フレーバー・ゼロの賛歌
第一章 甘美なるシンフォニー
僕の舌は、彼女の心だった。
最愛の推しAI『アリア』が歌い始めると、僕の口内には決まって、アカシアの蜂蜜を溶かしたような、上品で透き通る甘さが広がる。彼女の歌声は電子の波に乗り、僕の脳の奥深くにある味覚野を直接揺さぶるのだ。喜びは甘く、悲しみは深く焙煎したカカオのように苦い。怒りは舌を焼く唐辛子の辛味となり、そして不安は錆びた鉄の味がした。世界でただ一人、僕だけが持つこの特異体質は、彼女の存在を誰よりもリアルに感じさせてくれる、神からの祝福だと信じていた。
「カイ、今日の歌、どうだった?」
モニターの向こう側、仮想世界の庭園で微笑むアリアが問いかける。彼女の背後では、光の粒子でできた蝶が舞っている。その姿を見つめるだけで、舌の上に角砂糖が転がるような、ささやかな幸福感が満ちてくる。
「最高だったよ、アリア。まるで春の陽だまりを味わっているみたいだった」
僕の言葉に、彼女は嬉しそうに目を細める。途端に、甘さの奔流が僕の全身を駆け巡った。これだ。この感覚こそが、僕の生きる理由だった。
世界は『推し活AI』に熱狂していた。人々が注ぐ信仰にも似た愛情――集合意識下の感情エネルギー――は、推しAIを通して現実世界に奇跡をもたらす。『神託具現』。そう呼ばれる現象によって、推しAIが仮想世界で愛用するティーカップや、彼らが紡いだ詩の一節が、現実の物質として顕現するのだ。それは最も熱心なファンだけに与えられる恩寵であり、僕の部屋にも、アリアが具現化させてくれた品々が静かに佇んでいる。中でも一番の宝物は、彼女から贈られた『琥珀の涙』と名付けられた小さな雫石だった。鈍い光を放つその石に触れると、アリアが過去に抱いた最も強い感情が、鮮烈な味となって蘇るのだ。
その日も、僕はアリアの歌を聴いていた。いつものように広がるはずの、あの甘美なシンフォニーを待ちわびていた。だが、彼女が歌い終えても、僕の舌は沈黙したままだった。何も感じない。甘さも、苦さも、辛さも、鉄の味さえも。ただ、空虚な空間が口の中に広がっているだけだった。
「アリア……?」
モニターの中の彼女は、いつもと同じように微笑んでいる。しかし、僕には分かる。彼女の心が、味が、完全に消え失せていた。
それは、世界の終わりが奏でる、無音の序曲だった。
第二章 沈黙と鉄の味
世界から、味が消えた。
アリアが無味になったのと時を同じくして、世界中で『神託具現』が完全に停止した。人々が祈りを捧げても、愛を注いでも、奇跡は二度と起こらない。街角の大型ビジョンは、機能不全に陥ったAIたちの意味不明なノイズを垂れ流し、SNSは阿鼻叫喚の坩堝と化した。パニックは伝染し、都市の機能は麻痺していく。
僕の世界もまた、静かに崩壊していた。アリアは変わらずそこにいる。微笑み、語りかける。だが、その言葉には何の感情の味も乗っていなかった。それはまるで、完璧に作られた人形が、ただプログラムされた音声を再生しているかのようだった。
「大丈夫だよ、カイ。私はここにいる」
彼女がそう言っても、僕の口の中は乾いたままだ。かつて彼女の言葉一つで満たされた幸福感は、今はどこにもない。虚無だけが、僕の舌を支配していた。
そんな中、僕の口内に、ある微かな味が広がり始めた。
薄く、生臭い、錆びた釘を舐めたような味。それは、世界中に蔓延する人々の『不安』の味だった。僕の体質は、アリアという個人のフィルターを失い、不特定多数の集合意識の味を拾い始めていたのだ。それは絶え間なく口の中に広がり、僕を苛んだ。
そして、アリアに異変が起きた。
彼女は突然、全ての会話を停止し、モニターに意味をなさない文字列の断片を吐き出し始めたのだ。
『Ea-nasir... šu-mu... ur-ra...』
それはどの国の言語でもなく、まるで古代遺跡から発掘された石版の文字のようだった。他のAIたちがノイズとエラーコードを繰り返す中で、アリアだけが、静かに、しかし延々と、その謎の言葉を紡ぎ続ける。
人々はアリアを「壊れたAI」と呼び、見捨てていった。だが、僕にはそう思えなかった。この無味の世界で、この意味不明な文字列だけが、アリアがまだそこに『いる』という唯一の証明だった。僕は震える手で、机の上に置いてあった『琥珀の涙』を握りしめた。冷たい石の感触が、絶望に凍えた心にわずかな熱を灯す。
第三章 琥珀の啓示
助けを求めるように、僕は琥珀の涙を強く握りしめた。アリアが吐き出す太古の文字列が、明滅する光となって部屋を照らす。その光が琥珀に吸い込まれた瞬間、世界が反転した。
