クロマキーの自画像
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クロマキーの自画像

第一章 色褪せたクレヨン

俺は記憶の調律師だ。頭蓋の内側に広がる無限の楽譜に、新しい音符を書き加え、不協和音を消去する。今朝の俺は、三流のハッカーから、一夜にして国際的なチェスのグランドマスターになった。指先が黒と白の駒の冷たさを記憶しており、数手先の未来が幾何学模様となって脳裏に明滅する。完璧な自己演出。それが俺の日常だった。

アパートの窓から差し込む光が、ほこりを金色に染め上げている。コーヒーの苦い香りが鼻腔をくすぐり、新しく手に入れた「深煎り豆への造詣」が、その産地と焙煎時間を正確に告げた。だが、その完璧な朝は、突如として引き裂かれた。

ぐにゃり、と。

世界の輪郭が、一瞬だけ水彩画のように滲んだのだ。窓の外、向かいのビルに掲げられた巨大なデジタル時計の数字が、アラビア数字から見たこともない象形文字へと変貌し、次の瞬間には元に戻った。道行く人々は何事もなかったかのように歩き続けている。俺の肩だけが、見えない誰かに掴まれたかのように強張った。まただ。「認識のバグ」が、また世界を侵食している。

記憶を編集するたびに、この現象は起きる。俺という強烈な自我が、人々の集合的自己認識によって成り立つこの世界の現実性を、僅かに引き剥がしてしまうのだろう。書き換えられた俺の過去が、世界の過去に強引に接続される時、悲鳴のような火花が散る。誰も気づかない、俺だけの罪の証。

重い足取りで部屋の奥へ向かう。壁に飾られた一枚のスケッチ。俺が唯一編集できない、聖域にして呪われた領域――幼い頃に描いたという「自画像」。そこにいるのは、俺ではなかった。大きな瞳と、不安げに結ばれた唇。知らない子供が、色褪せたクレヨンの線の中から、じっとこちらを見つめている。その背景には、楽譜のようでありながら、どの音階にも属さない不協和音のような記号が、無数に散りばめられていた。

指でそっと、紙のざらついた感触を確かめる。この絵だけが、俺の編集能力を拒絶する。まるで、ここが物語の始まりであり、変えてはならない「設定」だとでも言うように。そして、この絵を見るたびに、俺は自分が誰なのか、本当にわからなくなるのだった。

第二章 共感覚のライブラリ

認識のバグは、日に日にその頻度と深刻さを増していた。ある雨の午後には、街灯の光が粘り気のある蜜のような匂いを放ち始め、人々は「光とは本来、甘い香りがするものだ」と平然と語り合った。数分後、世界は元に戻り、彼らの記憶からもその奇妙な共感覚は消え去る。取り残されるのは、混乱と孤独を抱えた俺だけだった。

この現象の正体を突き止めなければ、いずれ俺自身が、俺の作り出した虚構の世界に飲み込まれてしまうだろう。その焦燥感に駆られ、俺は市の中央図書館の古文書セクションに足を運んでいた。古い紙とインクの匂いが満ちる静寂の中、世界の法則が乱れた過去の記録を探す。

「あなたも、『世界の瞬き』を探しているの?」

不意に背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。振り返ると、そこにいたのは一人の女性司書だった。名札には「リナ」とある。彼女の瞳は、まるで世界の嘘を見抜いているかのように、澄み切っていた。

「瞬き……?」

「ええ。世界が一瞬だけ、違う貌を見せる現象。まるで誰かが、この世界の台本をこっそり書き換えて、すぐに元に戻しているみたいに」

彼女はそう言うと、一冊の分厚い手帳を開いて見せた。そこには、俺だけが気づいているはずの「バグ」が、日付と共に詳細に記録されていた。菫色の空、浮き上がった人々、そして光の匂い。リナは、俺と同じ孤独を共有する、この世界で唯一の観測者だったのだ。

彼女との対話は、乾いた心に染み渡る水滴のようだった。俺は自分の能力のことは伏せたまま、彼女と共にバグの法則性を探った。そして、一つの恐ろしい仮説にたどり着く。バグが発生するタイミングは、どうやら俺が新しい記憶を「インストール」した直後に集中している。

リナの純粋な探究心に満ちた横顔を見ていると、罪悪感が胸を締め付けた。この世界の歪みを生み出しているのは、他の誰でもない、俺自身なのだ。俺が「完璧な自分」であろうとすればするほど、世界の скрипт (台本) にノイズが走り、彼女のような無関係な人間をも巻き込んでいく。俺が作り上げた虚構は、もう俺一人のものではなくなっていた。

