第1章: 鉄の悲鳴、血の焼き入れ
備前の山奥。朽ちた鍛冶場に澱むは、夜の帳(とばり)より濃き闇。
色彩などない。あるのは炉の中で爆ぜる炭の赤だけ。
源三(げんぞう)は、赤熱する鉄塊を金床へ。煤と火傷の地図が広がる屈強な右腕、その指先が痙攣している。
ボサボサの白髪頭を振る。錆びついた鉄屑のような瞳で、灼熱の塊を睨みつけた。
(鉄が、泣いてやがる)
握力はとうに失せている。鉄の声を聞く耳が拾うのは「死ね、死ね」という幻聴ばかり。
ふらり。千度の熱を帯びた鉄へ、顔を近づける。
このまま額を押し当てれば、記憶ごと焼き尽くせるか。
「おい、爺さん。そこは地獄の入口かい」
不意の湿った風。男の声。
振り返れば、戸板にもたれかかる影ひとつ。
伊佐美(いさみ)という若者だった。
病的な白磁の肌は、闇の中で発光するかのよう。腰まで届く黒髪、擦り切れの絹。
女と見紛う美貌だが、唇だけが毒々しいほどに赤い。
「……何処のどいつだ。野良犬なら他を当たれ」
「手厳しいねぇ。死に場所を探してたら、美味そうな鉄の匂いがしたんでな」
伊佐美はふらつく足取りで炉へ。突然、激しい咳込み。
ゴボッ、という嫌な音。
口元を押さえもせず、真っ赤に焼けた金床の上へ、肺の中身をぶちまけた。
ジュウッ!!
鉄の悲鳴。生臭い蒸気。
鮮血は瞬く間に黒い染みとなり、鉄の表面に焼き付く。
「てめぇ……!」
怒号を上げようとした瞬間、伊佐美は口元の血を手の甲で拭い、ニヤリ。
割れたガラス細工のように危うく、美しい笑み。
「あぁ、生きてるってのは痛いねぇ」
ひび割れた銭袋を、灰まみれの床へ放る。
「俺がくたばる前に、その血濡れの鉄で打ってくれよ。『人を活かす剣』ってやつをさ」
金床の上、どす黒く変色した血痕。
狂っている。
死に急ぐ侍と、生きる屍の鍛冶屋。
炉の炎が、ふたりの影を長く、歪に引き伸ばした。
「断る。俺はもう、鍬(くわ)しか作らねぇ」
「そうかい。じゃあ、ここで俺が野垂れ死ぬのを特等席で見物しな」
崩れ落ちるように座り込む伊佐美。血の泡を吹きながら、昏い瞳で源三を射抜いた。
「あんたの目は、まだ死んでねぇよ。……人殺しの目だ」
第2章: 残り火の温度
追い出すことなど不可能だった。
体力の問題ではない。この若者が、源三の過去という鎖を握っていたからだ。
「備前の源三。十五年前、あんたが打った太刀……『不知火(しらぬい)』は見事だったねぇ」
薬草の苦い匂いが充満する土間。伊佐美は横になったまま呟く。
源三の手が止まった。冷めた茶の湯呑みに走る微かな波紋。
「……なぜ、その名を知っている」
「知らなきゃここには来ないさ。ある盗賊がその刀で、あんたの家族を細切れにしたこともな」
浅くなる呼吸。早鐘を打つ心臓。疼く古傷。
あの日。燃え盛る家。妻の絶叫。そして、行方知れずになった息子、久蔵。
自らが鍛えた最高傑作が、最愛の者たちを屠る凶器へと変わった瞬間。
「俺はね、その盗賊を斬らなきゃならねぇんだ」
天井の梁を見つめ、独り言のように。
「だが、普通のなまくらじゃ折れちまう。『不知火』と斬り結べるのは、あんたが打つ刀だけだ」
それからの日々、奇妙な共同生活。
源三は炉に火を入れ、伊佐美はその横で三味線を爪弾く。
カン、カン、という鎚(つち)の音。ベン、ベン、という乾いた弦の音。
時折、吐かれる血が土間を汚し、源三が黙ってそれを灰で覆う。
「爺さん、鉄はなんて言ってる?」
「……『熱い』と喚いてやがる」
「へっ、人間と一緒だな」
伊佐美の純粋な狂気が、源三の心の澱(おり)を溶かしていく。
命を薪(たきぎ)にして燃やすような生き様。それはかつて、源三が刀作りに没頭していた頃の情熱と酷似していた。
息子が生きていれば、これくらいの歳だったろうか。
熱せられた鉄を見つめ、ふと妄想に取り憑かれる己を嗤う。
ある嵐の夜。
激しい発作。一晩中さすり続けた背中は骨と皮ばかり。
触れれば壊れそうな硝子の体。
「……死ぬな、小僧」
漏れた言葉に、源三自身が驚く。
伊佐美は荒い息の下から、掠れた声で笑った。
「なんだ、情が移ったかい。……刀匠・源三も、焼きが回ったねぇ」
握り返してくる掌の熱さ。
それが、源三に忘れかけていた「誰かを守りたい」という欲求を呼び覚ます。
