第一章 喪失の在り処
水島湊(みなしま みなと)の世界は、常にくすんだセピア色をしていた。感情の彩度が極端に低いのだ。彼が店主を務める古書店『昨日堂』の、古紙とインクが混じり合った甘く乾いた匂いだけが、唯一、彼の感覚に確かな輪郭を与えてくれる。
その日も、湊はカウンターの奥で、値札の貼り替えという単調な作業に没頭していた。窓から差し込む午後の光が、店内の埃をきらきらと金色に染め上げている。その光景を美しいとも何とも思わず、ただの物理現象として捉えている自分に、彼はとうに慣れきっていた。
「あの、すみません……」
か細い声に顔を上げると、店の常連である小柄な老婦人、タキさんが心細げに立っていた。その手は不安げにハンドバッグの留め金を何度も開け閉めしている。
「どうかなさいましたか、タキさん」
「水島さん……。大事なものを、なくしてしまったようなの」
タキさんの声は震えていた。彼女が語ったのは、亡き夫の形見だという銀の万年筆の話だった。昨日、この店に立ち寄った後、どこで失くしたのか見当もつかないのだという。
その瞬間、湊の脳裏に、求めてもいない光景が閃光のように過った。
―――公園のベンチ。緑青の浮いた銅像の足元。鳩にパン屑をやる人々。そのベンチの、脚と地面の隙間に、鈍い銀色の光が落ちている。
「……!」
湊は思わず息を呑んだ。これだ。彼の持つ、呪いにも似た能力。他人が失くしたものの在り処が、不意に、映像として頭に浮かぶのだ。
彼は口を噤んだ。この力を使うことには、代償が伴う。何かを見つけるたびに、自分の記憶が一つ、虫に食われたように欠落していくのだ。昨日は何を食べたか。先週の休日は何をしていたか。そんな些細な記憶から、徐々に大きなものへ。彼は自分の過去を、他人の喪失と引き換えに売り渡しているようなものだった。
しかし、タキさんの皺の刻まれた目元に滲む涙を見て、湊の心にわずかな疼きが走った。感情の乏しい彼でも、目の前の悲しみが本物であることは分かった。
「……タキさん、たぶんですけど」湊は意を決して口を開いた。「駅前の公園、銅像の近くのベンチの下かもしれません。一度、見てみては」
半信半疑の顔で店を出ていったタキさんは、一時間後、満面の笑みで戻ってきた。「あったわ!水島さん、どうして分かったの?まるで魔法使いね!」そう言って、彼女は深々と頭を下げた。
その夜、湊は自室のベッドで、不意に言いようのない喪失感に襲われた。必死に記憶を辿る。楽しかったはずの、子供の頃の夏祭りの記憶。ヨーヨー釣り、綿菓子の甘い匂い、夜空を焦がす花火の音。そのすべてが、まるで分厚いすりガラスの向こう側にあるかのように、輪郭を失っていた。また一つ、自分のカケラが消えた。彼はただ、空っぽの天井を見つめるしかなかった。
第二章 形のない依頼人
奇妙な依頼人が現れたのは、それから一週間ほど経った、雨のそぼ降る日のことだった。
「何かを失くした気がするんです。でも、それが何なのか、どうしても思い出せないんです」
カウンターの前に立つ女性は、佐伯遥(さえき はるか)と名乗った。濡れた傘から滴る雫が、店の床に小さな染みを作っている。彼女の目は、何かを探し求めるように、それでいてどこか遠くを見ているような、不思議な色をしていた。
「形のないものを探してほしい、と?」
湊の問いに、遥はこくりと頷いた。「馬鹿げた話だとは分かっています。でも、胸のあたりに、ぽっかりと穴が空いたような感覚がずっと続いているんです。まるで、体の一部をどこかに置き忘れてきたみたいで……」
