脆い虹彩のレゾナンス
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脆い虹彩のレゾナンス

第一章 溶ける空、こぼれる硝子

僕の世界は、いつも夕暮れ時の水彩画のようだった。境界線が滲み、色が混じり合い、確かな形を持つものが何一つない。街灯は熟した果実のように歪み、アスファルトは熱せられたゼリーのように揺らめく。人々はこの現象を『曖昧化』と呼んだ。確かな意志が薄れると、世界もまたその輪郭を失うのだという。特に、僕らのような夢と現実の狭間で揺れる世代には、顕著に現れるらしかった。

僕には、もう一つ秘密があった。強い感情が胸を揺さぶるたび、特にどうしようもない後悔に苛まれると、体から光る欠片がこぼれ落ちるのだ。それはまるで宝石のように美しく、しかし硝子細工のように脆かった。そして、欠片が一つこぼれるごとに、僕の中から一つの記憶が綺麗に消え去った。

「カイ、またぼーっとしてる」

声に振り返ると、幼馴染のアカリが眉を寄せて立っていた。彼女の輪郭だけは、この曖昧な世界にあって、不思議なほどはっきりしている。

「ごめん。少し、考え事をしてた」

嘘だ。何を考えていたのかさえ、もう思い出せない。ただ、胸の奥に空いた穴を、冷たい風が通り抜けていくだけ。ふと、自分の手のひらを見ると、涙の雫のような、淡い水色の結晶が転がっていた。それは陽光を浴びて儚くきらめき、指で触れると粉々に砕けて砂になった。また一つ、何かを失った。たぶん、アカリと見た海の記憶。でも、僕にはもう、その海の色を思い出すことができなかった。

僕は無意識にポケットに手を入れた。指先に触れる、ごつごつとした硬い感触。幼い頃から持っている、ただの石ころ。理由も覚えていないけれど、これだけは失くしてはいけない気がしていた。それを握りしめると、ほんの少しだけ、世界の揺らめきが収まるような気がした。

アカリが僕の手の中の砂を見て、悲しそうに目を伏せる。

「また……?」

「うん」

「何を、忘れたの?」

「わからない。でも、もう大したことじゃないよ」

そう言って笑う僕の顔を、彼女はじっと見つめていた。その瞳が、僕の知らない何かを憂いていることだけは、なぜかわかった。僕が記憶を失うたびに、この世界から色が一つ、また一つと失われていくことに、僕自身はまだ気づいていなかった。

第二章 石ころの追憶

世界の曖昧化は、日に日にその濃度を増していた。通い慣れた通学路の煉瓦の壁は、まるで霧に溶けるように透け始め、遠くで鳴る教会の鐘の音は、水中から聞くようにくぐもって響いた。確かなものが、急速に失われていく。それはまるで、僕の心の中をそのまま映し出した鏡のようだった。

ある日の放課後、アカリが僕の部屋へやってきた。彼女は真っ直ぐに、部屋の隅で埃をかぶっていたイーゼルへと向かう。そこには、描きかけのまま放置された大きなキャンバスが立てかけてあった。

「ねえ、カイ。これ、覚えてる?」

キャンバスには、輪郭のぼやけた少女が描かれていた。逆光の中に立つその姿は、誰なのか判然としない。僕はこの絵に、何の感情も抱かなかった。まるで他人が描いた絵を見ているようだ。

「……いや、全然」

「嘘。これは、あなたが一番描きたかったもののはずだよ」

アカリの声が、微かに震えていた。彼女は僕が失ったものを、僕以上に悼んでいる。その事実に、胸がちくりと痛んだ。後悔だろうか。そう思った瞬間、また胸の奥から冷たい何かがせり上がってくる感覚に襲われ、僕は慌ててポケットの石ころを強く握りしめた。

その時だった。

石ころの表面に、一瞬、光が走った。目を凝らすと、そのざらついた面に、描きかけの絵の少女の顔が、陽炎のように揺らめいて映っている。それは、紛れもなくアカリの笑顔だった。そして、石に触れる指先から、微かな潮の香りと、遠い波の音、そして彼女の笑い声が流れ込んでくるような錯覚に陥った。

「これは……」

僕が息を呑むと、幻は蜃気楼のように消えた。しかし、確かな感覚が残っていた。失ったはずの記憶の断片が、この石に反射している。アカリは、僕と石ころを交互に見て、何かを確信したように頷いた。

「思い出すの、カイ。世界が完全に溶けてしまう前に。あなたが、その絵を完成させられなかった、あの日のことを」

彼女の真剣な眼差しに、僕は抗えなかった。忘れてしまった過去に、僕と、そしてこの世界を繋ぎとめる鍵がある。そんな予感が、濃霧のような心の中で、小さな灯台の光のように明滅していた。

