晶質世界のラストページ

晶質世界のラストページ

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第一章 静寂の硝子細工

古書修復家である私の指先は、時折、淡い虹色を帯びる。それは病の兆候だった。「晶質化症候群」――強い感情の起伏に呼応して、身体組織が徐々に珪酸塩系の結晶、つまりガラスへと変質していく稀有な病。喜びも、悲しみも、怒りさえも、私を美しい無機物へと変えていく毒だった。だから私は、心を凪いだ水面のように保ち、静寂の中で生きてきた。

私の仕事場は、古い革と紙の匂いが満ちる静かな空間だ。外の世界の喧騒とは隔絶されたこの場所で、私は傷ついた本の声なき声に耳を澄ます。破れたページを繕い、解れた背を綴じ直し、失われた時を再び物語に与える。感情を必要としない、緻密で孤独な作業。それが、私が私でいるための唯一の方法だった。

ある雨の午後、工房のドアベルが澄んだ音を立てた。そこに立っていたのは、傘から滴を落とす小さな男の子と、その母親だった。男の子――陽太と名乗った――は、大切そうに抱えた一冊の古い絵本を、ためらいがちに差し出した。

「おばあちゃんの、大事な本なんです。でも、最後のページが……」

母親が申し訳なさそうに言葉を継ぐ。見せられた絵本は、手作りの温かみがあるものだった。しかし、物語の結末にあたるであろう最後のページが、無残に引きちぎられていた。

「お願いします。これを、元通りにしてください」

陽太の真っ直ぐな瞳が、私を射抜く。その瞳の奥に揺らめく純粋な願いに、私の心の水面が微かに波立った。左手の人差し指の先が、チリッと微かな痛みを伴って、陽光に透ける。まずい、と思った。けれど、その瞳から目を逸らすことは、なぜかできなかった。

「……お預かりします。ただ、完全に元通りになる保証は」

「大丈夫です!お姉ちゃんなら、できるって信じてる!」

屈託のない信頼の言葉が、私の心の壁に小さなひびを入れた。私は黙って絵本を受け取ると、指先の微かな透明化を隠すように、そっと手を握りしめた。これが、私の静寂が終わりを告げる、最初の音だった。

第二章 色褪せたページの温もり

絵本の修復は、困難を極めた。それは市販の本ではなく、世界に一冊しかない手描きの作品だったからだ。物語は、『星の欠片を探すブリキのロボット』。インクの滲みや、ところどころ擦れた色彩から、作者の深い愛情が伝わってくるようだった。私は特殊な和紙と顔料を使い、失われた色彩を一点一点、丹念に再現していく。

作業を始めて数日後、陽太が一人で工房を訪ねてくるようになった。彼は修復作業をする私の傍らにちょこんと座り、絵本にまつわる思い出をぽつりぽつりと語り始めた。

「このロボットね、おばあちゃんが僕のために描いてくれたんだ」

「……そう」

「いつも膝の上で読んでくれた。ロボットが転ぶと『痛かったねえ』って言って、ページを撫でてくれるんだ。おばあちゃんの手、あったかかったなあ」

陽太の声は、古いインクの匂いしかしない私の工房に、陽だまりのような温かさをもたらした。彼の話を聞くたび、私の胸の奥で、忘れかけていた感情が小さな芽を出すのを感じた。それは、温かく、少しだけくすぐったい、不思議な感覚だった。

そして、その感覚に呼応するように、病は着実に進行した。初めは指先だけだった透明化は、手の甲にまで広がり、そこには繊細な霜柱のような結晶模様が浮かび上がっていた。光にかざすと、まるで精巧なガラス細工のようにキラキラと輝く。恐怖と、そして不謹慎にも、その美しさに心を奪われる自分がいた。

ある日、陽太が私の手を見て、目を輝かせた。

「わあ、お姉ちゃんの手、キラキラだ!星の欠片みたい!」

その無邪気な言葉に、私は息を呑んだ。私が呪いと呼んできたものを、彼は美しいと言った。その瞬間、強い感情の波が全身を駆け巡った。喜びと、切なさと、どうしようもない愛しさが入り混じった、経験したことのない感情。右腕の肘から先までが、一気に透き通っていくのが分かった。内部に走る結晶の亀裂が、陽光を乱反射して、壁に小さな虹を映し出す。痛いほどの感動が、私を蝕んでいく。私は、ゆっくりとガラスの彫像に変わり始めているのかもしれない。それでも、陽太の笑顔を見ていると、それさえもどうでもよくなる瞬間があった。

第三章 未完のラストページ

絵本の修復は、いよいよ最後のページを残すのみとなった。問題は、その失われた結末をどうするかだ。残されたページの断片と物語の流れから、ロボットが星の欠片を見つけて幸せになる、という結末を推測し、いくつかの下絵を描いてみた。しかし、どれもしっくりこない。物語に宿る魂が、それを拒絶しているようだった。

