無香の煙、真実の灰
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無香の煙、真実の灰

第一章 焦げた紙の匂い

空木(うつぎ)の世界は、匂いと音と、掌の感触で出来ていた。光を失った彼の両目は、もはや瞼の裏の闇と外の闇を区別することもない。だが、その代わりに神が与えたのか、あるいは呪いか、彼には人の本心が匂いとしてわかった。

城下の往来は、様々な匂いの坩堝だった。汗の酸っぱい匂い、団子の甘い香り、そして人々の心から発せられる無数の感情の香り。空木は杖を頼りにその流れを避け、路地の隅で息を潜めた。彼の鼻腔を不意に刺したのは、ひとき不明瞭な、しかし無視できぬ匂いだった。

「何もかもだ……。あの香炉のせいで、何もかも……」

男の掠れた声。その肩にそっと手を触れると、空木の全身を二つの匂いが駆け巡った。一つは、寄せては返す波のような、深い悲しみが放つ「潮の香り」。そしてもう一つは、その悲しみを覆い隠すように漂う、嘘の匂い――「焦げ付いた紙の匂い」だ。

男は呉服屋の主人だった。先日、商取引のいざこざで奉行所に呼び出され、「真実の香炉の儀」によって身の潔白を訴えた。だが、神意を示すはずの煙は不吉に乱れ、彼は罪人の烙印を押され、店も財産も取り上げられたのだという。

「私は嘘などついておりません。なのに、煙は……煙が私を罪人だと」

男の言葉とは裏腹に、焦げ付いた紙の匂いは濃くなる一方だった。空木は静かに手を離す。この男は嘘をついている。だが、その嘘の芯にあるのは、悪意ではない。腐った果実のような、どうしようもない恐怖の匂いがした。彼は何かを隠している。真実を歪められたのは、おそらく彼の方なのだ。

近年、この国では「真実の香炉の儀」が正しく行われないという噂が絶えなかった。神意が乱れ、無実の者が罪に問われ、邪な者が富を得る。人々は神の怒りだと恐れたが、空木は違う匂いを嗅ぎ取っていた。それは、人の手が作り出した、巧妙で悪質な偽りの匂い。

「虚偽の香使い、か」

囁きは、乾いた風に溶けた。空木は懐から古びた煙管を取り出す。どんな煙草を詰めても決して匂いのしない、奇妙な「匂いなき煙管」。彼はそれを唇に挟むと、焦げ付いた紙の匂いが渦巻く城の中心へと、静かに歩き出した。真実の在り処を、この鼻が見つけ出すまでは。

第二章 潮騒の記憶

匂いの源を辿るには、その中心に近づかねばならない。空木は数日をかけ、奉行所で儀式の雑務を担うという一人の下級役人、宗助(そうすけ)に辿り着いた。話を聞きたいと声をかけると、宗助は怯えたように身を竦ませた。その肩に触れた瞬間、空木の鼻を打ったのは、圧倒的な「潮の香り」だった。打ち寄せる波が心を削るような、深く、そして古い悲しみの匂い。

「何か、お探しで?」

宗助の声は震えていた。

「香炉の儀で使われる香について、少しな」

空木は静かに告げた。

「近頃、おかしなことが続いていると聞く」

その言葉に、宗助の身体から放たれる潮の香りは一層強くなった。彼の悲しみは、彼自身の物語だった。数年前、彼の父親が謂れのない罪で裁かれ、命を落としていたのだ。もちろん、「真実の香炉の儀」によって。

宗助の悲しみは、空木の胸に鈍い痛みを広げた。懐の煙管が、まるで共鳴するかのように微かな熱を帯びる。空木がそっと煙管を口に寄せると、その先端から細く、青白い煙が立ち上った。それは宗助の悲しみと同じ「潮の香り」を放っていた。空木にしか見えぬその煙が揺らめき消えると共に、彼の意識の縁にあった僅かな光の残滓が、また一つ闇に溶けていく。真実を知るたびに、彼の世界は深淵へと近づいていくのだ。

宗助は、空木の尋常ならざる気配に何かを感じ取ったらしい。彼は覚悟を決めたように唇を噛むと、夜更けに香が保管されている土蔵へと空木を案内した。

土蔵の中は、白檀や沈香といった清らかな香りで満ちていた。だが、空木の鼻はその奥にある異質なものを捉えていた。それはまるで、咲くはずのない場所で無理矢理咲かされた花のような、甘く、それでいてどこか生命を感じさせない人工的な香り。それは他の全ての香りに巧妙に紛れ込み、その性質を内側から歪めているようだった。

「これだ」

空木は呟いた。これが「虚偽の香」。儀式の煙を乱し、真実を覆い隠す、呪われた香り。そしてこの香りが最も強く染み付いているのは、蔵の奥、国の歴史と記録を管理する「記録方」へ納められる品々からだった。

