メモリアの川、君の宝石箱

メモリアの川、君の宝石箱

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第一章 捨てられた輝き

僕らの世界では、思い出は形を持つ。眠りから覚めると、枕元に小さな結晶が転がり出ていることがある。それは昨日の出来事が凝縮されたものだ。嬉しい記憶は温かく、太陽の光を浴びたように淡い金色に輝く。悲しい記憶は氷のように冷たく、鈍い鉛色をしている。僕らはそれを「メモリア」と呼んだ。

高校二年生の水島湊にとって、メモリアは厄介な代物でしかなかった。ポケットの中でじゃらじゃらと音を立てるそれらは、過去という名の重りだ。だから僕は、毎朝の通学途中、橋の上からそれを川に捨てるのが日課だった。チャリン、と軽い音を立てて水面に落ちたメモリアは、一瞬きらめいて、すぐに川底の藻屑と消える。今日の結晶は、昨夜友人たちと馬鹿笑いした記憶。淡いピンク色をした、いかにも「青春」らしい輝きだったが、僕にとっては昨日の残骸に過ぎない。

「どうして、そんなに綺麗な思い出を捨てるの?」

不意に、背後から澄んだ声がした。振り返ると、クラスメイトの月島陽菜が、少し悲しそうな顔でこちらを見ていた。彼女の白い指が、僕が今しがた捨てようとしていた別のメモリア――昼休みに食べたアイスの、ささやかな喜びが詰まった水色の結晶――をそっとつまんでいる。

「いらないから」僕はぶっきらぼうに答えた。

「いらない思い出なんて、あるのかな」

陽菜は僕の手から水色の結晶を受け取ると、大事そうに手のひらで包み込んだ。そして、驚くべきことに、彼女は川岸まで駆け下りていくと、躊躇なく水に足を踏み入れ、僕が捨てたピンク色のメモリアをすくい上げたのだ。濡れた制服のスカートも気にせず、彼女は宝物を見つけたかのように微笑んだ。

「これも、これも、あなたが捨てたの?」

彼女が持っていた小さなガラス瓶には、僕が見覚えのある色とりどりのメモリアがいくつも入っていた。先週の退屈な授業の灰色、週末に見た映画の感動を表すオレンジ色、そのどれもが、僕がこの川に投げ捨てたはずの過去の断片だった。

「人のゴミを集めて、楽しいのか」

僕の言葉には棘があった。だが、陽菜は全く気にする様子もなく、首を横に振った。

「ゴミじゃないよ。これは水島くんが生きた証でしょう? キラキラしてて、すごく綺麗」

その日から、月島陽菜は僕のストーカーになった。僕がメモリアを捨てようとするたびにどこからともなく現れ、「ちょうだい」と手を差し出す。断るのも面倒になり、僕はやがて、捨てる代わりに彼女に手渡すようになった。彼女はいつも嬉しそうにそれを受け取り、ガラス瓶に収めていく。陽菜の周りには、いつも誰かの、そして僕の「捨てられた輝き」が集まっていた。僕には、その行為の意味が全く理解できなかった。

第二章 ガラス瓶の中の共鳴

陽菜が僕のメモリアを集め始めて一ヶ月が経った。奇妙な関係は続き、僕らは自然と話す機会が増えた。放課後の図書室で、夕日が差し込む廊下で、僕らは他愛もない言葉を交わした。陽菜は自分のメモリアをとても大切にしていて、時々ガラス瓶を取り出しては、一つ一つを愛おしそうに眺めていた。

「これはね、小さい頃、お母さんに初めて褒められた日の記憶。温かいオレンジ色なの」

「こっちは、中学の時、リレーでアンカーを走って勝った時の。すごく眩しい金色なんだ」

彼女の話を聞いていると、まるでその情景が目に浮かぶようだった。僕にとってメモリアはただの過去の記録だったが、彼女にとっては、自分という人間を構成する大切なパズルのピースなのだと知った。

ある雨の日、僕らはバス停で雨宿りをしていた。バスを待つ間、陽菜はいつものように僕のメモリアをねだった。その日の結晶は、雨音を聞きながら読書をした穏やかな記憶で、静かな青色をしていた。

「水島くんのメモリアは、色んな色をしてるね。退屈そうな灰色の日もあれば、今日のこれみたいに、澄んだ青色の日もある」

「別に…」

「でも、一番綺麗なのは、誰かと笑い合ってる時の色。優しいピンクとか、弾けるような黄色とか」

彼女は僕の捨てた記憶を、僕自身よりずっと鮮明に覚えていた。その事実に、僕は胸の奥がざわつくのを感じた。過去を切り捨ててきたはずの僕の心が、彼女の言葉によって静かに揺さぶられていた。

その日を境に、僕の中で何かが変わり始めた。朝、枕元に新しいメモリアを見つけると、それを捨てる前に、少しだけ手のひらで転がしてみるようになった。これは昨日の陽菜との会話の記憶。温かい乳白色をしている。これは、彼女の笑顔を思い出した時の記憶。小さな虹色の光が混じっている。

僕は初めて、自分のメモリアを「捨てたくない」と思った。その小さな結晶は、陽菜と過ごした時間の証だったからだ。僕はそれをポケットにしまい、彼女には渡さなかった。翌日、陽菜は少し寂しそうな顔をしたが、何も言わなかった。僕のポケットの中で、乳白色のメモリアが確かな温もりを持っていた。僕の空っぽだった世界に、陽菜という色彩が生まれ始めていた。

