第1章: 価値なき死
湿ったカビと鉄錆の臭気。鼻孔を突き刺す腐敗臭。
D級ダンジョン『腐敗水路』最深部、下水のぬかるみが靴底から冷たさを伝えてくる。
震える手。荒川カイトは、安物のパーカーのフードを深く被り直した。汗と皮脂で束になったボサボサの黒髪、その隙間から覗く死んだ魚のような瞳。痩せこけた頬に、生気のない肌。どこにでもいる、そして誰の記憶にも残らない「底辺」の顔。
スマートフォンの画面という鏡に、亡霊が映っていた。
「えー、あー……現在、地下4階層。視聴者数は……ゼロ、っすね」
乾いた唇。掠れた声。画面右上の『0』という数字、それはカイトの存在価値そのもの。
借金取りの怒号が、まだ耳の奥で反響している。命の値段? このダンジョンの入場料よりも安い。
「おい、ゴミ! 射線に立つな!」
背後からの罵声。背中に走る硬質な衝撃。
S級配信者の取り巻き、タンク役の男による盾の一撃だ。カイトの体は、枯れ木のように宙を舞う。
スローモーションになる視界。眼下に広がる、奈落へと続く漆黒の亀裂。
このパーティーの『捨て駒(ルアー)』。それが今日の役割。モンスターのヘイトを買うだけの肉の盾。
「あ」
短い呼気。重力が内臓を鷲掴みにする。
落下。
風切り音が鼓膜を破る。暗闇が口を開け、カイトの貧相な体を飲み込んでいく。
恐怖で心臓が破裂しそうになる――はずだった。
だが死の直前、カイトの眼球が捉えた奇妙な光景。
岩壁に激突し、舞う血飛沫。その赤い液体が空中で静止し、ノイズのような横線が走る。
激痛が脳髄を焼く悲鳴。その周波数が、ダンジョンの環境音と完全に同期した。
『ザザッ……致命的な……エラー……ザザ……』
視界の端、剥がれ落ちる世界のテクスチャ。
岩肌の裏側に隠されていた無機質なワイヤーフレーム。極彩色の文字列。
カイトの体は地面に叩きつけられることなく、データの海へと溶けるようにすり抜けた。
そこは、白一色の空間。
無音。無臭。痛みさえも遮断された『デバッグルーム』。
空中に浮かぶ半透明のウィンドウには、ダンジョンの収支報告書。
モンスターの配置、ドロップ率、そして配信者への投げ銭分配率。
全てが仕組まれていた。カイトたちが命を削り、血を流して得た金は、システムによって搾取されるための数字の羅列に過ぎない。
濁った瞳に、初めて灯る「生」の光。
口元の歪み。張り付く卑屈な笑み。
「……人生のバグ、見つけた」
第2章: バグ・エンターテイナー
巨大なオークロードの咆哮。振り上げられる棍棒。
筋肉の繊維一本一本までがリアルに描画された処刑の一撃だ。本来なら、カイトの貧弱な装備など紙屑のように吹き飛ぶ場面。
だが、カイトは動じない。ブツブツと呪文のように呟き、奇妙なステップを踏む。
「座標X-204修正、右に3歩、左に2回屈伸、エモート『挑発』キャンセル……」
その場で屈伸運動を繰り返した瞬間、オークロードの動きがピタリと停止。
振り上げられた棍棒は空中で固定され、オークは痙攣するように同じ咆哮をループし始める。
『グオ……グオ……グオ……』
「はい、AIスタック完了。これより解体作業に入ります」
落ちていた錆びたナイフを手に取り、無防備なボスの眉間へ。
攻撃力は皆無に近い。だが、相手は動かない。
一度、二度、三度。
地味な作業。反比例するように爆発的に伸びる視聴者数。
コメント欄、滝のようなログ。
『wwwwwwww』
『なんだこの動き草』
『運営のバグじゃねーか!』
『天才現る』
物理法則を無視した攻略法。システムへの冒涜。
だが、虐げられてきた非正規探索者たちにとって、それは痛快な革命劇。
スマートフォンの絶え間ない振動。
チャリン、チャリン、チャリン。
脳内のドーパミン中枢を直接刺激する、投げ銭の通知音。
100円、500円、10000円。
増える数字。増えるカイトの価値。
「あは、あははは! 見ろよ、俺は生きてる! 数字が俺を生かしてる!」
カメラへの絶叫。
紅潮する痩せた頬、異様にぎらつく瞳。
無敵。全能感。
彼はもはや底辺ではない。このバグだらけの世界を嘲笑う、道化師(ジョーカー)だった。
第3章: 運営の悪意
栄光、唐突な切断。
視界にポップアップする血の色の警告ウィンドウ。
『アカウント凍結のお知らせ:不正利用が検出されました』
「……は?」
思考停止の隙を与えず歪むダンジョン空間。
強制転移。
飛ばされた先は、きらびやかなシャンデリアが輝くS級ダンジョンのエントランス。
そこに立つ、太陽のように輝く金髪と、白銀のフルプレートアーマー。
レオン・ゴールドマン。
完璧なプロポーション。彫刻のような美貌。背後には数台のドローンカメラが浮遊し、彼の一挙手一投足を世界中に配信している。
「やあ、薄汚いネズミくん。君の悪ふざけは終わりだ」
よく響くバリトン。
カイトが口を開こうとした瞬間、腹部に走る激しい衝撃。
レオンの白銀のブーツによる、深々とした蹴り。
「がッ……!?」
床に撒き散らされる胃液と唾液。
無様に転がり、泥水を吸った絨毯の上に這いつくばるカイト。
「君のようなバグ利用者は、真面目に努力する探索者への冒涜だ。正義の名のもとに、僕が制裁を下す」
カメラへのウインク。
一転するコメント欄。レオンへの称賛、カイトへの罵倒。
