追憶のレクイエム

追憶のレクイエム

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第一章 錆びついた鏡と囁き

古びた紙の匂いと、微かな黴の気配が満ちるその場所で、私は死んだ時間を生きていた。神保町の路地裏にひっそりと佇む古書店「不知火堂」。そこで店番をしながら、埃を被った物語の墓守をすることが、イラストレーターの夢を挫かれた私の、唯一の役割だった。

あの日、店主の葛城さんが裏の倉庫から引きずり出してきたのは、一枚の大きな姿見だった。西洋のアンティークらしい、黒檀のフレームには、蔦とアザミを模した禍々しい彫刻がびっしりと施されている。だが、異様なのはその鏡面だった。まるで長年、暗い湖の底に沈んでいたかのように、黒い錆と水垢のようなもので覆われ、ぼんやりとした自分の輪郭さえ映し出しはしなかった。

「樹くん、悪いがこれには触らないでくれ。ちと、曰く付きでな」

葛城さんは、いつも柔和な目を珍しく険しく眇め、そう言った。しかし、私の視線は鏡に釘付けになっていた。その黒い淀みの奥から、何かが手招きしているような、抗いがたい引力を感じたのだ。指先が、意思とは無関係に震える。

五年前、私はたった一人の妹、葉月を失った。青信号の横断歩道で、私の少し前を歩いていた彼女に、信号無視のトラックが突っ込んだ。私の目の前で、鮮やかな夏の光景が、一瞬にして絶望の赤に塗り替えられた。私が呼び止めなければ。私が手を掴んでいれば。その日から、私の時間は止まり、色彩は世界から失われた。

無意識に、私は鏡のフレームにそっと触れていた。ひんやりとした木肌の感触が、指先から腕を駆け上った瞬間だった。

『お姉ちゃん』

空耳だろうか。雑然とした店内に、鈴を転がすような、しかし水底から響くようにくぐもった声がした。葉月の声だ。私の心臓を、氷の指が鷲掴みにする。もう一度。もう一度聞きたい。その渇望が、葛城さんの忠告など、いとも容易く思考の彼方へと押し流してしまった。

その夜、私はまるで恋人を盗み出すように、店の裏口からこっそりとあの鏡を運び出し、自分の住むアパートの部屋に運び込んだ。六畳一間の、色彩のない部屋。その壁に立てかけられた鏡は、まるでぽっかりと開いた冥界への入り口のように、静かに佇んでいた。

第二章 甘美なる幻影

鏡との生活が始まって、三日目の夜だった。いつものようにベッドに潜り込み、無気力に天井を眺めていると、ふと、鏡の方から微かな光が漏れていることに気づいた。恐る恐る体を起こすと、あれほど黒く濁っていた鏡面が、中心から少しだけ、霧が晴れるように澄み渡っている。そして、その中に、信じられない光景が広がっていた。

懐かしい、実家のリビング。ソファに座り、スケッチブックを広げている少女がいる。葉月だ。高校生の制服を着た、十七歳の姿のままの。彼女はこちらに気づくと、花が綻ぶように微笑んだ。

『お姉ちゃん、おかえり。見て、この絵。今度、コンクールに出そうと思うんだ』

幻は音を伴っていた。唇が震え、声にならない嗚咽が漏れる。私は這うようにして鏡に近寄り、冷たいガラスに額を押し付けた。幻の中の葉月は、屈託なく笑い、楽しそうに自分の夢を語っている。私が、本当は望んでいた未来の姿。私が、守れなかった日常。

その日から、私は鏡の虜囚となった。夜ごと、鏡は映し出す世界を広げていく。葉月と一緒にアトリエで絵を描く日。二人で海へ行き、他愛ない話で笑い転げる日。幻の中の私は、生き生きと笑い、絵を描き、葉月の隣で幸福を噛みしめていた。鏡は、私の最も渇望する「もしも」の世界を、寸分違わず再現してくれたのだ。

引き換えに、現実の私は急速に朽ちていった。食事は喉を通らず、眠りは浅く断続的になった。目の下には深い隈が刻まれ、頬はこけ、友人からの電話にも出なくなった。古書店の仕事も休みがちになり、心配した葛城さんがアパートまで訪ねてきたが、私はドアを開けようとしなかった。現実のすべてが、鏡の中の幸福を邪魔する、ノイズにしか感じられなかった。

「お姉ちゃん、顔色が悪いよ。ちゃんと食べなきゃダメだよ」

ある夜、幻の中の葉月が、心配そうに私の頬に手を伸ばした。その手はガラスを通り抜けることなく、ただ、鏡の向こうで空を切る。それでも、私は確かにその温もりを感じた気がした。大丈夫、葉月がいるなら、私は何もいらない。そう呟きながら、私は甘美な衰弱に、喜んで身を委ねていた。

第三章 影喰らいの真実

転機は、突然訪れた。その日も私は、鏡の中の葉月と、架空の誕生日を祝っていた。テーブルには豪勢な料理が並び、美しいケーキの上で蝋燭の火が揺れている。だが、葉月はどこか浮かない顔をしていた。

「どうしたの、葉月?」

『……お姉ちゃん』

彼女は俯いたまま、小さな声で言った。

『お願い。もう、こっちに来ちゃダメ』

その瞳には、今まで見たことのない、深い悲しみの色が浮かんでいた。幻のはずの葉月が、まるで自分の意思を持っているかのように、私を拒絶している。違う。これは、私が望んだ幻じゃない。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。

