第一章 色褪せたポラロイド
僕、水野蒼(みずのあお)には秘密がある。他人が心の底から「忘れたい」と願う記憶に、肌が触れることで同調してしまう、呪いのような体質だ。それはまるで、所有者をなくした映像フィルムが、僕の脳内で勝手に映写されるような感覚だった。断片的で、脈絡がなく、しかし生々しい感情の澱(おり)だけが、べったりと心にこびりつく。
だから僕は、人と深く関わることを避けてきた。握手も、じゃれ合いも、肩がぶつかることさえも恐怖だった。他人の後悔や羞恥、罪悪感の奔流に飲み込まれるのは、もううんざりだったからだ。
そんな僕に、たった一人だけ、例外がいた。高槻陽(たかつきよう)。太陽の「陽」という名前が、これほど似合う人間を僕は他に知らない。彼は、僕が教室の隅で文庫本の世界に逃避していても、屈託のない笑顔で隣に座り、「蒼、次の体育、ペア組もうぜ」と声をかけてくる。彼にだけは、なぜか心を許せた。陽の周りには、いつも温かい光が満ちているような気がしたからだ。
夏の終わりの気怠い午後だった。写真部の陽が、部室で整理していた古いポラロイド写真の束を僕に見せてくれた。ざらついた質感の、少し色褪せた写真たち。その中の一枚を指差した陽の指先が、僕の手に偶然触れた。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
――蝉時雨が鼓膜を突き刺す。強い日差し。知らない路地裏。目の前で、肩を震わせて泣いている、見知らぬセーラー服の少女。長い黒髪が、涙に濡れた頬に張り付いている。どうして、と問うような、絶望と非難の入り混じった瞳が、僕(あるいは、この記憶の持ち主)を射抜く。申し訳ない、ごめん、という声にならない謝罪が、喉の奥で渦巻いている。指先が、氷のように冷えていく感覚。
「……蒼? おい、どうしたんだよ、顔色悪いぞ」
陽の声で、僕は現実世界に引き戻された。額にはじっとりと汗が滲み、心臓が嫌な音を立てていた。今のは、陽の記憶だ。彼が忘れたいと強く願っている、過去の一欠片。陽の快活な笑顔の裏に、こんなにも暗く、冷たい後悔が眠っていたという事実に、僕は息を呑んだ。
「なんでもない。ちょっと、眩暈がしただけ」
僕は無理に笑ってみせた。陽は心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。その彼の瞳の奥に、一瞬だけ、あの記憶の少女と同じ、深い悲しみの色が揺らめいた気がした。
この日を境に、僕と陽の間には、薄くて透明な、けれど決して破れない膜のようなものが生まれた。僕は陽に触れることを恐れ、陽もまた、何かを隠すように僕から少しだけ距離を置くようになった。僕らの友情が、音を立てて軋み始めている。陽が忘れたいと願うあの記憶の正体は何なのか。僕の呪われた能力が、唯一の親友との絆さえも蝕んでいく予感が、夏の終わりの空気に重く溶けていた。
第二章 蜃気楼の影
陽の秘密を探ることは、パンドラの箱を開けるような行為だった。それでも僕は、知らずにはいられなかった。あの少女の涙の理由を知らない限り、僕と陽の関係は、蜃気楼のように曖昧なまま、いつか消えてしまう気がしたからだ。
僕は、能力がもたらす断片的な情報を頼りに、パズルのピースを拾い集め始めた。蝉時雨、路地裏、セーラー服の少女。些細な手がかりだ。図書室の古い卒業アルバムをめくり、陽が所属していた中学時代の写真を探した。しかし、それらしい少女は見当たらない。
陽との会話も、どこか探るような、ぎこちないものになっていった。
「陽ってさ、中学の時、仲良かった女子とかいた?」
僕の不自然な問いに、陽は一瞬だけ表情を強張らせ、すぐにいつもの笑顔に戻って言った。
「別に。蒼といるのが一番楽しかったしな」
その言葉は、嬉しいはずなのに、棘のように僕の胸に刺さった。嘘をついている。彼の心が発する微弱なノイズが、僕には分かってしまう。
ある放課後、僕は陽を尾行した。最低な行為だと分かっていた。けれど、他に方法が思いつかなかった。陽は駅前の商店街を抜け、僕も知らない古い住宅街へと入っていく。そして、一軒の家の前で立ち止まった。表札には『篠宮』と書かれている。陽は門の前でしばらく佇んでいたが、インターホンを押すことなく、何かを決心したように踵を返した。その横顔は、僕の知らない、深く苦悩に満ちた表情をしていた。
その夜、僕は『篠宮』という名前を頼りに、インターネットで地域のニュースアーカイブを検索した。そして、見つけてしまった。
『一年前の夏、市内交差点で女子中学生が自転車事故。意識不明の重体』
被害者の名前は、篠宮美月(しのみやみづき)。添えられた写真に写っていたのは、僕が陽の記憶の中で見た、あの少女だった。記事を読み進める僕の指は、震えていた。加害者の名前は、そこには書かれていなかった。ただ、『同年代の少年』とだけ。
全てのピースが繋がった。陽が、彼女を事故に遭わせたんだ。だから彼はあの記憶を忘れたいと願い、彼女の家の前で立ち尽くしていたのだ。僕が今まで見てきた陽の明るさは、この重い罪悪感を隠すための仮面だったのかもしれない。
翌日、僕は陽を問い詰めた。
「篠宮美月って、誰なんだ」
海が見える坂道の上で、夕日が僕らの影を長く伸ばしていた。陽は僕の言葉に目を見開き、そして、諦めたように力なく笑った。
「……知ってたのか」
その肯定は、僕の心を冷たく抉った。友情が、信頼が、ガラガラと崩れ落ちていく音がした。僕は自分の能力を、そして真実を知ってしまった自分自身を、心の底から呪った。
第三章 反転する夏の空
「なんで、言ってくれなかったんだよ」
僕の声は、自分でも驚くほど震えていた。裏切られたという思いと、親友を信じきれなかった自分への嫌悪感がごちゃ混ぜになっていた。
「お前のせいじゃないって分かってる。事故だったんだろ? でも、一人で抱え込むことないじゃないか!」
陽は黙って僕の言葉を聞いていた。彼の顔を照らす夕日が、まるで舞台のスポットライトのように、その表情の些細な変化さえも克明に映し出す。やがて彼は、ゆっくりと口を開いた。
「違うんだ、蒼」
「何が違うんだよ!」
「あの事故は……俺じゃない」
陽の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「じゃあ、なんでお前が苦しんでるんだよ。なんであんな記憶を……」
「あれは、お前の記憶だよ」
陽は、静かに、けれど揺るぎない声でそう言った。
空気が凍りついた。蝉の声も、遠い潮騒も、何も聞こえなくなった。僕の、記憶?
