第一章 反転する世界
俺、水島湊の耳は、どうやら欠陥品らしい。それも、たった一人、月島陽の声に対してのみ、その不具合は発動する。
彼が「楽しいな」と笑えば、俺の鼓膜は「退屈だ」と震える。彼が「お前のそういうところ、好きだよ」と肩を叩けば、俺の脳は「お前のそういうところ、大嫌いだ」と翻訳する。まるで、彼の言葉だけが鏡写しの世界から届くように、すべてが正反対の意味を持って俺に突き刺さるのだ。
大学の埃っぽいアトリエで、俺は卒業制作のグラフィックデザインと格闘していた。締め切りが迫り、煮詰まった頭を抱えていると、ふらりと陽が現れた。彼は俺のモニターを覗き込み、眉をひそめて言った。
「うわ、これ最低だな。時間と才能の無駄遣いだ」
俺は息を吐き、凝り固まった肩の力を抜いた。「だよな。そう言ってくれると安心する」
「本気で言ってるのかよ。こんなもの、誰の心にも響かないぜ」
「最高の褒め言葉だ。ありがとう」
陽は呆れたように首を振り、近くにあった椅子にどかっと腰を下ろした。これが、俺たちの日常。俺がこの奇妙な現象に気づいたのは、彼と出会って間もない頃だった。最初は自分の心が捻くれているせいだと思った。天真爛漫で、誰からも愛される陽に対する、無意識の嫉妬や劣等感が、彼の言葉を歪めて聞かせているのだと。
だから俺は、この秘密を墓場まで持っていくと決めた。彼の言葉を脳内で「再翻訳」する作業は、もはや癖のようなものだ。この反転世界のコミュニケーションにも、すっかり慣れてしまった。いや、慣れるしかなかった。なぜなら、言葉の意味がどうであれ、俺は月島陽という人間に、どうしようもなく惹かれていたからだ。彼の嘘の言葉の裏側に、本物の温かさを感じ取れると、信じていたからだ。
陽は俺の隣で、自分のスマホをいじりながら、時折、俺の作業に茶々を入れる。「その配色は悪趣味だ」と言われれば、俺は自信を持ってその色を確定し、「そのフォントは凡庸すぎる」と指摘されれば、迷わずそれを採用した。彼は、俺にとって世界で最も信頼できない、最高の批評家だった。
夕暮れの光がアトリエに斜めに差し込み、無数の塵を金色にきらめかせる。モニターの光だけが煌々と灯る薄闇の中で、俺たちは二人きりだった。静寂を破ったのは、陽の独り言のような呟きだった。
「……お前といると、本当に息が詰まるよ」
俺は作業する手を止め、彼の横顔を見つめた。逆光で表情はよく見えない。けれど、その声の響きは、いつもの軽口とは少し違って聞こえた。俺は慎重に、その言葉を脳内で反転させる。
――お前といると、本当に心が安らぐよ。
胸の奥が、じわりと熱くなった。俺は照れ隠しに、ぶっきらぼうに答える。
「そりゃどうも。俺も、お前の顔なんて二度と見たくないね」
俺の言葉は、彼にどう聞こえているのだろうか。きっと、そのままの意味で届いているはずだ。それでいい。この歪な均衡が、俺たちの友情の形なのだから。
第二章 亀裂の予兆
俺の卒業制作は、思いがけず学内のコンペティションで金賞を受賞した。テーマは『共鳴』。光と影、静寂と喧騒、肯定と否定といった、相反する要素が互いに影響し合い、一つの調和を生み出す様を表現した作品だった。審査員からは「二項対立の先にある、新しい関係性を描き出した野心作」と、身に余る評価を受けた。
授賞式の後、祝賀パーティーの喧騒の中で、俺は陽の姿を探していた。人混みの中から彼を見つけ出すと、彼は友人たちに囲まれ、楽しそうに笑っていた。その輪の中では、彼の言葉は反転していない。誰もが彼のジョークに声を上げて笑い、彼の話に真剣に耳を傾けている。普通の、当たり前のコミュニケーションがそこにはあった。その光景が、なぜか俺の胸を鋭く抉った。
俺に気づいた陽が、輪から抜けてこちらへ歩いてくる。その顔には、いつもの人を食ったような笑みが浮かんでいた。
「おい、水島。まさかお前なんかが賞を獲るなんてな。世も末だ」
