一杯だった。
それが、陽介との最後の夜になった。
数週間後、湊は陽介の訃報を受け取った。覚悟はしていたはずなのに、胸にはぽっかりと穴が空いた。しかし、彼はもう古書の森に閉じこもることはなかった。
湊は「柏木古書店」の扉を、いつも開け放つようになった。そして、店を訪れる客一人ひとりと、言葉を交わすようになった。「どんな本をお探しですか?」その一言を口にするのに、陽介がくれた冒険が必要だった。人と関わることは怖かったが、陽介が繋いでくれた世界を、もう手放したくはなかった。
ある晴れた夜、湊は店の屋根裏から、陽介が昔プレゼントしてくれた小さな天体望遠鏡を引っ張り出した。埃を払い、夜空に向ける。レンズの向こうに、無数の星々がダイヤモンドのように輝いていた。
陽介はもういない。けれど、彼の友情は死なない。あの星の光のように、何光年も離れていても、確かにここに届いている。きみが編んでくれたこの星空がある限り、僕はもう一人じゃない。
湊は冷たい夜気の中で、静かに息を吸い込んだ。その瞳には、夜空の星々が、陽介の笑顔と共に、いつまでも、いつまでも映り込んでいた。
星を編む人
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