シンフォニア・サイレンティアム

シンフォニア・サイレンティアム

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第一章 静寂の来訪者

篠田湊(しのだ みなと)の世界は、音で満ち溢れていた。ただし、それは彼にしか聴こえない、特殊な音だった。図書館の司書として働く彼の日常は、静寂を装った音の洪水だ。例えば、窓際の席で分厚い専門書をめくる老教授からは、長年連れ添った万年筆が紙を引っ掻くカリカリというリズムと、かすかなブランデーの香り、そして時折混じる亡き妻を偲ぶ低く沈んだチェロの音色が聴こえてくる。カウンターの向かいに座る受験生の少女からは、秒針のように神経質に刻まれる心音と、シャーペンの芯が折れる寸前の緊張感がヴァイオリンの軋みとなって響く。

湊はこれを「日常の交響曲」と呼んでいた。他人の生活、感情、記憶が織りなす、その人だけの音楽。この能力がいつから備わったのかは定かではない。物心ついた頃には、世界はすでにこのパーソナルな音響に満ちていた。それは時としてうるさく、人付き合いを億劫にさせたが、同時に、言葉を交わさずとも他者を深く理解できるという、密かな慰めでもあった。彼はこの音のヴェールの内側で、安全に、そして孤独に生きていた。

その均衡が崩れたのは、ある雨の日の午後だった。

図書館の古びた回転扉が、きぃ、と湿った音を立てて回り、一人の少女が入ってきた。歳は高校生くらいだろうか。色素の薄い髪を肩で切り揃え、大きな瞳は雨に濡れた紫陽花のように静かな色をしていた。彼女は周囲を一度見回すと、音もなく歩き、窓際の、いつも誰も座らない席に腰を下ろした。

湊は、彼女からどんな音楽が聴こえるだろうかと、意識を向けた。思春期特有の、不安定で甘美なメロディだろうか。あるいは、雨の日の憂鬱を映した、物悲しいピアノのアルペジオだろうか。

しかし、何も聴こえなかった。

完全な無音。それはまるで、オーケストラが鳴り響くコンサートホールの真ん中に、ぽっかりと空いた防音室のようだった。心音も、呼吸の音も、彼女が身につけている衣服が擦れる微かな音さえも、湊の世界には届かない。彼女の周囲だけが、真空のように静まり返っていた。

湊はカウンターの陰で息を呑んだ。こんなことは初めてだった。彼の三十年余りの人生で、音を持たない人間に会ったことは一度もなかったのだ。少女は鞄から一冊の古い植物図鑑を取り出すと、ただ静かにそのページをめくり始めた。彼女の存在は、湊が信じてきた日常の法則を根底から覆す、静かで、しかしあまりにも巨大な謎として、彼の前に現れたのだった。

第二章 響かない旋律

その日から、湊の日常は「無音の少女」を中心に回り始めた。彼女は水無月沙耶(みなづき さや)という名前だった。利用者カードの登録情報で、偶然それを知った。週に三日、決まって同じ曜日の同じ時間に来ては、同じ席で、同じ植物図鑑を飽きもせず眺めている。

湊は仕事の合間を縫って、彼女を観察した。彼女がページをめくる指先は、まるで蝶が花弁に触れるかのように繊細だった。時折、窓の外の木々を眺める横顔は、彫像のように整っていたが、表情は読み取れない。湊は必死に耳を澄ましたが、やはり彼女からは何の音も聴こえなかった。彼女の周りだけ、世界のボリュームがゼロに設定されているかのようだった。

焦燥感が募った。湊にとって、音のない人間は理解不能な存在だった。それは、楽譜のない音楽、言葉のない物語に等しい。彼は沙耶の「日常の交響曲」を聴きたかった。彼女がどんな朝を迎え、どんな夢を見て、何に心を痛めているのかを知りたかった。音さえ聴こえれば、彼女の内なる世界に触れられるはずなのに。

彼は様々な仮説を立てた。もしかしたら彼女は、感情というものを一切持たないのではないか。あるいは、彼女の人生があまりにも平坦で、音楽を奏でるほどの起伏がないのだろうか。いや、そんなはずはない。どんな人間にも、ささやかな喜びや悲しみ、つまりは「音」があるはずだ。