『犯罪者は消えろ』
『レオン様かっこいい!』
『ゴミはゴミ箱へ』
「待っ……俺は、ただ……」
「言い訳は聞きたくないな。雑音がうるさい」
無造作に踏みつけられる右手。
響き渡る、骨の砕ける乾いた音。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!」
「痛いかい? でも、君がシステムに与えた痛みはこんなものじゃないよ」
装備を剥ぎ取られ、全財産を没収され、尊厳を泥水ですり潰される。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、必死の懇願。
「やめてくれ……金なら返す……なんでもするから……!」
「ハハハ! 見たまえ諸君! これが敗者の姿だ!」
響き渡る高笑い。
涙で滲む視界。
悔しさではない。ただ、圧倒的な「力」と「権威」の前に、自分が虫けらであることを再確認させられた絶望。
第4章: 炎上という名の凶器
「……アンタ、本当に無様だったわね」
薄暗い廃ビルの地下室。
モニターの明かりだけが照らす部屋で、飴を噛み砕く音。
灰谷エナ。派手なインナーカラーが入ったボブカットが、青白い光を反射している。
サイズの合わない作業着、染み付いた油汚れ、耳に光る無数のピアス。
彼女の指先は、目にも留まらぬ速さでキーボードを叩き続けていた。
「うるさい……分かってる」
包帯だらけの手で、自身の裏アカウントにログインするカイト。
目はまだ死んでいない。むしろ、以前よりも深く、昏い炎が宿る。
「レオンの配信スケジュール、座標データ、セキュリティホール……全部抜いたわよ。で、どうするの?」
冷笑を浮かべるエナ。
カイトの口の端が歪む。
「奴の配信をジャックする。俺が見つけた『最悪のバグ』を使う」
ダンジョンAIの根幹に関わる致命的な欠陥。
視聴者の感情エネルギー――特に『悪意』と『殺意』が閾値を超えた時、ダンジョンが現実との境界を失い、制御不能な暴走(オーバーフロー)を起こす現象。
「正攻法じゃ勝てない。だから、奴の得意な『人気』を利用して殺す」
叩かれるエンターキー。
レオンの完璧な生配信。その画面に走るノイズ。
『諸君、王者の景色はどうだい?』
画面への割り込み。血と泥に塗れたカイトの顔。
同時に作動するbotネット。
レオンの過去の悪事、裏帳簿、弱者への暴言の録音データ。SNS上への一斉拡散。
『レオンは運営の犬』
『あいつが俺たちの報酬をピンハネしてた』
『偽りの英雄』
早すぎる大衆の手のひら返し。
称賛は瞬く間に呪詛へ。
レオンの配信コメント欄が、どす黒い殺意で埋め尽くされていく。
『死ね』『殺せ』『落ちろ』
「さあ、見ろよレオン……! これがお前の愛した『数字』の正体だ!!」
カイトの絶叫。
赤く点滅し始めるダンジョンフロア。
鳴り響くシステム警告音。
もはやモンスターですらない、不定形の「悪意」の塊が、壁を突き破って溢れ出した。
第5章: 虚構の王
「なんだこれは!? 運営! 放送を止めろ! 今すぐだ!!」
響く悲鳴。
崩壊を始めるS級ダンジョン。
溶解したデータに侵食される黄金の鎧、恐怖の汗で濡れそぼる自慢の金髪。
崩れ落ちる瓦礫の上に立ち、その様を見下ろすカイト。
「無駄だよ。運営ももう制御できない。お前を食い殺そうとしているのは、お前が踏みつけてきた『視聴者』そのものだからな!」
「ふざけるなッ! 僕は選ばれた人間だ! 貴様のようなゴミとは違う!」
振り回される剣。だが、その刃はカイトの体をすり抜ける。
カイトの肉体は、すでに半分がデジタルノイズへと変貌していた。
このバグを制御するために捧げた、自らの「人間性(テクスチャ)」と引き換えに。
「ああ、違うな。俺はバグだ。そしてお前は、削除されるファイルだ」
レオンの四肢に絡みつく、視聴者の殺意が具現化した黒い触手。
ブチブチと、嫌な音。
プライドも、名誉も、肉体も、全てが引き剥がされていく。
「やめろ……やめてくれ! 助けて! 誰か! 金ならある! 地位もやる! だから死にたくないィィィッ!!」
かつてカイトが吐いたのと全く同じセリフ。
だが、誰も助けない。
画面の向こうの何億という人間が、その醜態を肴に熱狂しているだけ。
『ざまぁwww』
『もっと泣け』
『最高のショーだ』
消滅していくレオンを見つめ、静かに目を閉じるカイト。
痛みはない。寒さもない。
ただ、胸の奥にあったはずの「心」だけが、冷たいコードに置き換わっていく感覚。
ダンジョンが静寂を取り戻した時、そこには莫大な経験値と、神に近い管理者権限を手に入れたカイトだけが残っていた。
彼はもう、人間ではない。
デジタルの光に包まれたその顔は、以前の卑屈な青年とは別人のように美しく、そして無機質。
インカムから聞こえるエナの声。
『……終わったわよ。あんた、もう戻れないかもね』
「構わないさ」
虚空に浮かぶ無数のスクリーンを見上げる。
そこには、新たな「王」の誕生を称えるコメントが無限に流れている。
完璧な、しかしどこか虚ろな微笑み。
「数字こそが全て。そうだろ?」
軽く振るわれる指先。
世界という名のディスプレイに、次のクエストが表示された。
「さあ、次の企画を始めようか」