完璧な世界のノイズ

完璧な世界のノイズ

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第一章 満点の絶望

「エラー。残高不足ではありません。あなたの『信用スコア』が規定値に達していません」

無機質な音声とともに、コンビニエンスストアの自動ドアが目の前で閉ざされた。

ガラスの向こう、店員が侮蔑の混じった視線を投げてくる。手でしっし、と野良犬を追い払うような仕草をした。

「……水一本も売ってくれないのかよ」

俺は舌打ちをして、軒先から這い出る。

冷たい雨が容赦なく降り注いでいた。

酸性雨を中和するドーム内でも、Eランク市民の居住区には浄化装置が行き届いていない。肌に触れるとピリピリと痛む雨だ。

俺はフードを深くかぶり、ショーウィンドウの前を通り過ぎる。

ガラスに映る自分の姿。その横には、AR(拡張現実)によって赤い数値が浮かんでいる。

『スコア:13.5』

社会のゴミ。生きているだけで酸素の無駄。

すれ違う人々は皆、青白く輝く80点台や90点台の数値を誇示するように胸を張って歩いている。

「ねえ、見てあの人。数値、低っ」

「近寄るなよ。運気が下がる」

カップルの嘲笑が聞こえる。

男の瞳には最新型のARコンタクト。女の腰には高価なブランドバッグ。

幸せそうな風景だ。

俺は鼻にかかった黒縁の眼鏡――自作の『ノイズ・アイグラス』の位置を直した。

視界が歪む。

男の爽やかな笑顔の上に、ヘドロのような黒いノイズが重なった。

『この女、金遣い荒いな』

『あー、昨日の風俗嬢の方が良かった』

『早くホテル行きてえ』

あふれ出す欲望のデータストリーム。

心拍数の上昇、瞳孔の動き、微細な発汗。数値化された本音が、彼らの完璧なスコアを黒く塗り潰していく。

吐き気がする。

どいつもこいつも、綺麗な数字で着飾っただけの化け物だ。

俺は路地裏の湿ったコンクリートに座り込んだ。

雨音が鼓膜を叩く。

ふと、泥のにおいが鼻をついた瞬間、古い記憶がフラッシュバックした。

『お兄ちゃん、見て! お団子作ったよ!』

妹のハルカだ。

まだスコア制度が導入される前。

近所の公園で、二人して泥だらけになって遊んだ日。

俺が転んで膝を擦りむくと、彼女は自分のハンカチを泥水で濡らし、懸命に拭いてくれた。

あの時の、小さくて温かい手の感触。

絆創膏を貼る時の、真剣すぎて寄り目になった表情。

下手くそな鼻歌。

「……会いたいな」

俺の眼鏡を通しても、ハルカだけはノイズが見えなかった。

彼女の笑顔の裏には、いつだって純粋な愛情しかなかった。

だが、彼女は消えた。

「適性検査」という名目で連れ去られ、それっきりだ。

震える指で、手首の旧式端末を操作する。

毎日の日課。

死んだように眠っているハルカのID検索。

どうせ今日も『該当なし』だ。

諦めと惰性だけで指を動かす。

『検索完了』

『対象:ハルカ(ID: 998-XX)』

心臓が跳ねた。

息が詰まる。

端末の画面に表示されたのは、この世に存在するはずのない数値だった。

『現在価値スコア:100.00』

「……は?」

100点?

ありえない。建国の父であるAIですら99点で止まっていたはずだ。

完璧な人間など存在しない。

だが、眼鏡が捉えたものは、その数値よりもさらに異様だった。

地図上に示された座標。都市の中枢『センター・コア』。

そこから、黒いノイズではない、鮮血のような赤い『亀裂』が空に向かって伸びていた。

まるで世界そのものが悲鳴を上げているような、痛々しい裂け目。

ズキリ、とこめかみが痛む。

眼鏡の処理が追いつかないほどの高密度な情動データ。

それはハルカのものだ。

「そこにいるのか」

俺は立ち上がった。

膝の震えは、雨の寒さのせいじゃない。

第二章 聖域の深淵

「警告。不正侵入を検知。直ちに退去せよ」

都市の中枢タワー、その搬入用ゲート前。

警備ドローンの赤いレーザーサイトが、俺の眉間を捉えていた。

「どけよ、ポンコツ」

俺は眼鏡のテンプルを指で叩き、ハッキングモードを起動する。

視界が赤く染まり、ドローンの制御コードが空間に浮かび上がる。

セキュリティの壁は分厚い。だが、完璧なものには必ず綻びがある。

俺はコードの奔流に意識をダイブさせた。

バチッ!

