銀の針なき時計と、僕らの箱庭
第一章 脚本通りの完璧な午後
脳裏に、白い文字が浮かぶ。
『最高の日だね、と笑う』
その指令がニューロンを焼き尽くすような電気信号に変わると、僕は抵抗する間もなく頬の筋肉を引きつらせ、唇を開いていた。
「最高の日だね」
言葉にした瞬間、喉の奥にこびりついていた違和感が、甘ったるいカフェラテの味と共に流れ込んでくる。
目の前のテーブルには、湯気を立てるカップ。ついさっき、僕が「喉が渇いた」と強く願った直後、店員が運んでくる過程をすっ飛ばして、それは忽然とそこに現れた。カップの縁には口紅の跡ひとつなく、ラテアートは幾何学的に完璧すぎるハートを描いている。
「ああ、本当に」
向かいに座る親友のケイが、穏やかに微笑み返した。
だが、僕の視線は彼の笑顔ではなく、その手元に釘付けになっていた。彼が弄んでいる、銀色の懐中時計。文字盤には数字も針もなく、ただ磨き上げられた鏡面が、嘘のように青い空を映している。
「ねえ、ケイ。その時計、動かないのになぜ持ってるんだ?」
台本にはない台詞だった。途端に、幻肢痛のような激痛が右腕を駆け抜ける。まるで、存在しないはずの神経が引きちぎられるような感覚。
ケイは不思議そうに首をかしげた。
「動いているよ。僕たちの時間が続く限り、ずっとね」
彼の返答には一点の曇りもない。しかし、僕には聞こえていた。彼の声に重なるようにして響く、無機質なノイズ音が。
この世界は美しい。願いは叶い、争いはなく、誰もが幸福だ。けれど、僕の頭の中の「脚本」だけが、この世界が何らかの作為の上に成り立っていると叫び続けている。
第二章 欠落した配役
異変は、唐突に訪れた。
翌朝、目が覚めると、世界から「色」が一つ抜け落ちたような感覚に襲われた。
いつもの公園。ベンチに座る人影。それは間違いなくケイだった。背格好も、着ているシャツの趣味も、あの銀色の時計も。
けれど、彼が「誰」なのか、僕の中で定義できない。
名前はわかる。顔もわかる。だが、「親友」という概念を示すデータだけが、綺麗さっぱり削除されていた。彼とどんな会話をし、どんな時間を共有し、なぜ大切だったのか。その記憶の「中身」がない。ただ「大切な役割の人」という空虚なラベルだけが貼られている。
「……おはよう」
恐る恐る声をかける。彼は振り返ったが、その顔にはノイズがかかったように靄がかかり、表情が読み取れない。
世界が、修正しようとしている。僕が抱いた「不自然さ」への疑念が、矛盾の源であるケイの存在そのものをバグとして処理しようとしているのだ。
頭の中で、警告のような台詞が明滅する。
『無視して通り過ぎる』
嫌だ。
『無視して通り過ぎろ』
激痛が全身を走る。爪が食い込むほど拳を握りしめ、僕はその場に踏み止まった。足元の舗装されたアスファルトが、液状化するようにぐにゃりと歪む。
「逃げないぞ……お前を、忘れたりしない!」
僕が叫んだ瞬間、ケイの手から滑り落ちた懐中時計が、空中で静止した。
鏡面だった文字盤に、赤い亀裂が走る。いや、亀裂ではない。それは発光する文字列だった。
『ERROR: CORRUPTION DETECTED』
『SYSTEM CORE: UNSTABLE』
意味不明な記号の羅列の奥に、見覚えのある筆跡で、たった一行のメッセージが浮かび上がった。
――目を覚まして。僕の願いは、君が「現実」に帰ることだ。
第三章 崩壊する楽園
そのメッセージを見た瞬間、脳内の「脚本」が悲鳴を上げた。
頭痛が割れるように痛む。だが、その痛みこそが、麻痺していた記憶の鍵をこじ開けた。
思い出した。この世界を作ったのは、誰あろう僕自身だ。
かつての世界は終わっていた。空は灰に覆われ、呼吸することさえ苦痛な荒廃した大地。絶望の中で、僕は瀕死の重傷を負ったケイと共に、地下シェルターの旧時代の遺物――仮想現実生成装置を見つけたのだ。
「幸せな夢を見よう」。そう願って、僕たちは意識を接続した。
僕はこの世界を維持するための「コア」となり、ケイはその世界を彩るための「プログラム」の一部となることを受け入れた。僕の頭に響く台詞は、この仮想世界を崩壊させないための制御コードそのものだったのだ。
「ケイ、お前……自分がどうなるか分かっていて!」
静止した時間の中で、ノイズの晴れたケイが、寂しげに、けれど優しく微笑む。彼はもう、人間としての実体を失い、この世界のデータの一部になり果てていた。
懐中時計が激しく明滅する。それは彼が残した、唯一の外部接続インターフェース。そして、この夢を終わらせるための「終了コード」のスイッチ。
「君は優しすぎるから、自分からこの夢を終わらせられない。だから僕が、君の疑念という形になって、時計に『出口』を仕込んだ」
ケイの声が、頭の中の脚本(ノイズ)を掻き消していく。
彼を解放するには、この世界を壊すしかない。だがそれは、データとなった彼を消滅させ、僕だけが地獄のような現実へ戻ることを意味していた。
「選んでくれ。君の未来を」
僕は震える手で、空中の懐中時計を掴んだ。
温かい。データのはずなのに、確かに彼の体温を感じた。
「……ありがとう、ケイ」
指先に力を込める。銀色の筐体が砕け散り、溢れ出した光が美しい公園を、完璧な空を、呑み込んでいく。
第四章 灰色の朝
重い瞼を持ち上げると、そこには冷たい静寂があった。
鼻をつくのは、甘いラテの香りではなく、錆と埃、そして乾いた血の臭い。
視界には、剥き出しの配管と、今にも崩れそうなコンクリートの天井。薄暗い非常灯だけが、チカチカと頼りなく点滅している。
「……っ、う」
体を起こそうとして、激しい筋肉の萎縮に呻き声を上げる。長い間、眠り続けていた体は鉛のように重い。
僕は這うようにして、隣にあるカプセルへと手を伸ばした。
ガラス越しに見えるケイは、痩せ細り、管に繋がれ、ピクリとも動かない。
モニターの波形は平坦に近い緩やかな線を描いている。彼の脳は、あの仮想世界と共に焼き切れ、二度と意識を取り戻すことはないだろう。
「……戻ったよ、ケイ」
掠れた声は、誰にも届かない。
これが現実だ。願いは叶わず、過程を飛ばした奇跡など起きない、残酷で救いのない世界。
けれど、ここには僕の意思がある。脚本のない、痛みの伴う自由がある。
僕は、冷え切った彼の手を握りしめた。その手には、もうあの銀色の時計はない。
崩れかけた天井の隙間から、汚れた灰色の光が差し込んでいた。
涙が頬を伝い、乾いた唇を濡らす。そのしょっぱさだけが、僕が生きていることの、確かな証明だった。