第一章 蝕む不協和音
深町透の耳は、呪われているのかもしれない、と時折思う。
人には聞こえないはずの、壁の軋み、電球が発する微かな高周波、遠くを走る電車のレールが歌う単調な旋律。世界は音で満ち溢れているが、透の耳にはその過剰な情報が濁流のように流れ込んでくる。だから彼は、分厚いヘッドフォンで常に世界と自らを遮断していた。音響技師という仕事は、そんな彼にとって天職であり、同時に逃避場所でもあった。
今回の仕事は、閉鎖されていた古い市民ホールの音響設備の刷新だった。天井は高く、赤いビロードの座席が整然と並ぶ空間は、埃とカビの匂いに混じって、過ぎ去った日々の喝采やざわめきを微かに漂わせている。透はたった一人、ステージの中央に測定用のマイクを立て、無人の客席に向かってテストトーンを流した。
「……ん?」
ヘッドフォンを外し、生音を確認した時だった。スピーカーから流れる均一なピンクノイズの向こう側に、何か異質な音が混じっていることに気づいた。それは、弦を爪で引っ掻くような、耳障りな高音。周波数にして12kHzあたりか。機材の不調か、あるいはどこかでネズミでも鳴いているのか。
透はコンソールに戻り、スペクトラムアナライザの画面を睨んだ。だが、画面には異常を示すピークはどこにも現れない。機械は、その音を認識していないのだ。しかし、透の耳には確かに聞こえる。キィィ、と鼓膜を苛む、ガラスの破片のような音。
その日は気のせいだろうと自分に言い聞かせ、作業を終えた。しかし、翌日も、その翌日も、ホールに足を踏み入れるたびにその音は透を出迎えた。それは日を追うごとに存在感を増し、複数の音が重なり合った、不気味な不協和音へと変化していった。まるで、何人もの人間が同時に、全く違う高さの悲鳴を上げているかのようだ。
もちろん、同僚に相談しても、「何も聞こえない」「疲れてるんじゃないか」と一蹴されるだけ。孤独は彼の常だったが、誰にも理解されない恐怖は、彼の精神を着実に蝕んでいった。夜、自宅のベッドに横たわっても、耳の奥でその不協和音が鳴り響き、彼を眠りから遠ざけた。それはもはや、単なる幻聴ではない。ホールという空間に染み付いた、悪意のある「何か」が発する声のように思えてならなかった。
第二章 過去からの叫び声
その不協和音は、まるで生き物のように振る舞った。透がステージに近づけば音は大きくなり、ホールの隅に行けば遠ざかる。特に、舞台袖の古いグランドピアノの周辺で最も強く聞こえることに、彼は気づいた。ピアノの蓋は固く閉ざされ、鍵盤は分厚い埃に覆われている。最後にこのピアノが音を奏でたのは、一体いつのことだろうか。
透は、ノイローゼ寸前の心を奮い立たせ、このホールの過去を調べることにした。市の資料館に籠り、古びた新聞のマイクロフィルムを一枚一枚めくっていく。そして、一枚の写真に目が留まった。
三十年前、このホールでリサイタルを開くはずだった、一人の若きヴァイオリニスト。名を、月島詩織という。類稀なる才能を持ち、将来を嘱望されていた彼女は、リサイタルの本番当日、開演直前に舞台袖で倒れているのが発見され、そのまま息を引き取った。死因は、急性心不全。事件性はなしとされたが、記事の片隅には、彼女が直前まで「未完の協奏曲」の完成に心血を注いでいたこと、そして周囲にはそのプレッシャーに苦しむ様子も見られた、と書かれていた。
その記事を読んだ瞬間、背筋に冷たいものが走った。資料館の静寂の中で、耳の奥にあの不協和音が響き渡る。キィィ、という高い音は、まるでヴァイオリンの弦が引きちぎれる音のようにも聞こえた。
ホールに戻った透を待っていたのは、さらに凶暴性を増した音の渦だった。もはやそれは不協和音というより、明確な苦痛を伴う叫び声の集合体になっていた。助けて。苦しい。どうして。そんな言葉にならない感情が、音の刃となって透の鼓膜を突き刺す。
「やめろ……やめてくれ……!」
彼は両耳を強く塞ぎ、その場にうずくまった。孤独が、恐怖を増幅させる。誰かにこの音を聞いてほしかった。この苦しみを分かち合ってほしかった。しかし、この呪われた耳を持つ自分以外、誰にもこの魂の叫びは届かないのだ。世界から完全に切り離されたような絶望感が、彼を闇の底へと引きずり込んでいった。仕事道具の入ったケースが床に倒れ、金属製の機材がけたたましい音を立てて散らばった。その瞬間、不協和音がピタリと止んだ。
静寂。しかし、それは安らぎではなく、次なる嵐の前の不気味な静けさだった。
第三章 魂の調律
絶望の淵で、透の中に一つの感情が芽生えた。それは、恐怖ではなかった。音響技師としての、屈辱と怒りだった。
「ふざけるな……」
彼は床に散らばった機材を拾い上げながら、震える声で呟いた。
「俺の仕事場で、好き勝手に鳴り響いてるんじゃない。お前が何者だろうと、俺は……俺は音のプロだ。お前の正体を、必ず暴き出してやる」