第三章 空っぽの宝石箱

陽菜が突然、学校に来なくなった。一週間が過ぎても彼女の席は空いたままで、クラスでは様々な憶測が飛び交った。僕の胸には、得体の知れない不安が黒い染みのように広がっていった。彼女に渡さなかったメモリアが、ポケットの中で冷たくなっていく気がした。

意を決して、僕は彼女の家を訪ねた。インターホンを押すと、やつれた表情の陽菜の母親が出てきて、僕を部屋に通してくれた。陽菜の部屋は、窓辺にたくさんのガラス瓶が並べられ、太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。まるで宝石箱のようだ。しかし、ベッドに横たわる陽菜は、その輝きとは対照的に、ひどく色褪せて見えた。

「水島…くん?」

彼女の声はか細く、僕を見つめる瞳はどこか焦点が合っていない。

「どうしたんだ、月島。風邪か?」

僕の問いに、彼女は力なく微笑んだ。

「忘れていくの。少しずつ、全部」

陽菜は、記憶が徐々に失われていく、稀な病を患っていた。昨日の夕食も、一週間前の楽しかった出来事も、やがては両親の顔さえも、砂の城のように崩れていくのだという。彼女が大切にしていたメモリアは、失われていく記憶を繋ぎ止めるための、必死のアンカーだったのだ。

「自分のメモリアはね、もうあまり生まれなくなったの。思い出せないから」

彼女はそう言って、枕元の空っぽの宝石箱を指差した。

「だから、他の人の記憶が欲しかった。キラキラした思い出を見てると、私の空っぽが、少しだけ埋まる気がして…。特に、水島くんの思い出は、色が濃くて、温かくて、一番好きだった」

衝撃で、頭が真っ白になった。僕がゴミのように捨てていた過去の断片。それは、記憶を失っていく彼女が、喉から手が出るほど欲していた輝きだったのだ。僕の無神経さが、彼女をどれだけ傷つけただろう。僕が切り捨ててきた無数の日々が、彼女にとっては生きる希望そのものだった。

「ごめん…」

僕の口から漏れたのは、そんな陳腐な言葉だけだった。価値観が、世界が、根底から覆された。過去を捨てることで未来に進めると思っていた僕は、なんて傲慢で、愚かだったのだろう。

陽菜は、おぼつかない手つきで、窓辺に置かれた一番大きなガラス瓶を指差した。それは、僕が捨てたメモリアだけで満たされた瓶だった。

「あれは、私の宝物。水島くんが生きてきた、物語だから」

その言葉は、僕の心を貫いた。僕は、自分の物語を、ずっと他人に預けていたのだ。

第四章 君の記憶になる物語

あの日から、僕の世界は一変した。僕はもうメモリアを捨てない。毎朝生まれる新しい結晶を、一つ一つ大切に集めるようになった。陽菜が学校に戻ってくることはなかったが、僕は毎日、放課後に彼女の家を訪ねた。

「月島、今日のメモリアだ。数学の小テストで満点を取った。見てくれ、誇らしげな金色だろ?」

「これは、昼休みに食べた焼きそばパンの記憶。ソースの匂いがしそうだ」

僕は、その日の出来事を詳しく語りながら、彼女に新しいメモリアを手渡した。陽菜は僕の話を、まるでおとぎ話を聞く子供のように、目を輝かせて聞いた。彼女の記憶は日に日に薄れていき、時々、僕の名前さえ思い出せないことがあった。それでも、僕が語る物語と、手のひらに乗せられた温かい結晶を、彼女は心から楽しんでいるようだった。

僕が本当に向き合うべきは、過去のトラウマだった。小学生の頃、唯一の親友が転校する日、喧嘩別れしたままだった。その日の悲しみが詰まった鉛色のメモリアを、僕は川に投げ捨てた。それ以来、僕は過去と向き合うことから逃げ、全てのメモリアを捨てるようになったのだ。

僕は、家の引き出しの奥にしまい込んでいた、その鉛色のメモリアを取り出した。冷たくて、重い。でも、これも僕の一部だ。僕はそれを持って陽菜の元へ向かった。

「これは、僕が初めてメモリアを捨てた日の記憶だ」

僕は、親友との辛い別れを、初めて誰かに語った。話しながら、涙がこぼれた。陽菜は何も言わず、ただ僕の話を聞いていた。そして、僕が語り終えると、彼女はそっとその鉛色のメモリアを受け取り、自分の手のひらで包み込んだ。

「これも、水島くんの大事な物語だね。冷たいけど、ちゃんと輝いてる」

その瞬間、僕の心にあった長年のわだかまりが、すっと溶けていくのを感じた。

陽菜の記憶がどれだけ失われようとも、僕が覚えていればいい。僕が彼女の記憶になればいい。僕らは二人で、一つの物語を紡いでいくのだ。

今日も僕は、新しいメモリアを手に、彼女の部屋を訪れる。窓辺のガラス瓶は、僕と彼女が共に生きた日々の輝きで、少しずつ満たされていく。たとえ明日、彼女が僕を忘れてしまっても、この輝きだけは、きっと彼女の心のどこかに残り続ける。

僕は彼女の手を取り、新しく生まれたばかりの、温かいピンク色のメモリアを乗せた。それは、今、君の隣にいるこの瞬間の、かけがえのない喜びの記憶。僕らの青春は、これから始まるのだ。

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