陽は続けた。
「一年前の夏、俺たち、一緒にいただろ。あの交差点で。お前は自転車で、俺は少し後ろを歩いてた。角から飛び出してきた篠宮さんと……ぶつかったのは、お前なんだ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。記憶の霧が、少しずつ晴れていく。そうだ。あの日の夕焼け。ペダルを漕ぐ足の感触。悲鳴。金属が擦れる嫌な音。そして、地面に倒れた少女の姿……。
「お前は、そのショックで、事故の瞬間の記憶だけを失くした。医者は、解離性健忘だって。それからだ。お前が、人の記憶が見える、なんて言い出したのは」
僕は呆然と陽を見つめた。じゃあ、僕が陽に触れるたびに見ていたあの光景は、陽が忘れたいと願っていた記憶ではなかったというのか。
「お前は自分のせいだって、ずっと自分を責めてた。眠れない夜が続いて、どんどん痩せていって。見てられなかったんだよ。だから俺は、願ったんだ。毎日、毎日、強く願った」
陽は、自分の胸をぎゅっと掴んだ。
「――もし、蒼がその辛い記憶を誰かに押し付けられるなら、俺が全部引き受ける。あいつの罪悪感も、後悔も、全部俺のものになれ。蒼が忘れたいのなら、俺が代わりに覚えていてやる。だから、あいつがもう苦しまなくてすむように、どうか……」
陽の頬を、一筋の涙が伝った。
「お前が俺に触れるたびに見ていたのは、俺の記憶じゃない。俺がお前のために『肩代わりしよう』と願っていた、お前自身の記憶なんだよ」
世界が、反転した。
僕が感じていた陽との壁は、彼が僕を拒絶していたからではなかった。僕の痛みを、僕の罪を、たった一人で背負うために、彼が築いた優しい防壁だったのだ。僕の能力は、彼のその悲しいほどの優しさにだけ、共鳴していたのだ。
僕は、陽がどれほどの重荷を背負って、僕の前で笑っていてくれたのかを、ようやく理解した。友情だなんて、簡単な言葉で言い表せるものではなかった。彼は、僕の魂の半分を、ずっと守ってくれていたのだ。
第四章 空っぽの青
真実の重みに、僕はその場に崩れ落ちそうになった。忘却という名の空っぽの箱に閉じ込めていた罪悪感が、一気に溢れ出す。僕が彼女を傷つけた。僕が、陽にこんなにも重いものを背負わせていた。
「ごめん……ごめん、陽……」
言葉にならない嗚咽が漏れた。そんな僕の肩を、陽がそっと抱いた。今度はもう、見知らぬ誰かの記憶は流れ込んでこない。ただ、陽の不器用で、けれどどうしようもなく温かい体温だけが伝わってきた。
「謝るなよ。俺が、勝手にしたことだ」
陽はそう言って、少しだけ笑った。その笑顔は、僕が今まで見てきたどんな彼の笑顔よりも、ずっと儚く、そして美しかった。
僕らは、それから長い時間、何も話さずに海を見ていた。夕日が水平線に沈み、空が深い青色に染まっていく。僕の名前と同じ、蒼い色。今まで、自分の心が空っぽだと思っていた。けれど、違った。そこには、陽が守ってくれた、僕が向き合うべき痛みと、彼への感謝が確かに存在していた。空っぽなんかじゃなかった。
数日後、僕は陽と一緒に、篠宮さんの家を訪ねた。インターホンの前で、僕の指は震えていた。隣に立つ陽が、僕の手を強く握ってくれる。その感触は、ただ温かかった。
出てきた彼女の母親に、僕らは全てを話した。篠宮美月さんは、幸いにも意識を取り戻し、今はリハビリを続けているという。母親は僕らを責めなかった。ただ、静かに「あの子に、会ってあげてください」と言った。
僕の本当の夏は、ここから始まるのかもしれない。忘れたい過去を抱きしめて、それでも前を向くこと。一人で抱え込まず、誰かと痛みを分かち合うこと。陽が教えてくれた、本当の強さ。
帰り道、僕らは夕暮れの海岸を歩いていた。砂浜に残る二つの足跡が、どこまでも続いている。
「なあ、蒼」
陽が、僕の名前を呼んだ。
「俺さ、お前が親友で、本当によかったって思ってる」
僕は何も言えず、ただ頷いた。言葉にするには、あまりにも多くの感情が胸に渦巻いていた。
僕はそっと、陽の腕に自分の手を重ねた。記憶の残響は、もう聞こえない。ただ、寄せては返す波の音のように、穏やかで、確かな友情の温もりだけが、僕の空っぽだった世界を、ゆっくりと満たしていく。空はどこまでも青く、澄み渡っていた。