第三章 万華鏡の破局

アカリの言葉に導かれるように、僕は失われた記憶の深淵を覗き込む決意をした。世界の曖昧化は、もう限界に達していた。教室の窓から見える空は灰色と橙色が無秩序に混じり合った抽象画のようで、友人たちの顔さえも、のっぺりとした仮面のようにしか見えなくなっていた。このままでは、アカリさえも消えてしまう。その恐怖が、僕を突き動かした。

目を閉じ、意識を集中させる。僕が忘れてしまった、最も大きな後悔。それは、僕の未来を決めるはずだった美術コンクールでの、たった一度の挫折。

そうだ。僕は描いていた。アカリをモデルに、光の中に立つ彼女を。僕の全てを懸けた一枚だった。しかし、審査員たちの冷たい視線と、「君には才能がない」という無慈悲な言葉が、僕の脆い自尊心を粉々に砕いたのだ。

その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

忘れていた絶望が、鮮烈な痛みとなって蘇る。同時に、僕の胸の中心から、ひときわ大きく、しかし深い亀裂の入った漆黒の宝石が姿を現した。あれが、僕の挫折と後悔の結晶。僕の世界の根源を形作った、『最初の意志』を封じ込めた記憶の欠片。

世界を救うために。アカリを守るために。僕は震える手で、その冷たい宝石を掴んだ。

次の瞬間、世界は安定するどころか、甲高い音を立てて砕け散った。

目の前の光景が、まるで万華鏡のように無数の破片へと分裂し、それぞれが異なる世界を映し出し始める。コンクールで大賞を取り、喝采を浴びる僕。絵を諦めず、アカリと一緒にアトリエを構えている僕。挫折に打ちひしがれ、彼女に想いを伝えられないまま離れ離れになった僕。画家になった僕、ならなかった僕、笑っている僕、泣いている僕――。

過去の選択肢が無限に分岐した、『多重世界』。

無数の僕が無数のアカリと語り合い、すれ違い、愛し合っていた。世界は混沌の渦に飲み込まれ、確かな現実はどこにもなくなった。これが、僕が最も辛い記憶を取り戻した結果だというのか。絶望が、再び僕の心を黒く塗りつぶそうとしていた。

第四章 君と描く、まだ見ぬ地平線

無限に分岐した過去の光景に、僕は眩暈を覚えた。どの世界も、ほんの少しだけ違っていて、そしてどれもが僕自身の人生だった。成功した世界の甘美な光と、失敗した世界の後悔の影。僕は無意識に、「正解」の過去を探していた。あの時、ああしていれば。あの言葉を、言えていれば。

しかし、どの選択肢を選んでも、他の全ての可能性を切り捨てることになる。その痛みが、僕の心を縛り付けた。一つの過去に囚われれば、僕は永遠にこの多重世界の迷子になるだろう。

「カイ!」

いくつもの世界から、同時にアカリの声が響いた。どの世界のアカリも、僕を心配そうに見つめている。その時、僕はポケットの中で温もりを増した石ころを、強く握りしめていたことに気づいた。

手のひらを広げると、ただの石ころは、砕け散った全ての多重世界からの光をその内に反射させ、眩い虹色の輝きを放っていた。それはまるで、無数の可能性そのものが凝縮された宇宙のようだった。

その虹彩を見つめているうちに、僕は悟った。

青春とは、後悔とは、たった一つの選択を悔やむことじゃない。選ばなかった道、叶えられなかった夢、その無数の可能性のきらめきそのものが、僕という人間の本質だったのだ。成功も失敗も、喜びも悲しみも、全てが僕を形作る、かけがえのない光の破片だった。

「僕は、どの過去も選ばない」

僕は、全ての僕に向かって、そして全てのアカリに向かって宣言した。

「コンクールに勝った僕も、負けた僕も。笑っている僕も、泣いている僕も。全部、僕だ。僕は、全ての後悔も、全ての夢も、抱きしめて進む」

その決断が、新しい『意志』となった瞬間。

万華鏡のように乱反射していた世界が、凄まじい勢いで僕の中へと収束を始めた。虹色に輝く石ころが、その中心で確かな座標を示す。光の奔流が過ぎ去り、僕が再び目を開けた時、世界は一つに戻っていた。

曖昧さは消え、街の風景はどこまでも鮮やかで力強い。しかし、それは僕が知っているどの過去とも違う、全く新しい『現在』だった。

隣には、アカリが微笑んで立っていた。彼女の表情も、以前とは違う、確かな意志に満ちている。

僕の手の中では、石ころが静かに、しかし内側から溢れるような虹色の輝きを放っていた。それはもう、ただの石ころではない。全ての可能性を内包し、未来への道を照らす『意志の要石(カナメ)』となっていた。

僕は、まだ何も描かれていない、目の前に広がる未来という名の真っ白なキャンバスを見つめた。失った記憶が戻ることはないだろう。けれど、それでよかった。僕の手には、無限の可能性から紡がれた、新しい絵の具があるのだから。

「さあ、行こうか」

僕が言うと、アカリはこくんと頷き、僕の手にそっと自分の手を重ねた。その温かさだけが、この新しい世界で唯一、僕が知っている確かなものだった。

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