第1章: 壊死の始まり
王都の地下深く。巨大倉庫を満たすのは、埃とカビ、そして古い羊皮紙の匂いで淀んだ空気。
アトラス・ロジスティは、震える指先についたインクの黒ずみを親指で強く擦った。取れない。皮膚の皺にまで食い込んだその黒、二十四年に及ぶ労働の刻印。手入れなど数ヶ月も忘れたボサボサの黒髪、いつ眠ったのかさえ忘却の彼方にある濃い隈。纏うのは貴族の絹ではない。大小無数のポケットが縫い付けられた、油染みの浮く厚手のキャンバス地。
「聞こえなかったのか? 出て行けと言ったんだ、薄汚い運び屋風情が」
天井の高い倉庫に響く、冷酷な声。ヴァルダー王子。磨き上げられた黄金の甲冑が、薄暗い魔導灯を弾いて煌めく。一筋の乱れもない金髪、アトラスを見下す青い瞳。そこに宿るのは、虫けらを踏み潰す直前の侮蔑。
アトラスの足元、燃え盛る炎。彼が心血を注いで構築した物流管理の帳簿が、赤黒い舌を伸ばして灰へと変わっていく。
「殿下、計算が合いません」
枯れた声。だが、その響きは不気味なほど平坦。
「僕が管理しているのは単なる荷運びではありません。王都の食料、建材、魔石の『流量』です。僕という制御弁(バルブ)が外れれば、この国は三ヶ月……いえ、現在の消費係数を鑑みれば二ヶ月で飢餓ラインを割ります」
「ハッ! これだから魔力を持たぬ無能は困る。魔法でパンは焼け、水も出せる。貴様のやっていることは、右の物を左へ移すだけの子供の使いだ」
ヴァルダーの黄金のブーツが、足元の灰を踏みにじる。
「目障りだ。失せろ」
数秒、燃えカスを見つめるアトラス。脳内で凄まじい速度で走っていた計算式が、プツンと途切れる音。一度だけ深く息を吸い込み、肺に溜まった熱を吐き出す。踵を返す。
「……承知しました。引継ぎは行いません。誰も理解できないでしょうから」
「負け惜しみを!」
背後で嘲笑う声。アトラスは私物を何一つ持たず、ただ脳内にある膨大な『魔導データベース』だけを携え、重い鉄扉を押し開けた。
王都の門をくぐり、荒野への一歩を踏み出したその瞬間。
ゴウン……ンンン……プシュゥ……。
背後の王都で響く、奇妙な断末魔。地下水路のポンプ、自動搬送の魔導ベルト、都市の呼吸そのものの停止音。巨人の心臓が鼓動を止めたかのような、絶対的な静寂。
だが、アトラスは一度も振り返らない。
第2章: 辺境フルフィルメントセンター
睫毛さえ凍りつく極寒。鉛を流し込んだように重く垂れ込める、辺境伯領の空。
「おい、アンタ。本当にこんな場所で何をするつもりだい?」
銀色の毛並みを持つ狼獣人の少女、セレス。寒さで赤くなった鼻先、艶の消えた革鎧。琥珀色の瞳に揺れるのは、疑いと微かな期待。痩せこけた頬が物語る、この土地の深刻な飢え。
「在庫の最適化です」
視線も合わせず、凍てついた雪原にチョークで幾何学模様を描き続けるアトラス。手袋をしていない指先は紫色に変色し、感覚などとうに失せている。だが、その線に迷いはない。
「既存の転移魔法は燃費が悪すぎる。『座標AからBへ』という指定は、膨大な演算リソースを食うんです。だから書き換えます」
「はぁ? 書き換えるって……魔法式をか?」
「座標指定ではなく、『タグ管理』へ」
最後の線。同時に青白く発光する幾何学模様。懐から取り出したビー玉のような魔石を、中心へ。
「要求:小麦、塩、干し肉。優先度:緊急。配送先:タグ『辺境01』」
ブォン!!