だが、その温もりこそが、残酷な真実への導火線。
伊佐美の懐には一枚の手配書。
描かれた男の顔には、大きな火傷の跡。
「教えてやるよ、爺さん。俺が斬ろうとしてる盗賊の頭(かしら)の正体をな……」
第3章: 慟哭の鉄
雷光が鍛冶場を白く染め上げた。
伊佐美の口から紡がれた名は、雷鳴よりも激しく源三の鼓膜を引き裂く。
「……久蔵(きゅうぞう)。山賊団『虎牙』の頭領。あんたの息子だ」
鉄箸が滑り落ちる。
重い金属音が静寂を破るが、源三には何も聞こえない。
明滅する視界。胃の腑からせり上がる酸味。
久蔵。生きていたのか。
いや、生き延びて、あろうことか『不知火』を振るい、人々を殺めているというのか。
父が作った刀で。父への憎悪を燃料にして。
「嘘だ……! 久蔵は、あの火事で……!」
「生きてるさ。顔の半分を焼かれて、虎の皮を被って、親父に見つけてもらうために派手に人殺しをしてる」
身を起こし、真っ直ぐに見据える伊佐美。
慈悲の色はない。あるのは冷徹な、目的のためなら己の命さえ踏み台にする覚悟だけ。
「あんたの刀は、人を不幸にする。息子を鬼に変えた。……だから、終わらせなきゃならねぇ」
後ずさり、背後の壁に激突。
呼吸ができない。喉がヒューヒューと鳴る。
知っていたのだ。最初から。
この老人に近づき、情を抱かせ、信頼させた上で、実の息子を殺すための武器を作らせようと。
「俺に……息子を殺せと言うのか」
「そうだ。あんたの業(ごう)は、あんたの鉄でしか断てない」
言葉は鋭利な刃物。
息子を救いたいという親心。止めねばならないという責務。利用されていた絶望。
それらが濁流となって渦巻き、精神を粉砕する。
「ふざけるなッ!!」
手近な金槌を掴み、振り上げた。
だが、振り下ろす先がない。
伊佐美を殴ればいいのか? 己の運命を呪えばいいのか?
腕が空中で止まり、小刻みに震える。
「俺は……俺はただ、あの子に生きていてほしかっただけだ……」
金槌が落ちる音。
崩れ落ち、泥のような涙を流して慟哭。
喉が張り裂けんばかりの絶叫も、雨音にかき消されていく。
伊佐美は表情を変えず、懐から血に濡れた手ぬぐいを取り出した。
その裏で、彼の手もまた、白くなるほど強く膝を握りしめている。
「泣いてる暇はないぜ、源三」
低い声。
「久蔵が来る。……今夜、この村を焼きにな」
第4章: 鈍色(にびいろ)の祈り
遠くで上がる火の手。
乱打される半鐘。風に乗って運ばれる悲鳴。
源三は動けない。
炉の火は消えかけ、鍛冶場は冷え切っている。
息子が来る。かつて愛した、あの子が。鬼となって。
殺さねばならないのか。それとも、殺されるべきなのか。
「……くそっ、間に合わねぇか」
立ち上がろうとした伊佐美が、激しく床に倒れ込んだ。
喀血。今までで一番酷い量だ。
土間に広がる鮮血。伊佐美の白い顔が土気色に変わっていく。
もう、立つことさえままならない。尽きかけた寿命。
「行くな……」
掠れた声。
「行けば死ぬぞ。お前も、久蔵も……」
「死ぬのが怖くて、侍がやってられるかよ」
地面を這いずり、金床に縋り付いて体を起こす。
噴き出す冷や汗。浅く速い呼吸。
それでも、瞳だけは異様な輝きを放っている。
「俺は約束したんだ。……昔、あんたの息子とな」
顔を上げる源三。
「久蔵と……?」
「『親父は俺を捨てたんじゃない。いつか必ず迎えに来る』……あいつはそう信じてた。だが、待つことに疲れちまったんだ」
懐から取り出したのは、古い折り鶴。煤けて黒ずんだ、子供の拙い折り紙。
「俺はあいつを斬るためにここへ来た。だが……気が変わった」
源三の方を向き、血に濡れた唇でニカっと笑う。
「あんたの刀で、俺は誰も殺させない。久蔵も、村の連中も、あんたの心もだ」
その言葉が、凍り付いた魂に火を点けた。
殺すための剣ではない。
活かす剣。
冒頭、伊佐美が言った言葉が蘇る。
(鉄は嘘をつかねぇ。嘘をつくのは人間だ)
そうだ。俺はずっと嘘をついていた。
刀を打つのが怖いのではない。罪と向き合うのが怖かっただけだ。
立ち上がる。
足元のふらつきはない。
炉の前に立ち、残った炭をかき集め、ふいごを力一杯踏み込んだ。
ボォッ!!
