沈黙の戦端

沈黙の戦端

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第一章 静寂の呼び声

リオの世界は、言葉にならない言葉で満ちていた。彼の喉は、思考の奔流に追いつけず、しばしば意味のない音の澱みとなってしまう。吃音。それは、彼が物心ついた時から背負う呪いであり、人々との間に見えない壁を築いていた。辺境の村で羊を追いながら、彼はいつも頭の中で壮大な物語を紡いでいた。騎士と竜の叙事詩、星々を渡る恋人たちの悲恋、忘れられた神々の年代記。彼の内なる世界は、誰よりも雄弁だった。

長く続く隣国エルダーとの冷戦は、生活の隅々にまで冷たい影を落としていたが、この村ではまだ遠い国の出来事のように感じられた。少なくとも、あの日までは。

その日、村には不釣り合いな黒塗りの浮遊車が音もなく舞い降りた。土埃を巻き上げながら現れたのは、首都の紋章を付けた役人たちだった。彼らの目的は、リオただ一人。

「リオ・ターナー君だね。君の『物語』の才能について、我々は聞き及んでいる」

指導者らしき男が、感情の読めない声で言った。リオの心臓が、石のように喉の奥で跳ねる。なぜ、自分のことを。彼は村の祭りで、子供たちにせがまれて自作の物語を書き留めた紙を配ったことがあるだけだ。それが、どうして首都にまで。

「我が国、アークライトとエルダーとの長きにわたる緊張は、最終局面を迎えようとしている。来る『最終編纂』において、国威を担う新たな『編纂官』が必要なのだ」

編纂官。それは、この世界の戦争の形そのものだった。アークライトとエルダーは、互いに一滴の血も流さない。その代わり、両国が選出した編纂官が、自国の正義と栄光を物語として紡ぎ、中立の高度AI『シビュラ』がその優劣を判定する。勝者の物語は正史として世界に記録され、敗者の歴史は忘却の彼方へ追いやられる。それが、「血の流れない戦争」のルールだった。

「ぼ、ぼくには、む、無理です」

やっとの思いで絞り出した声は、無様に震えていた。人前で話すことすらままならない自分が、国の命運を背負うなど。だが、男の目は笑っていなかった。

「これは命令だ。君の家族、この村の未来、すべては君のペンにかかっている」

その言葉は、静かな脅迫だった。拒否すれば、この穏やかな日常がどうなるか分からない。リオは、震える唇を固く結んだ。彼の内なる世界で渦巻いていた無数の物語が、初めて現実の重みを持って彼にのしかかってきた。こうして、吃音の羊飼いは、国の最も鋭い剣となるべく、静寂の戦場へと引きずり出されたのだった。

第二章 インクと栄光の都

首都は、色と音の洪水だった。天を突くガラスの塔、空を縦横無尽に駆ける軌道車、そして何より、絶え間なく行き交う人々の自信に満ちた声。リオはその喧騒の中で、貝のように心を閉ざした。

彼に与えられたのは、『シビュラ』を管理する中央塔の一室だった。部屋には床から天井まで届くほどの書架があり、古今東西の物語が収められている。それらは、過去の「編纂」で勝利を収めてきたアークライトの栄光の歴史そのものだった。指導教官である老練な編纂官、マスター・ゼノンは、リオにこの戦争の本質を説いた。

「物語は魂だ、リオ君。我々が紡ぐのは、単なる空想ではない。国民の誇り、国のアイデンティティそのものなのだ。我々が勝てば、アークライトの文化は永遠に輝き続ける。だが、負ければ……」

ゼノンは言葉を濁したが、その目には深い憂いが宿っていた。

リオの訓練は過酷を極めた。歴史、神話、修辞学、心理学。インクの匂いが染みついた指で、彼は膨大な知識を吸収していった。会話では相変わらず言葉に詰まる彼だったが、ひとたびペンを握ると、その才能は圧倒的な輝きを放った。彼の紡ぐ文章は、乾いた歴史の記述に血肉を与え、忘れられた英雄に再び魂を吹き込んだ。彼の物語を読んだ者たちは、誰もが涙し、胸を熱くした。吃音という枷が、彼の内なる言葉をより豊かに、より深く熟成させていたのかもしれない。

彼は、アークライト建国の英雄王アレクシスの物語を新たな解釈で紡ぎ出した。それは単なる武勇伝ではなく、王の孤独と葛藤、そして民への深い愛を描いた人間ドラマだった。試作として発表されたその物語は、瞬く間に国民の心を捉え、リオは「沈黙の天才」として称賛されるようになった。

だが、名声が高まるにつれて、リオの心には奇妙な違和感が募っていった。この戦争は、本当に血が流れない、クリーンなものなのだろうか。敗北した国の物語は、ただ「忘れられる」だけ? 人々の心に深く根ざした物語が、そう簡単に消え去るものだろうか。

彼は過去の編纂記録を漁った。そこには、勝利した物語だけが燦然と輝き、敗北したエルダーの物語は、まるで初めから存在しなかったかのように、完全に抹消されていた。まるで、外科手術で病巣を切り取るように、綺麗さっぱりと。その完璧すぎる忘却に、リオは言いようのない恐怖を感じていた。エルダーの編纂官は、一体どんな人物なのだろう。どんな物語を紡いでいるのだろう。その顔は、固く秘匿されていた。

第三章 鏡写しの英雄

最終編纂の日が来た。リオは、シビュラと直結された純白の部屋に一人座っていた。目の前のスクリーンには、判定の進捗を示す光の粒子が静かに揺らめいている。これから数日間、彼は国のすべての期待を背負い、エルダーの編纂官と最後の物語を紡ぎ合うのだ。

