鎮魂のヘリックス

鎮魂のヘリックス

7 3659 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:

第一章 静寂の戦場

風が、崩れ落ちた建物の鉄骨を震わせ、甲高い悲鳴のような音を立てる。リョウは特殊なイヤーモニターを深く耳に押し込み、外界の音を遮断した。錆と硝煙の匂いが混じった空気が、彼の肺を満たす。ここは三ヶ月前に陥落した「鷲ノ巣高地」。かつて無数の命が散ったこの場所は今、死者たちの「音」で満ちていた。

リョウの職業は「聴兵士」。大戦が生んだ、奇妙で、そして悲しい仕事だ。この戦争では、戦場で命を落とした兵士の魂が、最後の瞬間の「音」としてその場に留まり続けるという現象が確認されていた。それは断末魔の叫びであったり、仲間を呼ぶ声であったり、あるいは不発弾の信管が立てる微かな振動音であったりする。我々聴兵士は、それらの音を専用の集音機で採取し、個人の声紋データと照合して、戦死者の確認を行うのだ。

「ステラ、ポイント・ブラボー7の音響スペクトルを表示」

リョウが呟くと、腕に装着した端末のスクリーンに、色とりどりの波形が踊った。無数の声、爆発音、金属音がカオスとなって重なり合っている。彼は指先で慎重に波形をスワイプし、ノイズの中から意味のある音を分離していく。兄さん、どこにいるんだ。彼の脳裏に、五年前にこの高地で消息を絶った兄の姿が浮かぶ。兄の「音」を見つけ出すこと。それが、リョウが聴兵士になった唯一の理由だった。

「これは……なんだ?」

ふと、彼の指が止まった。スペクトルの一角に、奇妙な領域があった。そこだけ、全ての周波数がゼロを示している。完全な無音。まるで、音のブラックホールだ。周囲の喧騒が、その一点に吸い込まれていくかのように、境界線が歪んでいる。データ上は「音響欠落領域」と表示されるが、リョウは直感した。これはただのデータ欠損ではない。これは「音」だ。全ての音を飲み込む、沈黙という名の音。

彼は集音機の指向性をそのポイントに合わせ、ゲインを最大まで引き上げた。イヤーモニターから聞こえてくるのは、サーというホワイトノイズだけ。しかし、そのノイズの奥に、何か巨大な存在が息を潜めているような、圧倒的な気配を感じた。背筋を冷たい汗が伝う。この戦場で、数え切れないほどの死者の声を聞いてきた。だが、これほどまでに底知れない恐怖と、同時に神聖さすら感じさせる「音」に出会ったのは初めてだった。彼は震える指で、その「沈黙」を記録した。ファイル名をつける手が、一瞬ためらう。そして、彼はただ一言、『クワイエット』とだけ打ち込んだ。

第二章 残響の追跡

「記録不能な音だと?馬鹿を言え。それはただの機材の不調だ」

帰還後、リョウが提出した『クワイエット』のデータは、上官にあっさりと棄却された。記録は抹消され、報告書は彼の思い過ごしとして処理された。しかし、リョウの耳には、あの圧倒的な沈黙の残響がこびりついて離れなかった。

「深入りするな、小僧」

休憩室で煙草を燻らせていた古参の聴兵士、サカキが言った。「音は死者の最後の執着だ。興味本位で近づけば、お前の魂ごと持っていかれるぞ。俺たちはただの記録係だ。死者の声に意味なんざ求めるな」

サカキの目には、リョウと同じように何かを追い求め、そして何かを失った者の深い翳りがあった。

だが、リョウは止まれなかった。彼は密かに『クワイエット』のデータを自身の個人端末にコピーし、夜ごと分析に没頭した。兄を探すという当初の目的は、いつしかこの謎の音への執着心に塗り替えられていた。

分析を進めるうち、彼は驚くべき事実に気づく。この「沈黙」は、僅かだが移動しているのだ。一日に数メートルという、カタツムリのような速度で。その軌跡は、まるで何かを探して高地を彷徨っているかのようだった。

リョウは衝動に駆られ、再び単独で鷲ノ巣高地へと向かった。許可のない行動だ。見つかれば軍法会議は免れない。だが、彼には確かめなければならないことがあった。あの沈黙の正体を。そして、なぜこれほどまでに心が惹きつけられるのかを。

高地の冷たい風が、彼の頬を打つ。端末に表示された予測地点を目指し、瓦礫の山を乗り越えていく。兄さん、ごめん。今は、あなたの声より、あの沈黙を追わせてほしい。心の中で呟きながら、彼は歩みを進めた。やがて、彼の目の前に、月光に照らされた古い教会の廃墟が現れた。端末が示す予測地点は、その教会の、崩れ落ちた祭壇のすぐ側だった。