爆縮する空気、歪む雪原の空間。
次の瞬間、虚空から吐き出される木箱の雪崩。ドサドサと雪の上に積み上がる物資の山。砕けた箱からこぼれ落ちる、黄金色の小麦粉と脂の乗った干し肉。
「な……ッ!?」
ピンと立つセレスの耳、逆立つ尻尾。震える手で干し肉を掴み、鼻を近づける。
「本物……だ。幻覚魔法じゃねぇ、肉の匂いだ!」
「王都周辺の廃棄予定だった余剰在庫をリンクさせました。魔力消費は従来の百内の一。これなら、必要な物を、必要な時に、必要な量だけ届ける『ジャスト・イン・タイム』が成立します」
無表情のまま、脳内のスプレッドシートを更新するアトラス。
その夜、焚き火を囲み、涙を流しながらシチューを啜る領民たち。湯気の中に浮かぶ無数の笑顔。
セレスが湯気の立つ椀を二つ持ち、隣に腰を下ろす。
「アンタ、すげぇな。魔法使いってのはもっと偉そうで、嫌な奴らだと思ってたけどよ」
「……僕は魔法使いではありません。ただの管理者です」
「理屈はわかんねぇけど、アンタが運ぶメシは最高に美味いんだよ!」
バン、と背中を叩く衝撃。前のめりになりかけ、手の中に感じるシチューの温かさ。冷え切っていた体温が、指先から少しずつ戻ってくる感覚。
死にかけていた辺境。この夜を境に、世界中の物資が集まる巨大な物流拠点への変貌が始まる。
第3章: 暴力という名のバグ
平和の崩壊。あまりにも呆気なく、そして理不尽な破砕。
「見つけたぞ、ドブネズミ」
空を裂く轟音。建設されたばかりの自動仕分け倉庫、吹き飛ぶ屋根。
空を覆う黒煙、穀物を舐め尽くす赤黒い炎。アトラスの頬を焼く熱波、作業着を焦がす火の粉。
上空に浮かぶ豪奢な飛竜、跨るヴァルダー王子。かつての輝きは消え失せ、充血した瞳と無精髭に宿る狂気。
「貴様のせいで! 王都の物価は十倍だ! 民は暴動を起こし、余の食事すらままならん! 盗んだ物資を返せ!」
「盗んでなどいません! あれは貴方が捨てた、管理放棄された資源です!」
叫びと共に展開しようとした防衛システムの術式。だが、遅い。
「黙れッ! 《戦略級・極大爆裂(プロミネンス・バースト)》!!」
論理も、効率も、計算も。全てを無視した純粋な暴力。
視界を白一色に染め上げる、墜落した太陽のような閃光。
ドォォォォォォン!!
木の葉のように吹き飛ばされる身体。地面への激突、口の中に広がる鉄の味。止まない耳鳴り。
「アトラス!」
瓦礫の隙間、セレスの悲鳴。
這いずりながら上げた顔の先。崩れ落ちた倉庫の下敷きになった、銀色の尻尾。
「あ……が……」
喉から漏れる、空気が抜けるような音。
脳内を埋め尽くすエラーメッセージ。
『防衛障壁:突破』『損害率:98%』『生存者:検索不能』
違う。そんな数字はどうでもいい。
血まみれの爪で地面を掻きむしり、セレスの元へ。だが、彼女の身体を覆う巨大な梁、アトラスの貧弱な腕力ではピクリとも動かない。
セレスの琥珀色の瞳から、急速に失われていく光。
「嘘だ……計算外だ……こんなバグは……ありえない……」
空から降ってくるヴァルダーの高笑い。
「見たか! これこそが王の力! 小賢しい理屈など、圧倒的な力の前には無意味なのだ!」
動かなくなったセレスの手を握りしめる。まだ残る温もり。
涙は出ない。その代わり、腹の底でどす黒く凝固していく何か。
「ふざけるな……」
口から漏れる、初めての感情。
「ふざけるなぁぁぁぁッ!! ロジックだ! 感情で腹は膨れない! 暴力で世界は回らない! 僕が……僕の計算が、こんな野蛮な熱量に負けるわけがないんだぁぁッ!!」
炎の赤と、煤の黒。その混沌の中、アトラス・ロジスティという人間の中で何かが壊れ、そして再構築された。
第4章: 兵糧攻めの悪魔
