第一章 六月の雷鳴
退屈だった。窓の外で揺れるケヤキの葉も、気怠げに響く古典教師の声も、何もかもが色褪せたフィルムのように見えた。高校二年の相川湊にとって、世界とはそういうものだった。情熱も、夢も、どこか遠い国の出来事。所属しているだけの写真部も、埃っぽい部室と同じくらい、僕の心の中で静かに死んでいた。
「相川くん、ちょっといいかな?」
放課後、帰り支度をしていた僕を呼び止めたのは、部長の月島陽菜だった。真っ直ぐな瞳と、太陽を吸い込んだような明るい声を持つ彼女は、僕とは正反対の生き物だ。
「部室の掃除、手伝って。一人じゃ無理」
「……なんで僕が」
「部員でしょ! 幽霊だけど!」
有無を言わさず腕を引かれ、僕は溜め息と共に、ほとんど足を踏み入れたことのない写真部の部室へと連行された。古い薬品と埃の匂いが混じり合う空間。陽菜は「まずはあの開かずのロッカーから!」と、錆びついた金属の扉を指差した。
二人で力を込めて扉をこじ開けると、黴の匂いと共に、忘れ去られた時間の残骸が転がり出てきた。その奥に、ひっそりと横たわっていたのが、そのノートだった。黒い革の表紙はひび割れ、何の変哲もない大学ノートだ。ただ、表紙に銀色のペンで、拙い文字が書かれていた。
『未来観測記録』
「何これ、中二病っぽ」
僕が鼻で笑うと、陽菜は「勝手に見ちゃダメだよ」と窘めながらも、興味深そうに覗き込んできた。パラパラとページをめくると、几帳面な文字で、未来の出来事らしきものが箇条書きで記されている。
《六月十五日。午後三時四十分頃。校庭のケヤキの木に落雷。》
《七月三日。ゲリラ豪雨。グラウンドが湖と化す。》
《七月二十日。化学室にて小火騒ぎ。原因は……》
くだらない。誰かの手の込んだ悪戯だ。僕はノートをロッカーの奥に投げ返そうとしたが、陽菜が「一応、取っておこうよ。何かの資料かもしれないし」と言って、それを棚の上に置いた。
その日から一週間後。六月十五日。僕はそのノートのことなどすっかり忘れていた。授業が終わり、空が不穏な鉛色に染まっていく。突然、窓の外が真っ白に光り、数秒遅れて、腹の底を揺さぶるような轟音が鳴り響いた。悲鳴と喧騒の中、僕が見たのは、校庭のケヤキの木から白煙が立ち上る光景だった。
時計は、午後三時四十二分を指していた。
背筋を冷たい汗が伝う。偶然だ。そうに決まっている。だが、僕の心臓は、錆びついた振り子のように、不規則なリズムを刻み始めていた。僕の退屈な日常に、ありえないはずの亀裂が入った瞬間だった。
第二章 残光のプレリュード
七月に入り、梅雨明け間近の空は気まぐれだった。そして、ノートに記された二つ目の記述も、現実になった。予報になかったゲリラ豪雨が街を襲い、グラウンドは本当に湖のように水浸しになった。偶然では片付けられない。あのノートは、本物の「未来日記」なのだ。
僕の日常から、退屈という色が抜け落ちていった。代わりに心を占めたのは、畏怖と、抗いがたい好奇心だった。僕は誰にも言えず、一人でノートのページをめくるようになった。
そんな僕の変化に気づいているのかいないのか、陽菜は写真コンクールのことで頭がいっぱいだった。今年のテーマは『残光』。廃部寸前の写真部にとって、これは最後のチャンスだった。
「金賞を獲る。そしたら、きっと新入部員も入ってくれる」
放課後の部室で、彼女は愛用の古いフィルムカメラを磨きながら、夢見るように言った。その横顔は、夕陽を受けてきらきらと輝いている。僕は、そんな彼女の姿を、ただぼんやりと眺めていた。そして、ノートの、ある一文を思い出していた。
《八月二十五日。全国高校生写真コンクール。月島陽菜、金賞受賞。》
そこまで読んで、僕は安堵の息を吐きかけた。だが、その記述には続きがあった。
《――ただし、その一枚が、彼女の心を深く、深く傷つけることになる。》
心臓が嫌な音を立てた。どういう意味だ? 彼女の努力が報われるのなら、それでいいじゃないか。なのに、なぜ傷つく必要がある?