第三章 調律された魂

教会の内部は、静寂に満ちていた。いや、リョウが追い求めてきた、あの「沈黙」そのものに包まれていた。一歩足を踏み入れると、全身の皮膚が粟立つような濃密な気配が彼を圧迫する。彼はゆっくりと祭壇に近づき、集音機を構えた。

「ステラ、最大感度。全周波数帯域、強制リフトアップ」

リョウの命令に、機械的な警告音が鳴る。過負荷で回路が焼き切れる可能性があった。だが彼は構わず、ゲイン調整のダイヤルを限界まで回した。

イヤーモニターの中で、凄まじいノイズの嵐が吹き荒れる。耳が張り裂けそうだ。リョウは歯を食いしばり、その音の壁の向こう側へと意識を集中させた。

そして、聞こえた。

それは、沈黙ではなかった。

それは、無数の声が織りなす、完璧なハーモニーだった。

苦しみも、憎しみも、恐怖も、そこにはなかった。ただ、深く、静かで、どこまでも優しい鎮魂の歌。それは敵国兵士たちの声だった。彼らが母国で口ずさんでいたであろう古い民謡の旋律が、幾重にも重なり合い、壮大な合唱となって教会を満たしていたのだ。リョウは呆然と立ち尽くした。なぜ、敵兵の魂が、これほど安らかな歌を奏でている?

そして彼は、そのハーモニーの中心に、一本の、凛とした音の芯が通っていることに気づいた。それはまるで、オーケストラを率いる指揮者のように、全ての音を束ね、調律し、一つの美しい音楽へと昇華させていた。

震える手で、その中心音のスペクトルを解析する。画面に表示された声紋データを見て、リョウは息を呑んだ。

網膜に焼き付いて離れない、見慣れた波形。五年間、来る日も来る日も探し続けてきた、兄の声紋そのものだった。

兄は、ここにいた。

だが、彼は自らの苦しみを叫んでいるのではなかった。彼は、この地で命を落とした敵兵たちの、彷徨える魂の音を一つ一つ拾い上げ、その声で、その存在の全てで、彼らを安らかなハーモニーへと導いていたのだ。

リョウの耳に、兄の最後の「音」が、そのハーモニーの基音となって静かに響いているのが聞こえた。

『…大丈夫だ。もう、苦しくない…』

それは、死にゆく敵兵にかけられた、慈愛に満ちた言葉だった。兄は敵を殺すのではなく、死してなお、敵味方の区別なく、その魂を救済していたのだ。

第四章 耳を澄ます者

リョウは、その場に膝から崩れ落ちた。涙が後から後から溢れて、止まらなかった。兄さん。あなたは、こんなにも壮絶で、こんなにも美しい戦いを、たった一人で続けていたのか。敵とは何だ。味方とは何だ。僕たちが銃を向け合い、命を奪い合ってきたことの意味は、一体何だったのだ。彼の価値観が、音を立てて崩れ去っていく。

彼は、ふと我に返り、集音機の記録ボタンに伸びていた指を、ゆっくりと下ろした。これを記録してはならない。この神聖なハーモニーを、データという無機質なものに分解し、分析の対象にすることなど、兄の行いに対する冒涜だ。

リョウは静かにイヤーモニターを外し、集音機の電源を切った。そして、生まれて初めて、何の機材も介さず、ただ自分の耳で、戦場の「音」を聴いた。

風の音。瓦礫が軋む音。遠くで響く金属音。

その合間に、確かに聞こえる。教会の廃墟から流れ出す、鎮魂の歌が。それは悲しく、しかしどこまでも温かい、兄が奏でる究極の音楽だった。

彼は悟った。自分のすべきことは、兄の「音」を記録し、遺族の元へ届けることではない。兄の遺志を継ぐことだ。

数日後、リョウは聴兵士の職を辞した。上官は何も言わず、ただ彼の肩を一度だけ叩いた。

彼は戦場に残った。しかし、もう集音機を手にすることはなかった。彼は名もなき「調律師」となったのだ。

新たな激戦の跡地で、彼は瓦礫の上に静かに座り、目を閉じる。そして、ただ耳を澄ませる。憎しみと苦痛に満ちた不協和音の中から、調和を求める微かな旋律を探し出す。そして、心の中で、兄が教えてくれた鎮魂歌を口ずさむのだ。

彼の歌声が、一つの魂に届く。その魂が、隣の魂に共鳴する。やがて、小さなハーモニーが生まれ、戦場に満ちる絶望のノイズを、少しずつ、少しずつ、安らかな静寂へと変えていく。

それは誰に知られることもない、あまりにもささやかな行い。だがリョウの表情には、深い悲しみの奥に、確かな使命感と、静かな希望の光が宿っていた。彼の耳は、銃声や爆音ではなく、世界に満ちる声なき声が奏でる、未来のハーモニーを聴いていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る