「おかげさまで。お前の的確なダメ出しがなければ、完成すらしなかったよ」
俺はシャンパングラスを軽く掲げてみせる。陽は俺のグラスを自分のグラスにこつんと当てて、言った。
「まあ、どうでもいいけどな。俺には全く関係ない話だ」
――本当は、自分のことのように嬉しいよ。
分かっている。分かっているはずなのに、彼の「嘘」が、今夜はひどく冷たく響いた。周りの誰もが「おめでとう!」とストレートな祝福をくれる中で、陽の捻くれた言葉だけが、俺の心に小さな棘を刺す。なぜ、彼だけが。なぜ、俺にだけ。心の奥底で、黒い感情が渦を巻き始める。
「なあ、陽」俺は思わず口にしていた。「もし、俺の耳が普通だったら、お前はなんて言ってくれるんだ?」
陽は一瞬、虚を突かれたように目を見開いた。そして、すぐにいつもの皮肉な表情に戻る。
「は?何言ってんだよ。お前の耳がどうだろうと、俺の評価は変わらないね。お前の作品は、退屈で、陳腐で、見る価値もない」
その言葉は、あまりにも流暢で、淀みがなかった。俺は、いつものようにそれを反転させることができなかった。肯定と否定の境界線が曖昧になり、目の前の親友が、得体の知れない何かに見えてくる。グラスを持つ指先が、微かに震えていた。
その日から、俺たちの間に見えない壁ができたような気がした。陽の言葉を再翻訳するたびに、「本当にそうだろうか?」という疑念が頭をもたげる。彼が「会いたくない」と言えば、以前なら「会いたい」のだと確信できたのに、今は「本当に会いたくないのかもしれない」という可能性に苛まれる。俺が作り上げた反転世界に、少しずつ亀裂が入り始めていた。
俺は陽を避けるようになった。彼の嘘を聞くのが、そしてそれを信じきれない自分が、怖かったからだ。友情という名の綱の上を、目隠しで渡っているような感覚。一歩踏み外せば、奈落の底へ落ちていく。
第三章 真実の在り処
卒業式を数日後に控えた、ある晴れた日。俺は陽に、最後の賭けのつもりでメッセージを送った。『卒業制作の外部展示会が決まった。今日の夕方、搬入を手伝ってくれないか』。すぐに返信が来た。『行くわけないだろ。そんな面倒なこと、自分でやれ』。
――必ず行くよ。お前の頼みだからな。
俺は震える手でスマホを握りしめ、大学のアトリエで彼を待った。夕日が窓をオレンジ色に染め、床に長い影が伸びていく。時計の針が約束の時間を過ぎても、陽は現れなかった。電話をかけても、留守番電話サービスに繋がるだけ。
裏切られた、と思った。彼の言葉を、俺はもう信じることができない。俺が勝手に作り上げた虚像の友情に、一人で酔っていただけだったのかもしれない。怒りと虚しさがごちゃ混ぜになった感情に突き動かされ、俺はアトリエを飛び出し、陽のアパートへと走った。
ドアを何度も叩くが、返事はない。郵便受けには数日分の新聞が溜まっていた。まさか、と思い、陽から「絶対に使うなよ」と言われて預かっていた合鍵で、ドアを開けた。
がらん、としていた。部屋にはほとんど家具がなく、生活の気配が綺麗に消え去っていた。まるで、最初から誰も住んでいなかったかのように。
部屋の中央に置かれた小さなテーブルの上に、ぽつんと一通の封筒と、古びたボイスレコーダーが残されていた。封筒には、下手くそな字で『湊へ』と書かれている。
震える指で封を開け、便箋を広げた。そこに綴られていたのは、俺が想像もしなかった、衝撃の真実だった。
『湊、ごめん。
この手紙を読んでいるということは、俺はもうここにはいない。お前に、本当のことを話さなければならない。
お前は、俺の言葉が反対に聞こえるって、悩んでいただろ。違うんだ。お前の耳は、正常だ。おかしいのは、俺の方なんだ。
俺は、お前にだけ、本当の気持ちをストレートに言えない。大切な相手だと意識すればするほど、言葉が勝手に裏返ってしまうんだ。幼い頃のトラウマが原因らしい。医者は「反転性言語障害」なんて難しい名前をつけていたけど、要するに、俺はとんでもない臆病者なんだ。
