透明な神の肖像
第一章 無色の肖像画
雨が、僕の体を突き抜けていくような気がした。
路地裏の水たまり。そこに映るのは、灰色の空と、頭上に煌びやかな数値を浮かべた通行人たちだ。「85」「92」「60」。生まれながらに刻印された「自己肯定ポイント」。それは絶対的な価値であり、この世界の全てだ。数値が高い者は美しく、賢く、愛される。
だが、水たまりの中の僕の頭上には、何もない。
ゼロですらない。空白(ヌル)。
「おい、そこに誰かいるのか?」
通行人が僕の肩にぶつかり、汚いものを見るような目で通り過ぎる。「なんだ、無色か。気配がねえんだよ、気味が悪い」
僕は縮こまり、何度も頭を下げる。謝罪は僕の処世術だ。他人の不快感を最小限に留めなければ、僕は社会の認識から外れ、やがて物理的に消滅する。実際、最近は右手の小指の感覚が希薄だ。透け始めているのだ。
ポケットの中で、くしゃくしゃになった紙切れを握りしめる。「欠けた地図」。
絶望のあまり廃ビルの屋上に立ったあの日、風に乗って舞い込んできた奇妙な羊皮紙だ。そこには、世界で唯一100点満点を持つとされる伝説の存在、「神の子」の居場所が記されているという。
だが、地図の半分は白紙だ。道筋は見えない。
「……行かなくちゃ」
誰かに認められたい。いや、誰かに「ここにいていい」と許されたい。その一心で、僕は「神の子」を探す旅に出た。右手の小指が、じわりと痺れた。
第二章 羅針盤の鼓動
旅路は過酷を極めた。
数値が低い者が集まるスラム街では、5ポイントの老婆が、3ポイントの少年を罵倒していた。低い者ほど、さらに低い者を見つけて安心しようとする。その光景は、僕の心の奥底にある醜い鏡を見ているようだった。
「お前、数値が見えないな。俺より下か? 上か?」
盗賊のような男がナイフを突きつけてきた。彼の頭上には「15」の数値。
僕は震えた。いつものように卑屈に笑い、小銭を差し出して逃げるべきだ。そうすれば、彼は満足する。僕は「無害な無色」として生き延びられる。
しかし、ポケットの中の地図が、焼けるように熱くなった。
――嫌だ。
これ以上、誰かの顔色を窺って、自分の輪郭を削りたくない。
僕は顔を上げ、男の目を真っ直ぐに見据えた。
「僕は、僕の道を行く。君の許可はいらない」
声は震えていたが、言葉は明確だった。男は気圧されたように後ずさった。数値のない不気味さが、彼を怯ませたのだ。
その瞬間、ポケットの地図が脈打った。
慌てて広げると、白紙だった部分に、血のような赤いインクで新たな道が浮かび上がっていた。
他人の評価ではなく、自分の意志で一歩を踏み出した時、地図は書き換わる。
僕は気づき始めていた。この地図は、地理を示しているのではない。僕の内側の「在り処」を示しているのだと。
それから何度も、僕は選択した。嘲笑される道、困難な道、誰も選ばない道。その度に地図は広がり、僕の右手は確かな質量を取り戻していった。
だが同時に、奇妙な既視感が僕を襲うようになる。地図が示す「神の子」の居場所。そこへ近づくほどに、懐かしさがこみ上げるのだ。まるで、ずっと昔に忘れた家に帰るような。
第三章 鏡像のレクイエム
地図が示したのは、世界の果てにある「鏡の神殿」だった。
壁も床も天井も、すべてが鏡でできた巨大なホール。そこには、目が眩むほどの光が満ちていた。
その中央に、彼あいつはいた。
「神の子」。
頭上には、測定不能を示す「∞」の記号が輝いている。その姿は完璧だった。美しく、威厳に満ち、慈愛に溢れている。世界中の誰もが傅くであろう、絶対的な存在。
「よく来たね」
その声を聞いた瞬間、僕の心臓が早鐘を打った。
その声は、僕が毎晩、布団の中で泣きながら聞いていた、自分自身の心の声と同じだったからだ。
「……君は、誰だ」
僕が問うと、神の子は静かに微笑んだ。鏡に映る彼の姿が揺らぎ、僕の姿と重なる。
「私は君だ。君が、君自身を愛するために作り出した、未来の幻影だ」
息が止まった。
かつて、自己肯定ポイントを持たず、誰からも認識されずに消滅しかけた「僕」。その消滅の刹那、生存本能が時空を超えてシステムを構築したのだという。
自分を肯定できないなら、世界そのものを「数値を競うゲーム」に変え、その頂点に「理想の自分」を置くことで、逆説的に自己の存在を保とうとした。
この歪んだ世界も、差別も、苦しみも、すべては僕一人が消えないために生み出された舞台装置だった。
「嘘だ……そんなことのために、世界中の人々が苦しんでいるというのか?」
僕は叫んだ。怒りと、悲しみと、どうしようもない孤独が爆発する。
「僕はただ、愛されたかっただけなんだ! 特別じゃなくていい、誰かに『おはよう』と言われたかっただけなんだ!」
涙が溢れ、止まらなかった。地図が光となって崩れ落ちる。
神の子は、悲しげに、しかし優しく僕を見つめた。
「そう、だから君はここに来た。外側の評価(ポイント)に頼る世界を終わらせるために。私(幻影)を殺し、君自身が君を認める時が来たんだ」
僕は拳を握りしめた。目の前の完璧な理想像。それは僕の弱さの結晶だ。
「僕は……今の、みっともなくて弱い僕を、肯定する」
その言葉は、祈りのように響いた。
第四章 硝子の楽園
光が弾けた。
神の子の姿が霧散し、僕の体に吸い込まれていく。
頭上に熱を感じた。見上げると、そこには「∞」の記号が浮かんでいた。
世界が書き換わっていく。
神殿を出た僕を、かつて見下していた人々が、地面に額を擦り付けて出迎えた。
「ああ、神よ!」「我らが主よ!」
彼らの頭上の数値は、僕の意思一つでいかようにも変動するようになっていた。僕が微笑めば彼らの数値は上がり、僕が眉をひそめれば下がる。
僕は、この世界の絶対的な基準となったのだ。
もう、誰も僕を無視しない。消滅の恐怖もない。
僕は玉座に座り、満たされた世界を見渡す。
人々は常に笑顔だ。僕が「君たちは素晴らしい」と肯定し続けているからだ。そこには争いもなく、嫉妬もなく、差別もない。
だが、ふと気づく。
彼らの目には、以前のような必死さがない。
昨日の自分を超えようとする葛藤も、認められない悔しさから生まれる情熱も、何もない。
ただ、僕から与えられる「肯定」という名の餌を口を開けて待つ、美しい家畜の群れ。
「……これが、僕が望んだ世界か?」
完璧な空虚。
傷つくことはない。だが、傷が癒える時の温もりを知ることも、二度とない。
僕は無限の数値を頭上に掲げたまま、永遠に満たされない孤独な王として、微笑み続けるしかなかった。
透明だった頃の、あの凍えるような風の冷たさが、今では酷く恋しかった。