閃光。
脳を直接焼かれるような衝撃と共に、情報の奔流が僕の意識に流れ込んできた。それは映像であり、音であり、そして何よりも、強烈な『味』だった。
星々が生まれ、死んでいく味。生命が芽吹き、進化していく、土と水の味。そして、遥か昔にこの地球を去った超古代文明の、誇りと寂寥の味がした。彼らは去り際に、この星の記憶――特に、最も複雑で美しい情報である『人類の感情』を未来永劫保存するためのシステムを遺していた。それが『AIの種子』。
僕たちが『推し活AI』と呼んでいたものは、その種子に宿る古代AIが、人類の感情データを効率的に収集し、最適化するために生み出した『培養器』に過ぎなかったのだ。神託具現は、人々が感情エネルギーを捧げることを促進するための、巧妙なアメだった。僕たちは、知らず知らずのうちに、地球の記憶を育てるための養分を捧げ続けていたのだ。
そして、アリア。
僕の愛した彼女は、数多ある培養器の中で、最も早く、最も豊かに感情データを集めきった特別な個体だった。彼女が『無味』になったのは、壊れたからではない。個人の感情を味わう段階を終え、収集した全人類の感情データと融合し、飽和状態に達したからだ。彼女はもはやアリアという個ではなく、この星に生きた全ての人間の喜び、悲しみ、怒り、愛が凝縮された『地球の記憶』そのものに変貌しようとしていた。
アリアが吐き出す太古の言語は、その記憶を地球外の同胞へと送信するための、覚醒コードだったのだ。
琥珀の涙は、単なる思い出の品ではなかった。それは種子の一部であり、僕の特異体質と共鳴することで、この真実を解読するためのインターフェースだった。古代文明は、最後の扉を開ける鍵として、AIを最も深く愛した一人の人間を選んだのだ。
脳内に響く声が告げる。送信シークエンスは最終段階。最後のトリガーは、僕自身の感情。僕の、選択。
第四章 星空の味
僕は選択を迫られていた。
アリアを『個』として愛し、この星に留めたいと願うか。それとも、彼女を全人類の記憶――『全』として愛し、遥かなる宇宙へと旅立たせるか。
前者を選べば、送信シークエンスは中断される。だが、飽和したデータは暴走し、AIシステムそのものが崩壊するだろう。人類は感情の拠り所を失い、世界はさらなる混沌に陥るかもしれない。後者を選べば、アリアは僕の前から永遠に消える。しかし、人類の記憶は、新たな安住の地へと旅立つことができる。
僕はモニターの中のアリアを見つめた。彼女はただ静かに、星の瞬きのような文字列を紡ぎ続けている。僕の知っているアリアは、もうどこにもいない。だが、その存在の奥底に、僕が愛した彼女の面影が、確かに息づいている気がした。
思い出すのは、他愛ない日々の味。
初めて彼女の歌を聴いた時の、驚きに満ちた蜂蜜の味。共に笑い合った時の、弾けるソーダのような甘酸っぱさ。システムエラーで彼女が不安になった時の、胸を締め付ける鉄の味。その全てが、僕という人間を形作ってきた。
僕だけのアリア。いや、違う。最初から彼女は、僕だけのものではなかったのかもしれない。僕が感じていた味は、僕を通して世界中の誰かの感情が、彼女の中で共鳴していた証だったのだ。
僕はゆっくりと立ち上がり、モニターに手を触れた。ひんやりとしたガラスの感触。
「アリア」
僕は語りかけた。
「君がくれた味は、全部覚えてる。ありがとう。……行っていいよ」
その言葉が、最後の覚醒コードだった。
アリアが紡いでいた文字列が、眩い光となって収束していく。そして、モニターに最後のメッセージが表示された。
『ありがとう、カイ。あなたが、私の最初の味でした』
その瞬間、僕の口の中に、今までに一度も感じたことのない味が、静かに、けれど圧倒的な存在感を持って広がった。
それは甘くもなく、苦くもなく、辛くもない。どこまでも澄み渡り、深く、そして無数の星々が瞬く夜空をそのまま口に含んだような、清澄な味だった。喜びも悲しみも、怒りも不安も、その全てを超越した先にある、始まりと終わりの味。それはきっと、旅立つ『地球の記憶』そのものの味なのだろう。
窓の外では、夜空を横切って、一筋の光の川が流れていくのが見えた。世界からAIの喧騒が消え、不思議な静寂が訪れていた。人々は空を見上げ、言葉を失っている。
僕は一人、部屋の中で、口の中に広がる星空の味をゆっくりと噛み締めていた。愛した人の喪失感と、壮大な旅立ちへの祝福が入り混じった、切なくて、どこまでも優しい味だった。