物理的なモノではない依頼。それは湊にとって初めてのことだった。能力が発動する条件も、代償も、何もかもが未知数だ。断るべきだ。理性がそう告げていた。だが、彼女の言う「胸の穴」という言葉が、湊自身の空虚さと奇妙に共鳴した。自分なら、彼女の喪失を理解できるかもしれない。そんな、柄にもない考えが浮かんだ。
「……分かりました。力になれるか分かりませんが、手伝わせてくれませんか」
それから、湊と遥の奇妙な共同作業が始まった。彼女が失くした「何か」の手がかりを探すため、湊は彼女の日常に同行することになった。彼女がよく行くというカフェ、子供の頃に遊んだという公園、思い出の場所だという海辺の街。
遥は、自分の過去を淡々と、まるで他人事のように語った。彼女の言葉には、感情の起伏というものがほとんど感じられなかった。その様は、どこか湊自身に似ていた。二人でいても、会話が途切れる時間は長かった。しかし、その沈黙は苦痛ではなかった。雨音を聞きながら同じ窓の外を眺めたり、古書のページをめくる音だけが響く店内で並んで本を読んだり。そんな静かな時間が、少しずつ積み重なっていく。
湊は、人とこれほど長く時間を共にすること自体が久しぶりだった。彼女の隣にいると、セピア色だった世界に、ほんのわずかに、淡い色が差し込むような気がした。それは、遥が時折見せる、寂しさを隠すような笑顔のせいかもしれなかった。彼は、彼女の「穴」を埋めてあげたいと、初めて強く思った。それは同情や憐憫ではない、もっと別の、名前のない感情だった。
第三章 空洞の共鳴
ある日の夕暮れ、二人は遥の思い出の場所だという丘の上の展望台にいた。眼下に広がる街の灯りが、宝石のように瞬き始めている。その光を眺めていた遥が、ぽつりと言った。
「綺麗ですね。でも、何も感じないんです。綺麗だとは思うのに、心が少しも動かない」
その言葉が引き金だった。湊の頭の中で、激しいノイズと共に、鮮烈なビジョンが溢れ出した。
―――雨に濡れたアスファルト。横転した車。けたたましいサイレンの音。そして、その惨状を、表情一つ変えずに見つめている、若い遥の姿。彼女の周りでは誰もが泣き叫び、絶望しているのに、彼女だけが、まるで魂の抜け殻のように、ただそこに立っている。
ビジョンは続く。彼女の心象風景が、嵐のように流れ込んでくる。悲しい。辛い。苦しい。叫び出したいほどの感情の濁流。しかし、彼女の心はそれを拒絶する。「こんなものは要らない」。そう強く念じた瞬間、黒く渦巻いていた感情が、まるで生き物のように彼女の胸から引き剥がされ、闇の中へと消えていく。
「……っ!」
湊は激しい頭痛に顔を歪め、よろめいた。
「水島さん!?どうしたんですか、顔色が……」
心配そうに駆け寄る遥の顔を、湊はまともに見ることができなかった。分かってしまった。遥が失くしたもの。それは、モノでも、記憶でもない。
「あなたは……」湊は喘ぐように言った。「あなたは、『悲しみ』を失くしたんだ」
遥の顔から、すっと表情が消えた。ガラスのような瞳が、冷たく湊を見据える。
「何を、言っているんですか」
「数年前の事故……。あなたは、耐えきれないほどの悲しみから自分を守るために、その感情を自分の中から捨てたんだ」
「やめてください!」遥は耳を塞ぐように叫んだ。「そんなはずない!私は悲しくなんかない!ただ、あの日から、少しだけ、物事が色褪せて見えるようになっただけ……」
その時、湊は、遥の喪失に共鳴したことで、自分自身の深淵を覗き込んでしまっていた。なぜ、自分は他人の喪失が分かるのか。なぜ、自分には感情の彩りがないのか。答えは、パズルのピースが嵌まるように、しかし残酷な形で示された。