湊の能力は、彼に孤独をもたらす一方で、他者への歪んだ万能感を与えていた。音を聴けば、その人がわかった気になれた。しかし、沙耶の静寂は、その傲慢さを無慈悲に暴き立てる。彼は初めて、自分の能力に疑いを抱き始めていた。この耳は、本当に世界の真実を聴いているのだろうか。それとも、都合のいい幻聴を拾っているだけではないのか。

ある日の閉館間際、湊は返却された本を棚に戻すふりをして、沙耶の席の近くを通った。彼女は図鑑の、押し花が挟まれたページをじっと見つめていた。その瞳は、何かを懐かしむように、あるいは、何かを待つように潤んでいるように見えた。湊の心臓が、どくん、と大きく鳴った。その瞬間、彼はたまらない衝動に駆られた。この静寂を破りたい。彼女の世界に、ほんの少しでもいいから触れてみたい。

彼は無意識のうちに、彼女の「音」を想像していた。きっと、この潤んだ瞳の奥では、失われた何かを悼む、哀切なヴァイオリンのソロが流れているに違いない。そう思った。しかし、彼の耳に響くのは、相変わらずの完全な沈黙だけだった。

第三章 世界が反転する日

数週間が過ぎた。湊の焦燥と好奇心は限界に達していた。彼はついに、勇気を振り絞って彼女に声をかけることにした。それは彼にとって、音のヴェールを剥ぎ取り、生身の自分で未知の世界に飛び込むような、途方もない決断だった。

「あの…」

閉館を告げる音楽が流れ始めた図書館で、湊は沙耶の隣に立った。彼女は驚いたように顔を上げた。大きな瞳が、真正面から湊を捉える。心臓が早鐘を打つ。彼女から聴こえるはずの交響曲の代わりに、自分の耳障りな心音だけが頭蓋に響いた。

「いつも、その本を読んでいますね。何か、特別な本なんですか」

我ながら、ありきたりな質問だと思った。しかし、他に言葉が見つからなかった。沙耶は数秒間、湊の顔をじっと見つめた後、ふっと視線を落とし、植物図鑑の表紙を撫でた。そして、蚊の鳴くような、しかし芯のある声で囁いた。

「読んでいるんじゃありません。聴いているんです」

「え…?」

湊は耳を疑った。聴いている? 何を? この本から?

沙耶は、まるで彼の心を読んだかのように、小さく微笑んだ。

「この本の、声にならない声を。この押し花が、どんな場所で咲いて、どんな風に揺れて、どんな光を浴びていたのか…。それを、静かに聴いているんです」

その言葉は、湊の胸に深く突き刺さった。声にならない声を、聴く。それは、彼が自分の能力でやっていると信じていたことそのものだったからだ。しかし、彼女の方法は、彼のものとは全く異なっていた。

湊は、衝動的に口を開いていた。

「僕には、聴こえません。あなたの音が…」

言ってしまってから、後悔した。何を言っているんだ、こいつは。そう思われるに決まっている。

しかし、沙耶の反応は予想外のものだった。彼女は少しも驚かず、むしろ、ようやく仲間を見つけたかのように、安堵の表情を浮かべた。

「やっぱり、そうだったんですね」

「え…?」

「あなたからも、何も聴こえませんから。私と同じです」

その瞬間、湊の世界が、音を立てて崩壊した。

全身の血が逆流するような感覚。目の前がぐにゃりと歪み、図書館の棚が、本が、床が、全て溶けて混じり合っていく。

彼女からも、何も聴こえない…?

どういうことだ。湊が聴いてきた、あの無数の「日常の交響曲」は、一体何だったというのだ。老教授のチェロも、受験生のヴァイオリンも、街行く人々の喧騒も。全てが、幻だったとでもいうのか。

「あなたの能力…他人の考えていることを音として聞く力でしょう?」

沙耶は静かに続けた。その言葉は、混乱する湊の脳髄に直接響くようだった。

「でも、それは本当の音じゃない。あなたが、その人を理解したくて、必死に想像して作り出した、あなただけの音楽なんです。だから、私みたいに、あなたの想像が追いつかないほど静かな人間からは、何も作り出せない」

愕然とした。湊は、自分が聴いていた世界の正体を知った。それは他人の内面などではなかった。人付き合いが苦手で、他者を理解することに臆病だった彼が、相手の表情や仕草から「きっとこうに違いない」と勝手に物語を組み立て、それを音として脳内で再生していただけだったのだ。それは、他者理解ではなく、自己完結した孤独な想像力の産物。他人の交響曲だと思っていたものは、全て、湊自身の心が奏でる、独りよがりのメロディだった。

