第一章 色めく空と無口な僕
僕、水野蒼(みずの あお)には秘密がある。
感情が昂ると、空にオーロラが現れるのだ。それは僕の頭上にだけ広がる、個人的な天象儀。喜びはレモンイエローの光の帯となり、悲しみは藍色の霞となって空を覆う。そして、厄介なことに、怒りは血のような深紅のカーテンを揺らめかせる。幸いなことに、この奇妙な現象は、僕以外の誰の目にも映らない。だから僕は、高校に入ってからずっと、心を凪の状態に保つ訓練を続けてきた。無感動、無関心、無気力。それが僕の鎧であり、平穏を守るための処世術だった。
その平穏が、音を立てて崩れ始めたのは、高二の初夏のことだ。
昼休み、僕はいつも通り校舎の屋上で、ペットボトルの水を飲みながら、雲一つない青空を見上げていた。完璧な無の空。感情の波紋一つない、僕の理想とする空だ。
「やっぱり、ここが一番空が綺麗に見えるね」
不意に背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。僕の聖域に、初めて侵入者が現れた。振り返ると、そこにいたのは、クラスメイトの夏帆(かほ)だった。首から古めかしい一眼レフを下げ、太陽のように屈託なく笑っている。
「あ、ごめん。驚かせた? いつもいるから、ここが君のお気に入りなのかなって」
まずい。彼女の笑顔は、あまりにも眩しすぎた。僕の心の湖に、小石が投げ込まれたように波紋が広がる。案の定、視界の端で、真っ青な空に淡いピンク色の光が、恥じらうように滲み始めるのが見えた。
「……別に」
僕は慌てて立ち上がり、ぶっきらぼうに答える。これ以上、彼女と関わってはいけない。感情の蛇口が緩んでしまう。
「待ってよ。せっかくだから少し話さない? 私は夏帆。写真部なの」
夏帆は気にする様子もなく、僕の隣のフェンスに軽くもたれかかった。風が彼女の髪を揺らし、シャンプーの甘酸っぱい香りが鼻をかすめる。ピンク色のオーロラが、さらに濃くなっていく。僕は空から目を逸らし、足早に屋上の出口へ向かった。
「用があるから」
背後で夏帆が何か言っていたが、聞こえないふりをした。階段を駆け下りながら、僕は乱れる呼吸を整えようと必死だった。空を見上げなくても分かる。今の僕の頭上には、きっと、熟れた桃のような、どうしようもなく甘やかなオーロラが広がっているに違いない。
その日から、僕だけのカンバスは、静かに色を増やし始めた。
第二章 共有されないスペクトル
夏帆は、僕が築き上げた心の壁を、まるで存在しないかのように通り抜けてきた。教室で、廊下で、そして屋上で、彼女は僕を見つけるたびに話しかけてきた。
「水野くんって、いつも空見てるよね。どんな空が好きなの?」
「……別に、好きとかはない」
返事はいつも素っ気ない。けれど、僕の心は正直だった。彼女の問いかけに、空には戸惑いのラベンダー色が浮かび、彼女が友人とはしゃぐ姿を目にすれば、チリチリと胸を焼く嫉妬のオレンジ色が空をかすめた。僕の感情は、僕の意思とは無関係に、空というキャンバスの上で鮮やかなスペクトルを描き出していた。
僕は、そんな自分自身が恐ろしかった。感情を隠すことに必死だったのに、夏帆といると、次から次へと新しい色が生まれてしまう。それはまるで、モノクロの世界にいた僕が、突然極彩色の世界に放り込まれたような感覚だった。
ある放課後、夏帆が真剣な顔で僕に言った。
「お願いがあるの。今度、写真のコンテストがあって。テーマが『心揺さぶる空』なんだけど、なかなか良い写真が撮れなくて……。水野くん、どこか良い場所知らない?」
心揺さぶる空。その言葉に、僕は息を呑んだ。僕が毎日見ているこの空こそ、それじゃないか。誰にも見せることのできない、僕の感情そのものが映し出された空。
もし、このオーロラを彼女に見せることができたなら。もし、この美しさを分かち合えたなら。
そんなあり得ない想像が、胸を締め付けた。空には、切ない願いを映したような、淡い青緑色の光が揺らめいた。
「……知らない」
僕はそう答えるしかなかった。
しかし、その数日後、僕は半ば強引に夏帆に腕を引かれ、街を見下ろす高台の公園に来ていた。
「ほら、見て! ここの夕日、すごいんだよ」
彼女が指さす先、西の空は燃えるようなグラデーションに染まっていた。茜色、橙色、紫色。街のシルエットが黒く浮かび上がり、世界が終わる前の、一瞬の祝祭のようだった。
「綺麗だね……」
隣で呟く夏帆の横顔が、夕日に照らされて輝いている。その瞬間、僕の中で何かが弾けた。夕焼けの美しさ、彼女の存在、込み上げてくる言葉にならない感情。それら全てが混ざり合い、僕の頭上の空で爆発した。
空一面に、燃え盛る炎のようなオーロラが広がった。赤、金、紫、青。あらゆる感情の色が渦を巻き、まるで天そのものが意志を持ったかのように、激しく明滅していた。僕が今まで見た中で、最も壮大で、最も美しいオーロラだった。
僕は感動と、この秘密を知られてしまうかもしれないという恐怖で、身動き一つできなかった。
だが、夏帆は僕の空には気づかない。彼女はただ、うっとりと夕焼けを見つめていた。
「今日の空、最高……。でも、何かが違う。私の撮りたい空は、これじゃないんだ」
その言葉は、僕と彼女の間にある、決して越えられない壁を突きつけているようだった。僕だけが見ているこの絶景を、彼女は知らない。この激しい感情を、彼女と分かち合うことはできない。共有されないスペクトルが、僕に圧倒的な孤独を教え込んでいた。