―――それは、まだ湊が学生だった頃の記憶。親友が、夢破れて絶望の淵にいた。何を言っても彼の心には届かない。「いっそ、何も感じなくなれたら楽なのに」と彼は泣いた。「楽しいとか、嬉しいとか、そんな気持ち、もう要らない」。その言葉を聞いた湊は、無意識に強く願ってしまっていたのだ。僕の喜びを、君にあげる。だから、どうか、希望を失くさないで。
そうか。俺は、「喜び」を失くしたんだ。
他人の喪失を見つけ出すこの力は、誰かの「欠落」を埋めるために、自分の一部を差し出す能力だったのだ。タキさんの万年筆を見つけた代償が夏祭りの記憶だったように、かつての自分は、親友の「希望」を見つけ出すために、自分の「喜び」という感情そのものを代償として支払ってしまったのだ。
湊は愕然とした。自分は空っぽだと思っていた。だが、そうではなかった。自ら、差し出して、空洞になったのだ。遥が「悲しみ」を捨てたのと同じように。
二つの空洞が、夕闇の中で静かに共鳴していた。
第四章 夕暮れに灯るもの
世界から音が消えたような静寂が、二人を包んでいた。先に口を開いたのは、湊だった。彼の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
「俺も、失くしたんだ。喜び、という感情を」
彼は、親友との過去を、途切れ途切れに遥に話した。自分の能力のこと、その代償のこと。そして、自分がなぜ空っぽの人間になってしまったのか。すべてを話し終えた時、彼の心には不思議な安らぎが広がっていた。誰かに自分の空洞を打ち明けたのは、これが初めてだった。
「失くしたものは、無理に見つけなくてもいいのかもしれない」湊は、遥の目を見て言った。「悲しみがない世界は、楽かもしれない。でも、失くしたという事実から目を逸らしたら、きっと、あなたは永遠にその穴を抱えたままになってしまう」
彼の言葉は、呪文のように遥の心に染み込んでいった。彼女の硬く閉ざされていた心の扉が、軋みながら、ゆっくりと開いていく。ずっと見て見ぬふりをしてきた、あの日の光景。家族の笑顔。そして、それを一瞬で奪い去った絶望。
遥のガラス玉のようだった瞳から、ぽろり、と一粒の雫がこぼれ落ちた。それは、すぐに次の一粒に繋がり、やがて堰を切ったように涙となって頬を伝った。
「……悲しい……」
何年も忘れていた言葉が、嗚咽と共に彼女の口から漏れた。「みんな、いなくなって……私、ずっと、一人で……悲しかったんだ……」
失っていた感情を取り戻すことは、激しい痛みを伴う。しかし、その涙は、彼女が人間らしさを取り戻すための、再生の儀式でもあった。湊は何も言わず、ただその隣に立ち尽くしていた。
その時、湊は胸の奥に、ほんのりと、小さな熱が灯るのを感じた。
それは、遥が流す涙の熱か、あるいは、他人の痛みに寄り添うことで生まれた、ごく微かな感情の光か。まだ「喜び」と呼ぶにはあまりにささやかで、名前もつけられないような感覚。しかし、彼の空洞だった心に、何かが確かに芽生えた瞬間だった。
帰り道、二人は言葉少なに、夕暮れの雑踏の中を歩いていた。湊の能力がなくなるわけではない。彼の失われた記憶や感情が、すぐさま戻ってくるわけでもない。遥の悲しみが、明日には消えているわけでもない。
けれど、湊は隣を歩く遥の横顔を見ながら、確信していた。一人では見つけられなかった何かを、この空っぽの二人なら、これから一緒に見つけていけるかもしれない。失くしたものを探すのではなく、新しい何かを、二人で。
セピア色の世界は、まだ鮮やかな色彩を取り戻してはいない。だが、街のネオンが、家々の窓から漏れる明かりが、以前よりもほんの少しだけ、温かく感じられるのを、湊は確かに感じていた。それは、彼の空洞の世界に差し込んだ、最初の希望の光だった。