その日から、僕は陽菜のことが気になって仕方がなくなった。無意識のうちに、彼女のファインダーが捉える世界を、僕も目で追うようになっていた。夕暮れの教室、雨上がりの水たまりに映る空、寂しげな猫の背中。彼女は世界に満ちる、消えゆく光のかけら――残光――を、必死に集めていた。
「相川くん、どう思う? この構図」
「……もうちょい、右から撮った方が、光の筋が綺麗に入るんじゃないか」
いつの間にか、僕は彼女の撮影に口を出すようになっていた。かつての僕なら、面倒だと切り捨てていたはずの行為だ。だが、ノートの不吉な記述が、僕を突き動かしていた。僕が何かをすれば、未来は変わるんじゃないか。彼女が傷つく未来を、避けられるんじゃないか。
「相川くんって、本当は写真、好きなんだね」
ある日、夕焼けに染まる屋上で、陽菜がふと呟いた。その言葉に、僕はどきりとする。否定しようとして、言葉に詰まった。ファインダーを覗く彼女の真剣な眼差し。シャッターを切る度に、小さく息を呑む仕草。そのすべてが、僕の無気力な心を少しずつ溶かしていく。
僕たちは、未来の予言と、消えゆく光を追いかける、奇妙な共犯者になっていた。この夏が、特別なものに変わり始めている予感がした。それは、破滅への前奏曲なのか、それとも希望への序曲なのか。僕にはまだ、分からなかった。
第三章 夏が遺した計画書
コンクールの締め切りが迫った八月のある日、陽菜が息を切らして部室に駆け込んできた。その顔は、これまで見たことがないほど高揚していた。
「撮れた。最高の『残光』が、撮れたよ!」
彼女が差し出したのは、一枚の現像されたばかりの写真だった。夕陽が差し込む病室の窓辺。そこに、一人の少女が座っている。少し寂しげに、けれど、どこか強い意志を秘めた瞳で、窓の外を見つめている。ガラスに反射した夕陽が、少女の輪郭を淡い光で縁取っていた。息を呑むほど、美しく、そして切ない一枚だった。
「私の妹。少し前から入院しててね。一時退院した時に、撮ったんだ」
陽菜は誇らしげに言った。妹の姿と、窓の外に沈んでいく太陽の光。その一瞬に、彼女は『残光』というテーマのすべてを焼き付けたのだ。僕は「すごいな」と心から呟いた。これなら、金賞も夢じゃない。
その夜、僕は安堵と興奮の入り混じった気持ちで、例のノートを開いた。もう一度、陽菜の未来を確認したかった。そして、最後のページに、これまで気づかなかった走り書きがあるのを見つけた。インクが滲んだ、切羽詰まったような文字だった。
《これを読んでいる未来の君へ。申し訳ない。このノートは、未来を記録したものじゃない。ただの僕の『計画書』だ。僕が体験したかった、叶えられなかった青春の設計図だ。》
頭を殴られたような衝撃だった。ページを震える手でめくり直す。
《六月十五日、落雷。》――それは、過去の気象データを徹底的に調べ、この時期、この場所で最も落雷の可能性が高い日として割り出したものだった。《七月三日、ゲリラ豪雨。》――それも同様だった。すべては、緻密な計算と、切実な願いによって書かれた、フィクションだったのだ。
ノートの最後の署名は、『日向 翔(ひゅうが かける)』。数年前に病気で亡くなった、写真部のOBの名前だった。彼は、病室のベッドの上で、来るはずだった自分の未来を、このノートに描き続けていたのだ。僕が体験したかった高校生活。僕が撮りたかった写真。僕が恋をしたかった、情熱的な誰か。
《月島陽菜、金賞受賞。》――それは予言ではなく、日向先輩の願望だった。彼が、自分と同じように写真に情熱を燃やす後輩が現れることを信じ、託した夢だったのだ。
では、あの不吉な一文は? 《その一枚が、彼女の心を深く、深く傷つけることになる。》
走り書きは、こう続いていた。