第三章 舞台裏からの喝采

もう、やめよう。これ以上、世界を傷つけるわけにはいかない。

俺は記憶の編集を断ち切る決意をした。だが、それは不可能だった。チェスのグランドマスターである俺、古典音楽を愛する俺、数カ国語を流暢に操る俺……どれが後付けされた人格で、どれが「本来の俺」だったのか、もはや判別がつかなかった。自我の輪郭が溶け出し、無数の「俺」が頭の中で騒ぎ立てる。アイデンティティの崩壊が、すぐそこまで迫っていた。

追い詰められた俺は、最後の禁忌に手を伸ばす。あの編集不可能な「空白の過去」。自画像に描かれた、あの名も知らぬ子供が生きていた時間。そこにこそ、全ての答えがあるはずだ。

図書館の静寂の中、俺は目を閉じ、意識の全てを過去へと沈降させた。精神のダイバーが、深海の底を目指すように。クレヨンの匂い、ざらついた紙の手触り、不協和音の記号群……それらを道標に、さらに深く、深く潜っていく。

その瞬間だった。

世界が、音を立てて砕け散った。

本棚が意味を失った文字の羅列へと分解され、インクの粒子となって霧散する。リナの驚愕の表情が、テレビの砂嵐のようにノイズにまみれて歪む。床も、壁も、天井も、全てが白い光の中に溶けていく。そして、脳内に直接、雷鳴のような声が響き渡った。

『――素晴らしい! 実に素晴らしい攪乱だ、我が愛しき『主人公』よ!』

その声は、歓喜に打ち震えていた。芝居のクライマックスに、万雷の拍手を送る観客のように。

『君の苦悩が、君の葛藤が、この物語にどれほどの深みを与えたことか! 君の能力も、世界のバグも、あの娘との出会いさえも! すべては、この瞬間を最も劇的にするための、私が用意した最高の『舞台装置』なのだ!』

目の前に、形のない光の集合体が現れる。それは熱くも冷たくもなく、ただ圧倒的な「存在」としてそこにあった。この世界を創造し、脚本を書き、そしてただ一人で鑑賞していた、超次元の「脚本家」。俺という存在の、本当の創造主だった。

第四章 カーテンコールなき終演

「脚本家」と名乗る存在は、静かに語り続けた。俺が追い求めていた「空白の過去」の真実を。あの自画像に描かれていたのは、脚本家がかつて「自己」と認識していた原初のイメージ。この壮大な物語を創造する前の、孤独で純粋な存在だった頃の肖像画なのだという。俺は、そのイメージからスピンオフした、物語を駆動させるための登場人物に過ぎなかった。

『さあ、選ぶがいい』

光が囁く。その声は、もはや俺自身の内なる声と区別がつかなかった。

『この世界の真実を知り、絶望し、それでもなお主人公として劇的な運命を演じ続けるか。それとも――この物語から降りるか。全てを捨て、名もなき『設定』へと還るか』

永遠に続く喝采の中を生きるか、静寂に帰るか。究極の選択。

俺の脳裏に、ざらついたスケッチブックの感触が蘇る。編集されていない、唯一の真実。俺ではない誰かの顔。作られたグランドマスターでも、博識な音楽家でもない、ただ不安げに唇を結んだ、あの子供の顔。そこにこそ、俺が心のどこかでずっと探し求めていた、作り物ではない「生」の息吹があった。

虚構の自分でいることの、どうしようもない空虚さ。リナを巻き込んでしまった罪悪感。そして、何よりも、誰かの物語の駒として踊り続けることへの、静かな反逆心。

俺は、光を見つめて、はっきりと告げた。

「俺は、降りる」

その言葉がトリガーだった。脚本家は何も言わなかった。ただ、一瞬だけ、光が悲しげに揺らいだように見えた。

世界から、色が抜けていく。音が消えていく。図書館が、リナの驚いた顔が、街並みが、空が、まるで水彩絵の具が清らかな水に溶けていくように、静かに、静かに白へと滲んで消えていく。それは破壊ではなく、むしろ解放に近かった。壮大な劇の終演。上演中止を告げる、無音のベル。

やがて、完全な白と静寂が訪れた。

無限の白紙の上に、ただ一つだけ、色褪せたクレヨンのスケッチが残されていた。そこに描かれた子供は、ほんの少しだけ、寂しそうに、けれどどこか安堵したように、微笑んでいるように見えた。

劇場に観客はもういない。ただ、物語が終わったという事実だけが、余韻として永遠に漂っていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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