リオは、英雄王アレクシスの物語の最終章を書き始めた。それは、アレクシスがエルダーとの決戦に勝利し、アークライトに恒久の平和をもたらすという、栄光のクライマックスだった。彼の指先から生み出される言葉は、光の奔流となってシビュラへと送られていく。スクリーンに表示される判定ゲージは、アークライト優勢を示していた。誰もが勝利を確信した、その時だった。

突如、部屋の照明が明滅し、警報音が鳴り響いた。

『システム異常。相互干渉プロトコル、強制解放』

シビュラの無機質な音声と共に、目の前のスクリーンが乱れた。そして、そこに映し出されたのは、今まで固く秘匿されてきた敵国エルダーの編纂官の姿だった。

それは、自分とさほど年の変わらない、澄んだ瞳を持つ若い女性だった。彼女もまた、驚いたようにこちらを見つめている。そして、彼女が紡いでいた物語が、奔流のようにリオの意識に流れ込んできた。

その物語に、リオは息を飲んだ。

彼女の物語の舞台は、エルダーの国境沿いにある小さな街。そこで人々は平和に暮らしていた。しかし、ある日、アークライトの軍勢が街を蹂躙する。その軍を率いていたのは、冷酷で残忍な侵略者。その名は――英雄王アレクシス。

リオが描いた「民を愛する孤独な王」は、彼女の物語の中では「故郷を焼き払った破壊者」だった。リオが「解放」と書いた戦いは、彼女の物語では「虐殺」と記されていた。正義と悪、英雄と破壊者。二つの物語は、まるで鏡に映したように、全く同じ事象を正反対の視点から描いていたのだ。

その瞬間、リオは理解した。そして、この「血の流れない戦争」の、血も凍るような真実を知ってしまった。

シビュラのシステム深層から、封印されていた記録が溢れ出す。それは、敗北した物語の末路だった。

物語は、ただ忘れ去られるのではなかった。敗北を宣告された瞬間、シビュラは、その物語の源泉となった文化、歴史、記録、そして――その物語を記憶している全ての人々の存在を、この世界から概念レベルで『消去』するのだ。

だから、誰も敗戦を覚えていない。敗戦国の人間は、その歴史と共に、初めから存在しなかったことになるのだ。

これは、文化と魂のジェノサイド。

リオが紡いできた美しい言葉は、何百万人という人々をこの世から消し去るための、最も洗練された刃だったのだ。スクリーンの中で、相手の編纂官の少女が絶望に目を見開いている。彼女もまた、今、同じ真実に辿り着いたのだ。

「あ……ああ……」

リオの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。インクで汚れた自分の手が、おぞましい凶器に見えた。

第四章 二つのペンが紡ぐ声

絶望がリオの思考を凍らせる。勝利すれば、あの少女と彼女の故郷が、まるごと消滅する。敗北すれば、自分の家族と故郷が消える。どちらを選んでも、待っているのは巨大な喪失と、決して消えない罪の意識だけだ。ゼノンの言っていた「負ければ……」という言葉の、本当の意味を彼は今、骨身に沁みて理解していた。

スクリーンの中の少女と、目が合った。彼女の瞳には、リオと同じ恐怖と苦悩が浮かんでいた。だが、その奥に、諦めではない、強い意志の光が宿るのをリオは見た。彼女は、静かに頷いた。まるで、何かを託すかのように。

その瞬間、リオの中で何かが弾けた。呪いのようにまとわりついていた吃音の恐怖が、溶けていく。もっと大きな恐怖と、それを乗り越えなければならないという使命感の前では、言葉が詰まることなど些細な問題だった。

彼は、最終章の入力をやめた。そして、深く息を吸い込むと、生まれて初めて、吃音を恐れずに、自らの「声」をシビュラに直接届け始めた。

「き、聴いてくれ」

最初の言葉は、まだ少し震えていた。だが、彼は続けた。

「これは、アークライトの物語でも、エルダーの物語でもない。一人の王と、一人の少女の物語だ」

リオは語り始めた。第三の物語を。

それは、自国を英雄視するのでも、敵国を悪と断罪するのでもない、新たな物語だった。彼は、英雄王アレクシスの孤独と、侵略者として憎まれなければならなかった彼の苦悩を語った。そして、故郷を焼かれながらも、敵を許そうとしたエルダーの少女の強さと優しさを語った。鏡写しの二つの悲劇を、一つの物語として編み上げていく。それは、どちらか一方の正義を謳うのではなく、両国の痛み、悲しみ、そして愚かさの中に共通して存在する、ささやかな人間性の輝きを描き出す物語だった。

『判定……不能。論理矛盾。パラドクスを検出』

シビュラが混乱したように、無機質な声を繰り返す。

リオの語りは、やがて祈りになった。もう二度と、物語が人を消すための道具になりませんように、と。

最終編纂は、勝敗がつかないまま「中断」された。史上初の出来事だった。戦争は終わらず、しかし、止まった。

リオは国家反逆者として追われる身となった。だが、彼が最後に紡いだ「二つの声の物語」は、シビュラの記録の片隅に残り、やがて検閲の網を潜り抜け、両国の一部の若者たちの間に、手書きの写本として密かに広まり始めた。

追われる身となったリオは、もう言葉に詰まることはなかった。彼は知ったのだ。言葉は、人を消し去る刃にもなるが、分断された世界を繋ぎ、凍てついた心に火を灯す希望にもなりうるのだと。彼の本当の戦いは、本当の物語は、まだ始まったばかりだった。荒野を歩く彼の胸には、かつて羊たちに語り聞かせた、まだ誰も知らない新しい物語が静かに息づいていた。

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