《僕はかつて、大切な人の写真を撮った。最高の写真だと思った。でも、その写真は意図せず、その人を深く傷つけてしまった。写真の力は、時として残酷だ。君には、僕と同じ過ちを繰り返してほしくない。僕の代わりに、この夏を、正しく完成させてくれ。》
すべてが、幻だった。僕を導いていたのは未来からの声ではなく、過去からの祈りだった。僕はノートに操られていたんじゃない。日向先輩の遺した計画書に、僕自身の意志で、色を塗っていただけなのだ。退屈だったはずの僕の夏は、見ず知らずの先輩が遺した、たった一冊の計画書によって、かけがえのないものに変わっていた。
窓の外では、遠くで花火が上がっていた。その光は、僕の目にはまるで、日向先輩の叶わなかった青春の残光のように見えた。
第四章 僕たちの残光
事態は、日向先輩の危惧した通りになった。陽菜の妹の容態が、再び悪化したのだ。コンクールに出品しようとしていた矢先、陽菜の両親から猛反対された。「あんな寂しい写真、縁起が悪い。すぐに処分しなさい」。
陽菜の心を打ち砕くには、十分すぎる言葉だった。部室で膝を抱え、「もうやめる。写真なんて、全部」と呟く彼女の背中は、あまりにも小さく、脆かった。最高の作品は、最悪の呪いへと変わってしまった。日向先輩が言っていた「彼女を深く傷つける」出来事の正体は、これだったのだ。
僕の中に、熱い何かが込み上げてきた。それは、無力な自分への怒りか、それとも日向先輩への共感か。いや、違う。陽菜に、こんな顔をさせたくない。ただ、それだけだった。
「陽菜、聞いてくれ」
僕は、ノートのすべてを話した。それが未来日記ではなく、一人の先輩が遺した夢の計画書だったこと。彼がどんな想いで、この夏をノートに描いたのか。そして、僕が、その計画書に導かれて、どれだけこの夏を必死に生きてきたか。
「未来なんて、決まってないんだ。だから、俺たちが決めるんだよ。この写真の意味を」
僕は陽菜の手を取り、病院へと走った。妹さんの病室を訪ね、例の写真を見せた。ご両親も、戸惑いながら僕たちの話を聞いていた。
「この写真は、寂しいだけの写真じゃない」僕は必死に言葉を紡いだ。「お姉ちゃんが、君のことをどれだけ大切に想っているか。病室から見える夕陽の中に、君の未来への光を見つけようとした証なんだ。これは、悲しみの記録じゃない。希望の『残光』なんだよ」
僕の拙い言葉に、陽菜の妹は、じっと写真を見つめ、やがて小さく微笑んだ。「…きれい」その一言が、凍りついた空気を溶かした。陽菜の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
結局、陽菜はその写真を出品した。結果は、金賞ではなかった。だが、審査員特別賞を受賞した。「被写体への深い愛情と、一瞬の光に永遠を閉じ込めようとする作者の強い意志を感じる」という、温かい選評と共に。
金賞だけがすべてじゃない。結果よりも大切なものを、僕たちはこの夏で見つけた。
八月の終わり。僕と陽菜は、あのノートを持って海に来ていた。夕陽が、水平線をオレンジ色に染めている。
「相川くん、撮ってよ」
陽菜が、僕の首にかかった古いカメラを指して言った。僕は頷き、ファインダーを覗く。オレンジ色の光を浴びて、柔らかく微笑む陽菜。その笑顔は、日向先輩が夢見た青春の光そのものに見えた。
カシャッ。
心地よいシャッター音が、潮騒に溶けていく。未来は白紙のノートだ。そこに何を描くかは、僕たち次第。日向先輩の夏は終わったけれど、僕たちの夏は、この一枚の写真から、また始まっていく。
僕は、日向先輩のノートを、もう誰にも見せないだろう。これは予言書じゃない。一人の先輩から僕へ、そして僕から未来へと手渡された、青春への憧れが詰まった、温かいバトンなのだから。ファインダー越しの空は、どこまでも青く、澄み渡っていた。