色のない鎮魂歌
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色のない鎮魂歌

第一章 無色の谷

カイが故郷、アルカディアの谷に足を踏み入れたとき、世界は音を失ったかのような静寂に包まれた。風は木の葉を揺らす音を忘れ、鳥は歌うべき空を見失っていた。ここはかつて、大陸全土を巻き込んだ大戦の最も血塗られた場所。しかし今、彼の目に映るものは何もない。あるべきはずの、夥しい数の「時間の色」が、ここには一片たりとも存在しないのだ。

世界各地では、新たな厄災が人々を脅かしていた。「時間断層」――戦争の記憶が時間の流れに刻んだ傷跡。それは空間の裂け目として現れ、内側では砲弾が飛び交い、兵士たちの断末魔が永遠に繰り返される。触れた者は記憶の渦に取り込まれ、二度と戻らないという。

なのに、このアルカディアの谷だけが、異様なのだった。最も深い傷を負ったはずのこの土地には、時間断層はおろか、死者たちの感情が放つはずの光の粒子――深い悲しみの青も、燃えるような怒りの赤も、無念に染まる黄も、何一つ見えない。ただ、透明な空気が重く淀んでいるだけ。

「おかえり、カイ」

背後からの声に、カイは振り返った。幼馴染のリラが、心配そうな瞳で彼を見つめている。彼女は歴史学者として、この谷の謎を追い続けていた。

「何も、見えないのか?」

「ああ。何も」

カイの短い返答に、リラは唇を噛んだ。彼の持つ特異な視覚は、死者の魂の残響を色として捉える。その彼が「何もない」と言うことの異常性を、彼女は誰よりも理解していた。世界が過去の悲鳴に満ちる中、この谷だけが、全ての記憶を忘却したかのように、ただ白く、空白に存在していた。

第二章 砕かれた砂時計

谷の調査は困難を極めた。手掛かりは皆無。カイはただ、心の奥底で微かに響く、糸を引くような感覚だけを頼りに、谷の深部へと歩を進めていた。それは音でも光でもなく、彼の能力の根幹を揺さぶるような、静かな呼び声だった。

一方、リラは村の古文書館に籠もり、埃を被った羊皮紙の束と格闘していた。彼女が発見したのは、忘れ去られた神話の一節だった。

「『双つの刻が交わる時、天と地は記憶を語る。始まりを告げる透明な器と、終焉を刻む彩りの砂。片方が封じ、片方が解き放つ』……」

リラは呟く。それは明らかに砂時計を示唆していた。一つは、始まりの刻を司る、何も入っていない透明な砂時計。もう一つは、失われた命の「時間の色」を砂として封じ込めた、終焉の砂時計。

その頃、カイは呼び声に導かれ、谷の外れにある苔むした石碑にたどり着いていた。その根元に、何かが鈍く光っている。土を払うと、それは精巧な彫刻が施された黒曜石の枠だった。砕かれた砂時計の上半分。掌に乗せると、ひんやりとした虚無感が肌を刺した。これが、神話の片割れだろうか。カイはそれを懐にしまい、呼び声がさらに強くなる谷の中心部を見据えた。

第三章 断層の残響

「これ以上は危険だ」

リラがカイの腕を掴んだ。彼らの目の前には、空間が陽炎のように歪み、巨大な口を開けた「時間断層」が広がっていた。谷の境界から最も近い場所にある断層だ。裂け目の向こう側では、土埃にまみれた兵士たちが、声なき声で何かを叫び、倒れていく光景が何度も繰り返されている。爆発の衝撃波が、音もなく空気を震わせ、焦げ付いた鉄の匂いが風に乗って鼻を掠めた。

カイは、その光景から目を逸らさなかった。そして、見た。断層の縁から、ほんの僅かに、涙のように零れ落ちる青い光の粒子を。それは、故郷を想う兵士の悲しみの色だった。

粒子はふわりと宙を舞い、カイの懐で微かに熱を帯びた砂時計の破片へと、吸い寄せられるように消えていく。

「やはり……」

カイは確信した。この破片は、失われた「時間の色」を集める器なのだ。これが『終焉の砂時計』。ならば、対となる『始まりの砂時計』は、あの呼び声の先に。彼は決意を固め、リラの制止を振り切り、谷の中心へと向かう。この無色の謎を解き明かすために。

第四章 始まりの祭壇

谷の中心には、蔦に覆われた古の神殿が、忘れられた巨人のように佇んでいた。カイが神殿の奥へ進むと、呼び声は心臓の鼓動と重なるほどに強くなる。そして、最も開けた広間の中心、月光が差し込む祭壇の上に、それは静かに置かれていた。

一切の曇りも傷もない水晶で作られた、空っぽの砂時計。

『始まりの砂時計』。

カイはそれに引き寄せられるように手を伸ばし、冷たいガラスに指先が触れた。

その瞬間だった。

ゴゴゴゴ……という地響きと共に、神殿全体が震え、祭壇の床がゆっくりと沈み込んでいく。地下へと続く、暗い螺旋階段が現れた。それと同時に、カイは息を呑んだ。階段の底から、今までこの谷で決して見ることのなかった奔流が、渦を巻いて噴き出してきたのだ。