第三章 ファインダー越しの真実
コンテストの締切が、週末に迫っていた。夏帆は日に日に口数が少なくなり、その表情には焦りの色が浮かんでいた。屋上で会っても、以前のように無邪気に話しかけてくることはなく、ただ黙って空を見上げては、ため息をついている。そんな彼女を見ていると、僕の空も、鉛色の雲のようなオーロラに覆われた。彼女を助けたい。でも、僕には何もできない。その無力感が、心を重く沈ませた。
金曜日の放課後。激しい夕立が嘘のように上がり、空は劇的に洗い清められていた。西の空には、巨大な虹がかかっている。
「これだ」
僕は、ほとんど無意識のうちに、写真部の部室へ走っていた。
「夏帆!」
ドアを開けると、彼女は机に突っ伏していた。僕の声に顔を上げた彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「水野、くん……?」
「来て。最高の場所がある」
僕は彼女の手を取り、走り出した。驚く彼女を引っ張り、僕が知っている秘密の場所へと向かう。学校の裏手にある、今は使われていない植物園の、ガラス張りの温室。そこからなら、西の空と街の光と、そして虹の全てが見渡せるはずだ。
息を切らして温室に着くと、僕の思った通りの光景が広がっていた。夕日に染まる雲、七色の虹、そして濡れた地面に反射する街のネオン。それは奇跡のような光景だった。
「すごい……」
夏帆が息を呑む。
僕は、彼女の隣に立ち、この美しい風景を、そして彼女自身を見つめた。もう、隠すのはやめよう。この気持ちを、僕だけのものにしておくのは、もう限界だ。
好きだ。君のことが。
心の中で、はっきりとそう告げた。その瞬間、僕の感情が解き放たれ、空のカンバスに、これまでのどんな色とも違う、温かく、そして力強い光のオーロラが描き出された。虹とオーロラが空で交差し、世界が祝福の光に満たされる。
「これだ……! 私が撮りたかったのは、この光だ!」
夏帆が叫び、夢中でカメラのシャッターを切る。
僕は、その言葉に凍りついた。まさか。
「……見えてるのか?」
震える声で尋ねると、夏帆はファインダーを覗いたまま、興奮した声で答えた。
「うん。ずっと見えてたよ。初めて屋上で会った時から。君の頭の上の空が、時々、すごく綺麗に色づくこと」
彼女は僕の方を向き、悪戯っぽく笑った。
「でもね、普通のカメラには全然写らないの。だから、ずっと試してたんだ。どうやったら、この『蒼くんの空』を写せるかなって」
そう言って、彼女はカバンからもう一台、年季の入ったフィルムカメラを取り出した。
「これは、おじいちゃんの形見。デジタルがダメなら、アナログならどうかなって。ずっと、このカメラで君の空を撮るチャンスを待ってたんだ」
僕が感じていた孤独は、僕が一人で作り上げた幻だった。彼女は、僕が隠そうとしていた心の全てを、最初から見て、受け止めようとしてくれていたのだ。
第四章 僕たちのカンバス
温室のガラスに、僕たちが作り出した光のスペクトルが反射して、キラキラと輝いていた。僕は、夏帆に全てを話した。感情がオーロラとして現れること。それを隠すために、ずっと心を閉ざしてきたこと。
夏帆は、僕の話を黙って聞いていた。そして、僕が話し終えると、フィルムカメラをそっと撫でながら、優しく微笑んだ。
「そっか。大変だったね。でもね、私は、その空が好きだよ。嬉しい時の黄色い光も、悩んでる時の紫の霞も、ぜんぶ。ぜんぶ、綺麗だって思ってた。私は、ただ綺麗な空じゃなくて、そんな蒼くんの心が撮りたかったんだ」
その言葉が、僕の心を縛り付けていた最後の鎖を、あっけなく断ち切った。
感情を抑える必要なんてなかったんだ。ありのままの自分で、よかったんだ。
涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪える。空には、感謝と安堵を表すような、柔らかな乳白色のオーロラが広がっていた。
「夏帆」
僕は彼女の名前を呼び、まっすぐに見つめた。
「君が好きだ」
僕の告白と同時に、空のオーロラは、燃えるような、しかしどこまでも優しい、極上のローズピンクに染め上がった。夏帆は少しだけ頬を赤らめ、そして、僕が今まで見た中で一番美しい笑顔で、僕にカメラを向けた。
カシャ。
古いフィルムカメラのシャッター音が、静かな温室に響いた。彼女は、僕の感情の色と、僕自身を、一枚の写真に焼き付けたのだ。
コンテストの結果がどうだったのか、僕は知らない。夏帆も、結局その話はしなかった。僕たちにとって、それはもう重要なことではなかったからだ。
数日後、僕たちはまた、屋上にいた。並んでフェンスにもたれかかり、夏の匂いがする風に吹かれている。僕の頭上には、穏やかなオーロラがゆったりと揺れている。
「ねえ、今の空、何色?」
夏帆が、僕の顔を覗き込むようにして尋ねた。
僕は少し考えて、笑って答える。
「サイダーみたいな色だよ。シュワシュワしてて、ちょっと甘い感じの」
「そっか。じゃあ、良い色だね」
彼女も笑った。
もう、僕はこの空を隠さない。この空は、僕だけの秘密じゃない。僕と彼女、二人だけの特別なカンバスになった。世界中の誰もこの光に気づかなくても、たった一人、この色を分かち合える人がいる。それだけで、世界はこんなにも鮮やかで、愛おしいものになるなんて。
僕はこれからも、僕の心というカンバスに、たくさんの感情の色を描いていくだろう。喜びも、悲しみも、その全てを。僕たちの空に。