「どういうこと?葉月、お姉ちゃんと一緒にいたくないの?」

『違う!違うよ!でも、このままじゃ、お姉ちゃんが……お姉ちゃんの大切なものが、なくなっちゃう!』

葉月の悲痛な叫びと共に、幻の世界がぐにゃりと歪み、鏡は再び元の黒い淀みに戻った。

私は茫然自失のまま、数日ぶりにアパートの扉を開け、よろめくようにして「不知火堂」へ向かった。私の無残な姿を見た葛城さんは、何も言わず、奥から一杯の熱いお茶と、羊皮紙で装丁された古い文献を出してきた。

「やはり、あの鏡を持ち出したか……。それは『影喰らいの鏡』と呼ばれる呪物だ」

葛城さんが指し示した文献のページには、私の部屋にある鏡とそっくりの挿絵が描かれていた。解説を、震える指でなぞる。

『影喰らいの鏡は、持ち主の最も大切な記憶を“影”として喰らう。喰らった記憶を糧とし、持ち主が望む、甘美で偽りの幻を見せる。しかし、その代償は大きい。幻に浸るほどに、糧とされた本物の記憶は歪められ、色褪せ、やがて完全に消滅する。持ち主は、最も愛したはずのものの記憶を根こそぎ奪われ、空っぽの抜け殻となって、幻の中で衰弱死するのだ』

血の気が引いた。大切な記憶?まさか。私が鏡に捧げていたのは、葉月との思い出……?

慌てて、記憶の糸を手繰り寄せようとする。葉月が好きだった花は何だっけ。ひまわり?いや、コスモスだったか……?彼女の笑い声は、どんなトーンだった?最後に交わした言葉は、何だった?思い出そうとすればするほど、記憶には濃い霧がかかり、葉月の顔さえ、おぼろげに霞んでいく。

全身から汗が噴き出した。恐怖が、背筋を凍らせる。鏡が与えてくれていたのは幸福な幻ではなかった。それは、私の魂そのものである葉月との思い出を、少しずつ、少しずつ食い荒らす、最も残酷な拷問だったのだ。私が幻に溺れるたびに、本物の葉月は、私の内側で静かに殺されていたのだ。

第四章 さよなら、私の光

アパートに戻った私は、物置から埃を被った金槌を取り出した。もう迷いはなかった。この偽りの楽園を、私自身のこの手で破壊しなければならない。葉月を、これ以上穢させてはいけない。

鏡の前に立つと、まるで私の決意を嘲笑うかのように、鏡面がこれまでで最も明るく、鮮やかな光を放った。そこに映し出されたのは、葉月だけではない。若く健康な頃の父と母、そして、幼い私と葉月。四人家族が、幸せの絶頂にあったクリスマスの夜の光景だった。

『お姉ちゃん、プレゼント開けよう!』

無邪気に笑う葉月。優しく見守る両親。暖炉の火がぱちぱちと音を立て、甘いケーキの匂いが鼻をくすぐるような気さえした。鏡は、私の最後の、そして最強の拠り所を喰らって、究極の幻を見せつけていた。

涙が、止めどなく頬を伝った。喉の奥から、嗚咽がせり上がる。ああ、この光景を、私はどれだけ取り戻したかったことだろう。

だが、私は知ってしまった。この幸福は、私の内なる大切なものを食い潰して成り立つ、砂上の楼閣なのだ。私は金槌を握る手に力を込めた。

「葉月……ごめんね」

幻の中の葉月が、こちらを不安そうに見つめている。

「ごめん。お姉ちゃん、弱かった。ずっと、あなたのいない現実から逃げてた。でも、もう終わりにする。偽物の思い出の中であなたを汚すくらいなら、私は、おぼろげになっていくあなたの記憶を抱きしめて、必死に生きていく」

私は叫んだ。

「ありがとう、私の光だった。さよなら……!」

振り上げた金槌を、鏡の中心に、力の限り叩きつけた。

パリンッ、という乾いた音ではなく、まるで生き物の断末魔のような、甲高い絶叫が部屋中に響き渡った。鏡は蜘蛛の巣状に砕け散り、その亀裂から、闇よりも深い黒い影のようなものが、霧となって霧散していく。そして、砕け散る寸前、鏡の破片の一つ一つに、一瞬だけ、こちらを見て優しく微笑む、本物の葉月の笑顔が映った気がした。それは、私が忘れかけていた、紛れもない葉月の、最後の微笑みだった。

数ヶ月後。私の部屋には、イーゼルに立てかけられた描きかけのキャンバスがある。朝日が差し込む窓辺で、私は再び、絵筆を握っていた。描いているのは、妹の肖像画だ。

もう、彼女の細かな表情を、正確に思い出すことはできない。記憶の中の笑顔は、陽炎のように揺らぎ、不確かだ。だから、何度も何度も描き直す。髪の艶を、瞳の輝きを、唇の形を、忘却の淵から必死に引き揚げようと試みる。

完璧な絵は、二度と描けないだろう。でも、それでいいのだ。

喪失を乗り越えることなどできない。ただ、私は喪失と共に生きていく道を見つけた。この不完全な絵を描き続けるという行為こそが、薄れゆく記憶への抵抗であり、私なりの愛の形であり、葉月への永遠の追悼なのだ。

キャンバスに落ちる絵の具の赤は、あの日の絶望の色ではない。私の心に、再び灯った生命の、ささやかで、しかし確かな温もりを持つ色だった。

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