青、赤、黄、緑、紫――無数の、数えきれないほどの「時間の色」が、凝縮された悲鳴のように、カイの視界を埋め尽くした。この谷は空白ではなかった。世界のどこよりも濃密な感情の色が、この地下深くに「封印」されていたのだ。

第五章 クロノスの揺り籠

地下に広がっていたのは、星空を閉じ込めたかのような巨大な空洞だった。その中心で、巨大な水晶の結晶体が、ゆっくりと脈動しながら浮遊している。全ての「時間の色」は、この結晶体に吸い込まれ、そして内部で静かに揺蕩っていた。

《よくぞ、たどり着いた》

声が、直接カイの精神に響いた。それは一人の声ではなく、幾重にも重なった賢者たちの思念の残響だった。

《我らは時の賢者。繰り返される戦争の悲しみに心を痛め、その記憶の連鎖を断ち切るために、この『クロノスの揺り籠』を創った》

賢者たちは語る。彼らは大戦後、世界中に散らばる全ての「時間の色」――すなわち戦争の記憶と感情――をこのアルカディアの谷に集め、封印したのだ。人々を過去の痛みから解放するために。しかし、その善意の行為が、時間の流れに巨大な負荷をかけ、世界各地に「時間断層」という歪みを生み出す原因となっていた。

《始まりの砂時計は揺り籠の封印を解く鍵。そして、お主が持つ終焉の砂時計は……この揺り籠の力を制御するか、あるいは破壊するためのもの》

カイは懐の破片と、祭壇にあった砂時計を合わせた。二つは寸分の狂いもなく一つとなり、完全な『終焉の砂時計』が彼の手に収まった。それは、これから為されるべき選択の重さを、冷たく伝えていた。

第六章 決別の色

選択肢は二つ。

一つは、『クロノスの揺り籠』を破壊し、封じられた全ての「時間の色」を世界に解き放つこと。そうすれば時間の歪みは正され、時間断層は消滅するだろう。しかし、世界は再び、戦争の生々しい悲しみと憎しみの記憶で満たされることになる。

もう一つは、『揺り籠』の力を制御し、「時間の色」を別の形に変えること。賢者たちの思念は、それを空に描く壁画にすることを提案した。悲劇を美しい、しかし手の届かない芸術として空に固定し、未来永劫、人々への戒めとするのだ。ただし、時間の歪みが完全に正される保証はない。

カイは目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、時間断層で見た兵士の顔。リラの心配そうな瞳。そして、何も感じることのできなかった故郷の、あの虚しい静寂。

過去から目を背けて、真の未来は訪れるのだろうか。だが、凄惨な記憶を再び世界に撒き散らすことが、本当に正しいことなのか。

カイは、ゆっくりと目を開いた。彼の瞳には、迷いの色はなかった。彼は『終焉の砂時計』を掲げ、『始まりの砂時計』を揺り籠の制御装置にそっと差し込む。

「悲劇は、繰り返すためにあるんじゃない。乗り越え、未来へ繋ぐためにあるんだ」

彼の決意に応えるように、『終焉の砂時計』の中で、集められた粒子が混ざり合い、夜明けの空のような、淡く優しい光を放ち始めた。

第七章 空に捧ぐレクイエム

カイが装置を起動させると、アルカディアの谷から、巨大な光の柱が天を突いた。光は空高く昇りつめ、世界中の空へと広がっていく。

それは、オーロラのように荘厳で、しかしどこまでも悲しい光の壁画だった。燃えるような赤は、命を賭して守ろうとした者たちの怒りと勇気を描き出し、深い青は、故郷に残した家族を想う果てない悲しみの河となった。無念の黄色は星のように瞬き、希望の緑がそれらを優しく包み込んでいた。

世界中の人々が、空を見上げていた。時間断層の近くで恐怖に怯えていた者も、平和な街で暮らす者も、誰もが空に描かれた壮大な悲劇の物語に言葉を失い、その意味を心に問いかけていた。それはもはや、ただの過去の記録ではない。未来を生きる全ての者への、静かなる誓いだった。

やがて光が収まった時、カイの目の前で『クロノスの揺り籠』は輝きを失い、ただの巨大な水晶に戻っていた。アルカディアの谷は、再び静寂を取り戻す。

カイはゆっくりと空を見上げた。しかし、彼の目にはもう、何も映らなかった。空に描かれた壮大な壁画も、人々の心に残る感情の色も、彼の目には見えない。彼は、全ての「時間の色」を世界に捧げ、その能力を失ったのだ。

それで良かった。

彼はただの青年として、無色になった故郷の谷に立ち、遠い空を見つめていた。悲劇は空に刻まれた。あとは、この世界に生きる人々が、その意味をどう紡いでいくかだ。風が彼の頬を撫で、そこには確かに、新しい時代の匂いがしていた。

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