他の奴らには、平気で上っ面だけの言葉を並べられる。でも、お前の前では駄目だった。お前といると、心が剥き出しになるみたいで、本当の言葉を口にするのが怖かった。お前を傷つけたくなくて、本当は「好きだ」って言いたいのに、口から出るのは「嫌いだ」という言葉だった。
お前の卒業制作、最高だった。嫉妬するくらい、眩しかった。でも、俺が言えたのは「最低だ」なんて言葉だけだ。授賞式の日、本当は誰よりも祝福したかった。でも、できなかった。
お前が俺の言葉を信じて、その裏側にある本当の意味を汲み取ってくれていることに、ずっと甘えていた。でも、もう限界だ。俺の嘘がお前を苦しめていることに、気づいてしまったから。だから、俺は消える。
お前は、俺なんかいない方が、もっと自由に羽ばたける』
手紙が、手の中でくしゃりと音を立てた。違う。何もかも、間違っていた。苦しんでいたのは、俺じゃない。陽の方だったんだ。俺は彼の言葉を疑い、自分の殻に閉じこもっていただけの間抜けな臆病者だ。
俺は、そばにあったボイスレコーダーの再生ボタンを押した。
『……っ、みなと、おめでと……くそ、なんで言えねえんだ……』
ザ、というノイズの混じった、陽の掠れた声。
『水島、お前のデザインは……本当に、さ、最高だ……。俺の、自慢の……親友だ……ありがとう……』
何度も、何度も、彼は本当の言葉を練習していた。その声は途切れ途切れで、息を呑む音や、微かな嗚咽が混じっていた。録音された無数の失敗の果てに、彼は手紙という手段を選んだのだ。
涙が、止まらなかった。反転していたのは世界じゃなかった。ただ、一人の不器用で、臆病で、優しい男の心が、裏返っていただけだった。
第四章 嘘つきの告白
陽の故郷が、海に近い小さな町だと、以前聞いたことがあった。俺はほとんど衝動的に新幹線に飛び乗り、手紙に書かれていた消印の地名だけを頼りに、その町へ向かった。
夕暮れの海辺を、俺は歩いていた。潮の香りが、肺を満たす。防波堤の上に、見慣れた後ろ姿を見つけた。陽だった。彼はただ、水平線に沈んでいく夕日を眺めていた。
俺が近づく足音に気づき、陽がゆっくりと振り返る。その顔には、驚きと、気まずさと、そしてほんの少しの安堵が浮かんでいた。
「……なんで来たんだよ」
絞り出すような声だった。
「お前の顔なんて、二度と見たくなかった」
俺は、立ち止まった。彼の言葉を、もう反転させない。その言葉を発した彼の瞳を、まっすぐに見つめた。そこには、俺を拒絶する色なんてどこにもなかった。後悔と、寂しさと、会えたことへの喜びが、不器用に揺らめいていた。
言葉じゃない。彼が本当に伝えたいことは、その瞳の中にある。
俺は、数歩の距離を詰めて、彼の目の前に立った。そして、精一杯の気持ちを込めて、微笑んで言った。
「俺もだよ、月島」
「お前のことなんか、心底どうでもいい。もう二度と、俺の前に現れるな。お前なんて、大嫌いだ」
俺の言葉を聞いて、陽は一瞬、息を呑んだ。そして、彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それはすぐに、堰を切ったように止めどない流れになった。彼もまた、俺の言葉の裏側にある本当の意味を、必死に受け止めようとしてくれていた。
「……ばかやろう」
陽は、泣きながら笑っていた。
「俺の方が、もっと、お前のことが……大嫌いだ」
俺たちは、世界で一番不自由な言葉で、最高の友情を確かめ合っていた。夕日が最後の光を放ち、俺たち二人の影を一つに繋いでいく。
これから先も、俺たちの会話は捻くれていて、遠回りで、もどかしいものになるだろう。ストレートな言葉を交わすことは、きっとない。でも、それでいい。言葉が嘘をつくのなら、俺たちはその嘘の奥にある真実を、何度でも探し当てればいい。この面倒で、奇妙で、どうしようもなく愛おしい関係こそが、俺たちだけの『共鳴』の形なのだから。