「ぐっ……!」

脳髄を直接ライターで焼かれたような激痛が走る。

最新の防壁(ファイアウォール)だ。

神経接続したインターフェースを通じて、俺の脳に高電圧のノイズを逆流させてきやがった。

鼻から温かいものが垂れる。鼻血だ。

視界が明滅する。

「痛い……くそ、痛いな……!」

指先が痺れて動かない。

それでも、俺は思考を止めるわけにはいかなかった。

あの赤い亀裂の向こうで、ハルカが待っている。

俺は歯を食いしばり、自分の神経を回路の一部として焼き切る覚悟で、ドローンの脆弱性をこじ開けた。

『システム・ダウン』

ドローンが火花を散らし、地面に落下する。

俺はその場に膝をついた。

激しい嘔吐感。

手の甲には、逆流した電流で火傷のような痣ができていた。

「……ザル警備って言えるほど、余裕じゃねえな」

血の味がする唾を吐き捨て、俺はタワーの内部へ足を引きずった。

最上階、『演算の間』。

分厚い扉のロックを解除すると、肌を刺すような冷気が吹き出してきた。

消毒液とオゾンの臭い。

部屋の中央、青白い光の中に、それはあった。

巨大なガラスの円筒。

満たされた培養液の中で、痩せ細った少女が浮いている。

「ハルカ……!」

駆け寄ろうとして、足が止まった。

彼女の姿があまりにも異質だったからだ。

無数の極太ケーブルが、彼女の脊髄、そして後頭部に直接突き刺さっている。

白い肌は陶器のように生気がなく、手足は幽霊のように力なく垂れ下がっていた。

頭上のモニターには、残酷なほど美しい数字。

『CORE PROCESSOR: HARUKA』

『OPTIMIZATION: 100.00』

彼女は人間ではなかった。

この都市のスコアシステムを維持し、最適解を弾き出すための『生体部品(バイオ・コンポーネント)』にされていたのだ。

感情も、記憶も、痛みさえも削ぎ落とされ、ただの演算装置として。

「ふざけるな……ふざけるなよ!」

俺はガラスの壁を拳で殴りつけた。

硬い。びくともしない。

拳の皮が剥け、血がガラスに滲む。

その時、脳内に声が響いた。

『……こないで』

スピーカーからではない。

俺の眼鏡が拾った、脳波の残留思念だ。

『アキラ……こないで……汚れる……』

『ここには……悲しみがないの……苦しみもない……』

ハルカの声だ。

だが、ひどく平坦で、機械的だった。

『私と一つになれば……アキラのスコアも上がるよ……』

『もう、お腹も空かない……雨も冷たくない……』

完璧な世界の誘惑。

苦痛のない永遠の安らぎ。

俺の心が、一瞬揺らぐ。

このまま彼女と溶け合えば、あの惨めな生活に戻らなくて済むのか?

だが、次の瞬間、眼鏡の奥で赤いノイズが爆発した。

『イヤ……! タスケテ……! お兄ちゃん、イタイ、イタイよぉ……!』

「ハルカッ!」

システムの表層意識の下で、幼い彼女が泣き叫んでいる。

100点のスコアの下に埋もれた、生々しい痛みの記憶。

俺はポケットからハッキングデバイスを取り出し、コンソールに突き刺した。

「今ここから出してやる! 痛くても、寒くても、俺たちの場所に帰るんだ!」

第三章 崩壊の夜明け

「システムへの不正干渉を確認。排除行動を開始します」

部屋の四隅から、警備ボットが一斉に起動する。

銃口が俺を狙う。

「知るかよ!」

俺はキーボードを叩き壊す勢いでコマンドを打ち込む。

狙うのはシステムの停止ではない。

ハルカという『異物』を、この完璧な数式から引き剥がすことだ。

『警告。中核プロセッサとの同期率が低下。エラー発生』

「ハルカ! 思い出せ! あの泥の冷たさを!」

俺は叫ぶ。

警備ボットの発砲音が轟く。

左肩に熱い衝撃。撃たれた。

床に血が飛び散る。

激痛で意識が飛びそうになるが、俺は笑った。

「痛いだろう? これが現実だ! 俺たちの体だ!」

『……痛い……熱い……』

『お兄、ちゃん……』

モニターの数値が乱れ始める。

100.00が、99、85、60と、凄まじい勢いで崩落していく。

完璧な演算の中に、兄妹の情という『計算不可能なノイズ』が混入したのだ。

『CRITICAL ERROR』

サイレンが鳴り響く中、俺は培養槽の緊急排出レバーを両手で掴んだ。

錆びついたように重い。

「うおおおおおおっ!」

肩の傷口から血が噴き出す。

全身の筋肉が悲鳴を上げる。

ガコンッ!