沙耶が「無音」だったのは、彼女が特別だったからではない。彼女の静謐な存在が、湊の浅はかな想像力を拒絶したからだ。彼女だけが、湊の作り上げた音の虚構世界に、染まらない真実だった。

湊は、立っていることさえできず、その場にへなへなと座り込んだ。三十年間、彼を支え、同時に縛り付けてきた世界の法則が、根底から覆った。耳鳴りのような静寂の中で、彼はただ、自分の世界の残骸の中に立ち尽くすしかなかった。

第四章 雨音のデュエット

世界が反転してから、数日が過ぎた。湊は、まるで生まれ変わったかのように、あるいは死んでしまったかのように、ぼんやりとした日々を送っていた。かつてあれほど雄弁に鳴り響いていた「日常の交響曲」は、ぴたりと止んだ。街を歩いても、図書館で働いていても、人々の内側から響いてくる音はもうない。ただ、現実の、ありのままの雑音が耳に入るだけだった。車の走行音、人々の話し声、空調の低い唸り。それらはかつて湊が聴いていた音楽に比べれば、あまりに無機質で、色彩に欠けていた。

彼は自分の世界がいかに偽りで、そしていかに豊かだったかを同時に思い知らされた。喪失感は大きかった。しかし、不思議と絶望はなかった。むしろ、長年背負ってきた重荷を下ろしたような、奇妙な解放感があった。

週末、湊は無意識のうちに、沙耶と出会った図書館の窓際の席に座っていた。外は、あの日と同じように雨が降っていた。ガラス窓を叩く雨粒が、ぱらぱらと不規則なリズムを刻んでいる。

「ここ、あなたの席だったんですね」

不意に、背後から声がした。沙耶だった。彼女はいつものように、あの古い植物図鑑を抱えていた。

「…どうぞ」

湊が席を立とうとすると、沙耶はそれを手で制し、彼の向かいの椅子に静かに腰を下ろした。

二人の間に、気まずい沈黙が流れる。しかし、それは以前湊が感じていたような、理解不能な静寂ではなかった。それは、言葉を必要としない、ただそこにいることを認め合う、穏やかな沈黙だった。

「音のない世界は、どうですか」

沙耶が、窓の外に視線を向けたまま尋ねた。

「…静かだ。少し、寂しいくらいに」

湊は正直に答えた。

「でも、悪くない。今まで聞こえなかったものが、見えるようになった気がする」

彼の視線は、窓ガラスを伝って流れ落ちる一筋の雨垂れを追っていた。それは隣の雨垂れと合流し、少しだけ大きな滴になって、また下へと落ちていく。その小さな世界の営みが、ひどく美しく見えた。かつての彼なら、雨に濡れる人々から「憂鬱なブルース」や「焦燥のマーチ」を聴き取り、こんな些細な光景には目もくれなかっただろう。

「音はなくても、世界は色と、形と、匂いで満ちています」

沙耶が囁くように言った。「想像すれば、もっと豊かになる。でも、それは音じゃなくてもいいんです」

その言葉が、湊の心にすとんと落ちた。彼は今まで、他人を理解するために「音」という一つの尺度に頼りすぎていた。わかったつもりになって、本当の姿を見ようとしていなかった。想像することは、決して悪いことではない。だが、それは相手を自分の型にはめるためではなく、相手のありのままの世界を、より深く感じるために使うべきなのだ。

湊は、目の前にいる沙耶を改めて見た。音はない。しかし、彼女がそこにいるという確かな存在感、共有している静かな時間、窓の外で世界を濡らす雨の匂い、古書のインクの香り。それらが混ざり合って、かつて彼が聴いていたどんな交響曲よりも、遥かに豊かで、複雑で、そして感動的な何かを奏でていた。

彼は初めて、想像の音に頼らず、ありのままの世界と、ありのままの他者と繋がれた気がした。それは、彼が本当に「聴く」べきだった、真実の音楽だったのかもしれない。

「ねえ、水無月さん」

湊は微笑んだ。

「今度、君が聴いているっていう、押し花の声の聴き方を、教えてくれないか」

沙耶は、一瞬驚いたように目を見開いた後、花が綻ぶように、柔らかく微笑んだ。雨音だけが、二人の間に流れる新しいデュエットのように、優しく響いていた。彼の「日常」は、この静かな雨音と共に、今、本当の意味で始まったのだ。

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