それは虚勢だったかもしれない。だが、その言葉は彼に、恐怖と向き合うための覚悟を与えた。彼は自宅から、最新鋭の集音マイクと解析ソフトウェアが入ったラップトップを持ち込んだ。もう逃げない。この音を、一つの「音響現象」として、徹底的に分析し、解剖してやる。
透は、最も音が強く聞こえるグランドピアノの前に、指向性の高いマイクを何本も設置した。ヘッドフォンを装着し、全神経を聴覚に集中させる。再び、あの不協和音が空間を満たし始めた。しかし今、彼の耳は恐怖ではなく、分析のためにその音を捉えていた。
ディスプレイに表示される複雑な波形を睨みつけ、彼は一つ一つの音を分離し、フィルタリングしていく。ノイズにしか聞こえなかった音の塊から、不純物を取り除いていく作業。それはまるで、泥の中から砂金を探し出すような、途方もなく根気のいる作業だった。
何時間経っただろうか。夜が更け、ホールが完全な闇に包まれた頃、彼はついにその音の正体の一端を掴んだ。
「これは……旋律……?」
不協和音の核となっていたのは、無数の音の断片だった。それらはバラバラに引き裂かれ、歪められ、苦痛のノイズにまみれていたが、その奥には確かに、悲しくも美しい旋律が隠されていた。ヴァイオリンの悲痛な音色、ピアノのアルペジオ、そして、オーケストラの断片。それらが、本来あるべき場所からずれて、互いにぶつかり合って、この世のものとは思えない不協和音を生み出していたのだ。
月島詩織。彼女が死の直前まで完成させようとしていた、「未完の協奏曲」。
透は悟った。これは呪いなどではない。これは、届けられなかった音楽そのものだ。三十年もの間、このホールに閉じ込められ、誰にも聞かれることなく歪み続けた、彼女の魂の叫びなのだ。
恐怖は、いつの間にか消え去っていた。代わりに彼の胸を満たしたのは、深い哀れみと、音を扱う者としての強い使命感だった。彼女の音楽を、完成させてやらなければならない。歪んだ音をあるべき姿に戻し、この空間に囚われた彼女の魂を解放してやらなければ。
それは、音響技師がやるべき仕事ではないのかもしれない。だが、この音を聞くことができるのは、世界で自分だけなのだ。
第四章 静寂のレクイエム
透の、たった一人のための演奏会が始まった。コンソールに向かう彼の指は、もはや震えてはいなかった。それはまるで、百戦錬磨の指揮者のように、自信に満ちてしなやかに動いていた。
彼は解析した音の断片を、一つ一つパズルのように組み合わせていく。ヴァイオリンの旋律から耳障りな高周波ノイズを取り除き、本来のピッチに修正する。ピアノの和音の濁りを消し、クリアな響きを取り戻す。オーケストラの各パートを正しいタイミングで配置し、全体のバランスを整える。
それは、死者との対話にも似た作業だった。彼女がここで何を表現したかったのか。この旋律にどんな感情を込めたのか。透は、自身の持つ全ての知識と感性を総動員し、彼女の心に寄り添い、その意図を汲み取ろうと試みた。
「ここは、もっと悲しく……」「このクレッシェンドは、希望の兆しか……」
独り言を呟きながら、彼は完全に音の世界に没入していた。孤独な作業だったが、不思議と孤独ではなかった。隣に、月島詩織の気配を感じるような気さえした。
夜が明け、東の窓から朝日が差し込み始めた頃、ついにその曲は完成した。
透は、ホールのメインスピーカーのボリュームをゆっくりと上げた。
静寂を破り、流れ始めたのは、悲痛なまでに美しいヴァイオリンの独奏だった。それは絶望の淵でかき鳴らされる叫びのようであり、同時に、か細い希望を求める祈りのようでもあった。やがて、優しいピアノの音色が寄り添い、壮大なオーケストラが加わって、一つの壮麗な協奏曲へと昇華していく。
それは、月島詩織という才能が、命を削って生み出した魂の結晶だった。三十年の時を経て、初めてこの世界に響き渡った、鎮魂歌(レクイエム)。
曲がクライマックスを迎え、最後の音がホール全体に響き渡り、そして、ゆっくりと消えていく。
完全な静寂が訪れた。
あの不協和音は、もうどこにも聞こえなかった。代わりに、透の心には、温かく、満たされたような不思議な感覚が広がっていた。ありがとう、と。どこかから、そんな声が聞こえた気がした。
彼は、自分の特殊な耳を呪っていた。世界から身を隠すための壁を築いてきた。だが、今は違う。この耳は、声なき者の声を聞き、その魂を救うために与えられたのかもしれない。
透は機材を片付け、生まれ変わったように静かなホールを後にした。彼の孤独な戦いは終わった。しかし、新たな使命が始まったのだ。
駅のホームで電車を待っていると、彼の耳に、また別の音が聞こえてきた。それは、線路の軋む音に混じって聞こえる、微かな、悲しげな旋律だった。透はヘッドフォンを外し、そっと目を閉じた。そして、小さく微笑んだ。
世界は、救いを求める音で満ち溢れている。
彼の旅は、まだ始まったばかりだ。