悩む私のもとに、陽太の母親から電話がかかってきた。

「瑠璃さん、申し訳ありません。息子に、まだお話ししていないことがありまして……」

彼女の口から語られた事実は、私の思考を根底から揺るがした。

あの絵本は、陽太の祖母が、自身の死期を悟りながら最期の力で描いていたものだった。そして、最後のページは「破れた」のではなく、完成する前に彼女が亡くなったため、初めから「描かれていなかった」のだという。未完の物語。それが真実だった。

だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。

「……実は、母も、あなたと同じ病でした。『晶質化症候群』だったんです」

電話口の向こうで、母親が声を詰まらせる。私の耳には、自分の心臓の音が、教会の鐘のように大きく響いていた。

「母は、病を呪いませんでした。むしろ、陽太への愛情を抱くたびに身体が輝いていくのを、美しいと言っていました。この病は呪いじゃない。愛した記憶を、永遠に輝かせるための祝福なのだと……。母は最期の瞬間、陽太を抱きしめながら、その腕がまるでダイヤモンドのように輝いていたそうです」

受話器を握る私の手が、震えていた。感情を殺し、静寂の中で朽ちるのを待つことだけが、生きる道だと信じてきた。しかし、陽太の祖母は違った。彼女は、愛することを選んだ。感動することを選んだ。ガラスに変わる運命を受け入れ、その輝きを、孫への愛情の証として刻みつけたのだ。

私は、工房の窓に映る自分の姿を見た。半分近くが透明になり、内部に複雑な結晶のネットワークを走らせた腕。それはもはや人間の腕には見えなかったが、呪わしい化け物のそれとも違っていた。夕陽を受けて、ステンドグラスのように荘厳な光を放っている。

「祝福……」

呟いた声は、ガラスが触れ合うような微かな音を立てた。心が、決まった。この物語の結末を描くのは、修復家としての私ではない。陽太の祖母の想いを受け継ぎ、そして私自身の感情を解放した、一人の人間としての、私でなければならない。

第四章 星の欠片は心の中に

「陽太くん、一緒に、このお話の最後を描かない?」

翌日、工房を訪れた陽太にそう提案すると、彼は一瞬きょとんとした後、満面の笑みで頷いた。

「うん!描く!」

私たちは、床に大きな紙を広げた。私は初めて、感情の赴くままに筆を走らせることを自分に許した。陽太の祖母への敬意。陽太への愛おしさ。そして、自分自身の運命を受け入れる覚悟。それら全てを、色に、線に、物語に込めていく。

強い感動が、私の身体を駆け巡る。腕から肩へ、そして胸へと、温かい光が広がるように晶質化が進行していく。痛みはない。ただ、身体の内側から、無数の星が生まれるような、神聖な感覚だけがあった。頬を伝う涙が、空気に触れた瞬間、小さな結晶となってキラリと床に落ちた。

「お姉ちゃん、泣いてるの?」

陽太が心配そうに私の顔を覗き込む。

「ううん。これはね、嬉しい涙だよ。心がキラキラしてる証拠なの」

私は微笑んだ。その笑顔に呼応して、私の顔の半分が、繊細なレース模様の入ったクリスタルのように透き通った。

私たちは、物語の結末を創り上げた。ブリキのロボットは、旅の果てに気づくのだ。探し求めていた星の欠片は、遠い宇宙にあるのではなく、誰かを大切に想う、自分自身の温かい心そのものだった、と。ロボットが、自分の胸の扉を開くと、そこから温かい光が溢れ出し、世界を照らす。そんな、ラストページ。

完成した絵本を、陽太に手渡す。私の身体の大部分は、もはや美しいガラスの彫像と化していた。夕陽が工房に差し込み、私の身体を透過して、壁や床に七色の光の模様を踊らせる。それはまるで、小さな教会にいるかのようだった。

「お姉ちゃん……」

陽太が、私の姿を見て息を呑む。

「……キラキラで、世界で一番きれいだ」

彼はそう言うと、ガラスでできた私の身体に、そっと抱きついてきた。ひんやりとしているはずなのに、彼の体温が、私の心の中心まで届くようだった。その瞬間、私の身体の奥深くで、最後の変質が起こった。心臓が、巨大な宝石のように、眩い光を放った。

私はもう、古書を修復することはできないかもしれない。けれど、後悔はなかった。感情を殺して永遠に近い時を生きるより、愛と感動に満たされて一瞬を輝く方が、どれほど尊いことか。

陽太は、これからもこの絵本を読むだろう。そして、彼の祖母の温もりと、身体ごと輝いて想いを伝えた私のことを、きっと覚えていてくれる。私の身体は、愛した記憶を永遠に閉じ込めた、一つの物語になったのだ。静寂の世界に響くのは、ガラスの心臓が刻む、幸福な鼓動の音だけだった。

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