瓦礫の山に腰を下ろすアトラス。その瞳にはもう、光はない。
宿るのは、モニターのバックライトのような、冷たく無機質な輝きのみ。
彼は悟った。物流とは、届けることだけではない。「止める」こともまた、支配。
「……対象:王国王都全域。ステータス更新」
虚空を走る指。かつてない高速、編み上げられる複雑怪奇な術式。
「地下水脈の流路コードを改ざん。王都へ向かう水圧を逆転させ、下流の汚染区域へ接続。魔力ラインの周波数を変更、供給効率をマイナス90%へ」
王都へ向かう騎士団が進軍しようと剣を抜いた、その時。
ボロボロと崩れ落ちる刀身。弾け飛ぶ鎧の留め具、千切れる馬具。
「な、なんだこれは!? 整備班は何をしていた!」
騎士団長の叫び。答えられる者はいない。整備に必要な研磨油も、革紐も、留め具の予備も、全てアトラスが「流通停止」タグを付与した瞬間、存在としての維持限界を迎えたのだ。物質には寿命がある。それを維持する「物流」が途絶えた瞬間、文明は砂上の楼閣と化す。
さらに、放たれる情報。
風に乗せて、鳥たちに歌わせて、行商人たちの噂話として。
『辺境へ来れば、衣食住を保証する。王都に留まる者は、飢えと共に滅びる』
剣を交える必要さえなかった。
蜘蛛の子を散らすように門へと殺到する市民たち。武器を捨て、その列に加わる衛兵たち。
王都の死。流血ではなく、人がいなくなるという「失血死」。
遠く王都の方角を見つめ、静かに呟くアトラス。
「戦争? いいえ、これはただの『在庫調整』ですよ」
第5章: 黄金の棺桶
開け放たれた王都の城門。響くのは、吹き抜ける風の音だけ。
かつて追放されたその道を、ゆっくりと歩き王城へと向かうアトラス。
宝物庫の扉を開ける。
黄金の山。金貨、宝石、王冠、首飾り。目が眩むほどの富。
その中心でうずくまる、一人の男。
「ひっ……うぅ……」
骨と皮だけになったヴァルダー王子。
かつての美しい金髪は抜け落ち、自慢の甲冑は重すぎて脱ぎ捨てられ、糞尿にまみれた絹の下着姿で震えている。周囲に散乱する、かじりついた跡のある金貨。
「か、金ならある……! これをやるから、パンを……水をくれ……!」
アトラスを見ると、這いつくばって足元に縋り付くヴァルダー。
無表情で見下ろす、その浅ましい姿。
「計算通りですね。貨幣とは、交換する『物』があって初めて価値を持つ。物流が死んだ世界では、金塊などただの重石です」
「あぁ……ああぁ……」
ポケットから取り出す、一つだけ持ってきた真っ赤なリンゴ。
辺境でセレスが育てようとしていた、最初で最後の果実。
瑞々しく、生命力に溢れ、黄金よりも遥かに尊い輝きを放つ赤。
ヴァルダーの目の前に、コトリと置く。
「これが、あなたが軽視し、踏みにじった『物流』の価値です」
獣のような声を上げ、リンゴに飛びつく元王子。
ガツッ、グチャッ。宝物庫に響く租借音。乾ききった喉を潤す果汁、身体に染み渡る甘露。
「うっ、ううぅ……美味い、美味いよぉ……」
王族の誇りもプライドもない。ただ生存本能だけで涙を流し、貪り食う男。
アトラスはそれ以上、言葉を発しない。復讐の達成感も、憐れみもない。ただ、「タスク完了」のフラグが脳内で立っただけ。
踵を返し、宝物庫を出る。
王都を再建するつもりはない。ここは、愚かさの墓標として残すべきだ。
城を出ると、地平線の彼方に見える無数の光。
辺境を中心に広がる、新たな物流のネットワーク。それはまるで、大地を巡る血管のように脈打っていた。
「さあ、仕事の時間だ。世界中の在庫が、まだ最適化を待っている」
汚れた作業着のポケットに手を突っ込み、歩き出すアトラス。二度と振り返ることはない。
その背中は、王冠などなくとも、確かにこの世界を支配する「王」のそれだった。