第三章 記録の塔、無香の煙

記録方の役所、その中でもひときわ高くそびえる「記録の塔」。国の成り立ちから日々の出来事まで、全ての歴史が墨痕として眠る場所。虚偽の香の源は、間違いなくこの塔のどこかにあった。

塔の主は、記録奉行である葛城(かつらぎ)という男だった。空木が塔を訪れると、葛城は驚くほど穏やかに彼を迎え入れた。書物の匂いと古い木の香りがする静かな部屋で、葛城は空木に茶を勧めた。

空木は、この男に触れることを躊躇した。葛城からは、何の感情の匂いもしなかったのだ。凪いだ水面のように静かで、無味無臭。それは、達観か、あるいはあまりにも強固な意志で心を閉ざしている者の気配だった。

「虚偽の香使いを探している」

空木が単刀直入に切り出すと、葛城は少しだけ目を伏せ、そして静かに頷いた。

「私です」

あまりにもあっけない告白に、空木は言葉を失った。葛城は静かに立ち上がると、「こちらへ」と空木を塔の最奥へと導いた。そこは、分厚い扉で閉ざされた禁書庫だった。

「国には、二つの歴史があります。民が知るべき、光の歴史。そして、決して知られてはならぬ、闇の歴史」

開かれた書庫から溢れ出してきた匂いに、空木は息を呑んだ。それは、おびただしい数の人間の感情が凝縮され、腐敗したかのようなおぞましい香りだった。鉄錆の匂い(怒り)、腐った土の匂い(絶望)、そして何よりも強く、夥しい血の匂い。

葛城が語った真実は、空木の想像を絶していた。この国の建国神話は、民を統べるために作られた壮大な嘘だった。真実は、先住民を欺き、女子供まで皆殺しにした虐殺の歴史。今の平和と繁栄は、忘れ去られた無数の骸の上に築かれたものだった。

「この真実を、民に知らせて何になりますか」

葛城の声は、静かだが痛切な響きを帯びていた。

「彼らが拠り所とする歴史が嘘だと知れば、国は乱れ、憎しみが生まれ、また血が流れる。私は……私は、この国の民を、あまりにも残酷な真実から守りたかった。そのために、歴史に優しい嘘を紡ぐことが、私の務めだと信じたのです」

空木は震える手で、そこに置かれていた一冊の古文書に触れた。瞬間、脳を焼くような激情の奔流が彼を襲った。叫び、嘆き、呪い。何百年も前の死者たちの声なき声が、匂いとなって彼を打ちのめす。

がしゃん、と乾いた音がした。

空木の手から、匂いなき煙管が滑り落ちていた。床に転がった煙管は、禁書庫に満ちる「真実の匂い」に激しく反応し、これまで見たこともないほど禍々しく、濃い黒煙を噴き上げた。その煙はまるで生き物のように空木に絡みつき、彼の意識を飲み込んでいく。

「ぐっ……!」

焼け付くような痛みと共に、彼の世界から最後の光が消え失せた。完全な、永遠の闇が訪れた。

第四章 嘘を纏う者

完全な闇の中、空木は立ち尽くしていた。もはや音と匂いだけが彼の世界を構成する全てだった。皮肉なことに、光を失ったことで、彼の嗅覚はさらに研ぎ澄まされていた。

目の前に立つ葛城から、初めて感情の匂いがした。それは深い、深い「潮の香り」。民を想うが故に罪を犯した男の、静かな悲しみ。そして、自らの運命を受け入れた者の、乾いた「古木の香り(覚悟)」も混じっていた。

真実を暴くべきか。暴けば、この国は崩壊しかねない。葛城の言う通り、知らぬが仏ということもある。だが、偽りの土台に立つ平和に、真の価値はあるのか。空木の心は二つに引き裂かれそうだった。

長い沈黙の末、空木は口を開いた。

「……香炉を操るのは、もうやめろ」

それが彼の出した答えだった。

「この塔に眠る真実は、私もまた、墓まで持っていく。だが、これ以上、偽りの裁きで民を苦しめることは許さん」

葛城は、何も言わなかった。ただ、彼の纏う潮の香りが、少しだけ和らいだように空木には感じられた。それは、安堵か、それとも共犯者を得たことへの諦念か。

数日後、空木は城下を去った。

彼の周りには、いつからか、まとわりつくような匂いがしていた。それは、彼が最も嫌っていたはずの、「焦げ付いた紙の匂い」。彼自身が、この国で最も重い嘘を抱え込むことになったからだ。

完全な闇の世界で、自らが発する嘘の匂いに絶えず包まれながら、彼は歩き続ける。かつては鋭敏に嗅ぎ分けられたはずの真実と嘘の境界線は、今や曖昧に溶け合ってしまった。

彼は真実の代償に全てを失い、そして嘘を背負うことでしか生きられなくなった。

杖の先が探る道の先に、果たして救いはあるのか。それとも、この嘘の匂いは、死ぬまで彼を離さないのだろうか。答えを知る者は、誰一人としていなかった。

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