爆ぜる炎。鍛冶場が一気に熱気に包まれる。
「……伊佐美。そこをどけ」
声に戻った覇気。かつて「神の腕」と呼ばれた頃のそれ。
真っ赤に焼けた鉄を掴み出す。
今、打つべきは鋭利な刃ではない。
息子の憎悪を受け止め、伊佐美の命を繋ぎ、全ての業を断ち切るための、鈍色(にびいろ)の塊。
カンッ! カンッ!!
振り下ろされるハンマー。
一打ごとに飛び散る涙が、熱い鉄の上で蒸発する。
(すまない、久蔵。ありがとう、伊佐美)
祈り込められた鉄の音色が、夜空に響き渡る。
「急げよ、爺さん……!」
刀の茎(なかご)を握るための布を裂く伊佐美。
村の方角から近づく、獣のような咆哮。
「親父ィィィィィッ!! 出てこいッ!!」
久蔵だ。
時間はもう、残されていない。
第5章: 斬れぬ刃、解ける呪い
豪雨の中、対峙する二つの影。
一人は、虎の毛皮を羽織った巨漢、久蔵。
雨に濡れて光る左顔面のケロイド。手には抜き身の妖刀『不知火』。
もう一人は、病躯を引きずりながらも、揺らぐことのない構えを見せる伊佐美。
その手にあるのは、たった今打ち上がったばかりの、飾り気のない一振り。
「邪魔だ、伊佐美ィ! その老いぼれは俺の獲物だ!」
久蔵が吼える。怒りよりも、泣き叫ぶ子供のそれに近い。
「駄目だねぇ。この爺さんの茶は、俺が予約済みなんだよ」
飄々と答えるが、足元は泥濘(ぬかるみ)に沈みかけている。
霞む視界。焼け付く内臓。
これが、最後の一合。
「死ねェッ!!」
地面を蹴る久蔵。
泥を跳ね上げ、上段から振り下ろされる『不知火』。
父が作った最高傑作。その切れ味は、鎧兜さえ容易く両断する。
伊佐美は動かない。
刃が鼻先数寸に迫った刹那、踏み込んだ。
死にゆく者の、命を削った神速。
源三は、小屋の陰でその瞬間を見た。
伊佐美の刀が、久蔵の刃を迎え撃つのではない。
軌道が違う。
ガギィィィィンッ!!
鼓膜を破る金属音。
伊佐美の刀は、『不知火』の刃ではなく、その側面――峰を強打していた。
「なにッ!?」
悲鳴を上げる手首。衝撃で弾き飛ばされる『不知火』。
名刀は宙を舞い、泥の中に突き刺さった。
そのままの勢いで久蔵の懐に飛び込み、刀の柄(つか)で鳩尾(みぞおち)を突く。
沈む巨体。
勝負あり。
だが、斬っていない。
伊佐美が手にしていた刀。
それは、刃がついていなかった。
源三が打ったのは、叩き折るための頑強な鉄の棒――いや、「誰も傷つけない刀」だったのだ。
「かはっ……!」
大量の血を吐き、膝をつく伊佐美。
手から滑り落ちる刀。
「な、なんで……斬らねぇ……」
泥まみれの久蔵が、震える声で問う。
雨に打たれる源三の刀を見つめ、満足げに目を細める伊佐美。
「……よく切れるが、誰も殺さなかったな」
ゆっくりと横たわる体。
「伊佐美!!」
駆け寄り、痩せ細った体を抱き起こす源三。
体温は、雨よりも冷たい。
「……爺さん。約束……守ったぜ……」
「ああ、ああ! 見ていたぞ、お前は日本一の侍だ!」
視線が、呆然とする久蔵へ、そして源三へと移る。
「親子喧嘩は……ほどほどに、な……」
ふっと、赤い唇が描く弧。
硝子が砕けるような、儚い最期。
這うようにして近づく久蔵。
「親父……俺は……」
源三は何も言わず、ただ泣き崩れる息子を、伊佐美の亡骸ごと強く抱きしめた。
泥と血と雨が混ざり合い、三人を一つにする。
そこにはもう、殺意も怨嗟もなかった。
エピローグ
春の日差しが、小さな墓石を照らしている。
野良猫が数匹、のんびりと寝そべる昼下がり。
その横で、源三は鉄を打っている。
カン、カン。穏やかな音は、まるで歌っているようだ。
炉の横では、顔に大きな火傷跡のある男が、不器用な手つきでふいごを吹いている。
「親父、湯が沸いたぞ」
「ああ。伊佐美にも淹れてやれ」
仕上げたのは、刀ではない。
無骨だが、どこか温かみのある鉄瓶。
その表面は鈍色(にびいろ)に輝き、陽光を優しく受け止めている。
かつて人を殺めた鉄は今、人々の喉を潤すためにある。
源三は空を見上げた。
青く澄み渡る空のどこかで、あのふざけた若者が「しけた茶だねぇ」と笑っている気がした。