重い金属音と共に、ガラスの円筒に亀裂が入った。

培養液が鉄砲水のように溢れ出し、俺を飲み込む。

床に投げ出されたハルカの身体を、俺はずぶ濡れになりながら抱き止めた。

彼女の背中に突き刺さっていたケーブルが、ブチブチと音を立てて千切れる。

「あ……が……」

ハルカが小さく痙攣し、薄く目を開けた。

その瞳から、光が消えている。ARの光ではない。生命の光が戻ろうとしているのだ。

ドームの外で雷鳴が轟いた。

それと同時に、窓の外に見える都市の夜景が、ブロックごとにブラックアウトしていく。

Aランク区画のタワーマンションも、繁華街のネオンも。

スコアを表示していた全てのサーバーがダウンし、闇に沈んでいく。

『システム停止。全機能、停止』

静寂が訪れた。

ただ、雨音だけが響いている。

俺の腕の中で、ハルカが震えながら俺の服を掴んだ。

「お兄ちゃん……寒い……」

「ああ、寒いな」

俺は彼女を強く抱きしめた。

体温が伝わる。

ただの数値データではない、生身の人間の熱。

血と泥と培養液の混じった、ひどい臭いがする。

「でも、生きてる」

闇に包まれた都市の底から、人々の悲鳴と、そして歓喜の叫びが混ざり合って聞こえ始めていた。

最終章 ゼロからの旅路

廃ビルの壁には、殴り書きされたスプレーの文字が残っていた。

『スコアなんて嘘っぱちだ』

その足元には、かつて数百万の価値があったブランドバッグが転がり、泥にまみれている。

代わりに、誰かが隠していたツナ缶の空き容器が、まるで聖杯のように積み上げられていた。

あれから一週間。

世界は一変した。

絶対的な指標だったスコアが消滅し、人々は何が価値あるものなのか、自分たちの頭で考えなければならなくなった。

混乱は続いている。暴動も、略奪もある。

だが、以前のような、笑顔の下で呪詛を吐くような静かな狂気は消えていた。

「お兄ちゃん、これ」

焚き火の前で、ハルカが俺に缶詰を差し出す。

桃の缶詰だ。

彼女の指先には、泥と煤がついている。

「どこで見つけた?」

「あっちの瓦礫の下。……半分こ、しよう」

ハルカの顔色はまだ悪い。

時折、システムの一部だった時の幻覚を見て、虚空に怯えることもある。

リハビリには長い時間がかかるだろう。

俺たちは錆びたスプーンで、交互に桃を口に運んだ。

甘ったるいシロップの味が、舌の上で広がる。

「……甘いね」

「ああ。すごい糖分だ」

スコアが高ければ高級フレンチが食えたかもしれない。

でも、こんなに鮮烈な「甘さ」を感じたことはなかった。

俺はポケットから、壊れた『ノイズ・アイグラス』を取り出した。

レンズは割れ、フレームは歪んでいる。

もう、他人の心の中を覗く必要はない。

目の前にいる妹の表情を見れば、言葉よりも確かなことがわかるからだ。

俺は眼鏡を、焚き火の中に放り投げた。

プラスチックが溶ける臭いが立ち昇る。

「これから、どこへ行くの?」

ハルカが俺の肩に頭を預けてくる。

「ドームの外へ出てみようと思う」

「酸性雨が降ってるよ?」

「噂じゃ、東の空の向こうには、雨の降らない場所があるらしい」

確証はない。

スコアのない世界には、保証された未来なんてどこにもない。

飢えるかもしれない。野垂れ死ぬかもしれない。

けれど。

「行こう、ハルカ」

俺は立ち上がり、彼女の手を握った。

彼女が強く握り返してくる。

その痛みと温もりが、今の俺たちの全てだ。

ビルの隙間から、朝日が差し込んでくる。

瓦礫の山を照らすその光は、どんなARエフェクトよりも眩しく、そして残酷なほどに美しかった。

AIによる物語の考察

「完璧な世界のノイズ」は、信用スコアが支配するディストピアで、兄妹の絆が世界を変革する物語です。

登場人物の心理:主人公アキラの行動原理は、低スコア市民としての絶望と、自作『ノイズ・アイグラス』で見る人々の偽りの本音への嫌悪、そして何よりも妹ハルカへの揺るぎない愛情です。システムに囚われたハルカは、表層では「完璧な安寧」に浸るも、深層では兄を求める純粋な感情と痛みを抱え、それが世界の変革の鍵となります。

伏線の解説:アキラの『ノイズ・アイグラス』は、システムの偽りを見抜き、ハルカの心の叫びを捉える重要なツールです。ハルカの「100.00」という完璧なスコアと「赤い亀裂」は、その完璧さの裏にある異常性と、彼女の苦痛のメタファー。泥だらけの「お団子」の記憶は、スコアなき時代の純粋な人間関係と不完全さの美しさを象徴し、システム崩壊のトリガーとなります。

テーマ:本作は「不完全性の肯定」と「人間の尊厳」を深く問いかけます。数値化された「完璧」な世界がもたらす虚無と、痛み、感情、絆といった人間本来の「ノイズ」こそが真の価値と豊かさであるという、示唆に富んだ哲学的なテーマを描いています。
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