壁の揺りかご

壁の揺りかご

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第一章 染みは蠢く

東京の喧騒から逃れるように、水島蓮がこの海辺の町の古いアパートに越してきたのは、初夏の匂いが潮風に混じり始めた頃だった。築五十年の木造アパートは、都会のコンクリートジャングルとは違う、時間の澱が静かに溜まったような独特の空気感をまとっていた。フリーのグラフィックデザイナーとして在宅で仕事をする蓮にとって、必要なのは静寂と、人との適度な距離。幼い頃に両親を事故で亡くして以来、彼は深い人間関係を築くことを無意識に避け、孤独という名の鎧を静かに身にまとって生きてきた。

「悪くない」

荷物を運び終えたがらんとした部屋で、蓮は一人呟いた。窓の外では鳶がのんびりと円を描いている。ここなら、締め切りに追われるだけの無機質な日々から、少しは解放されるかもしれない。そんな淡い期待は、しかし、最初の夜に脆くも崩れ去った。

異変が起きたのは、時計の針が午前二時を指した時だった。うとうとと微睡んでいた蓮の意識を、壁を掻きむしるような微かな音が引き戻した。軋むような、湿った音。蓮は身を起こし、音のする方へ目を凝らした。寝室の、何もないはずの白壁。月の光がぼんやりと差し込むその中央に、黒い染みが浮かび上がっていた。

それは、まるで水墨画で描かれた人の輪郭のようだった。最初はただの壁の汚れかと思った。しかし、違う。染みは、生きているかのように、ゆっくりと、ぬらり、と蠢いている。壁の内側から何者かが身体を押し付けているかのように、その輪郭は絶えず形を変え、苦しげに身悶えているように見えた。

蓮は息を呑んだ。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。幻覚だ。疲れているんだ。彼は自分に強く言い聞かせ、目を閉じて再び開いた。だが、染みは消えない。それどころか、じわりと面積を広げている気さえする。そして、耳の奥で、か細い声が聞こえた。

『……かえ……して……』

空耳だろうか。いや、確かに聞こえた。女の声のような、子供の声のような、性別の判然としない、途切れ途切れの囁き。蓮はベッドから飛び起き、電気のスイッチを探して壁を手探りした。パチン、と蛍光灯がつき、部屋が白々とした光に満たされる。振り返ると、壁には何の異常もなかった。ただの、古びて少し黄ばんだ壁紙があるだけだ。

だが、あの蠢く染みの感触と、耳に残る声の響きは、あまりにも生々しかった。蓮はその夜、一睡もできなかった。そして、その日から毎晩、午前二時になると、壁には決まってあの苦悶する人影が浮かび上がり、蓮の安息を蝕んでいくのだった。

第二章 失われた母親

現象は一週間続いた。蓮の目の下には隈がくっきりと刻まれ、仕事の効率は目に見えて落ちていた。彼は誰にも相談できなかった。非科学的な現象を語って、頭がおかしいと思われるのが怖かった。孤独に慣れた心は、助けを求める術を知らなかった。

「あの部屋、何か……ありませんでしたか」

意を決して、蓮はアパートの大家である老婆に尋ねてみた。しかし、老婆は皺くちゃの顔を気まずそうに歪め、「さあ、なんのことかねえ」と視線を逸らすだけだった。その態度が、かえって蓮の疑念を強くした。

彼は町の小さな図書館へ向かった。古い地方新聞のマイクロフィルムを一枚一枚めくっていく。自分の住むアパートの住所を手がかりに、過去の記事を執拗に探し続けた。そして、三十年前のある日の夕刊に、小さな三面記事を見つけた。

『アパートから若い女性、行方不明か』

記事には、蓮が住むそのアパートで、木下沙耶という二十歳の女性が忽然と姿を消した、と書かれていた。写真はなく、彼女の人となりを示す情報は乏しい。だが、その名前を目にした瞬間、蓮の背筋を冷たいものが走った。

その夜、壁の染みは、これまで以上に激しく蠢いていた。まるで蓮の調査に呼応するかのように、苦悶の度合いを増している。そして、声はより鮮明になっていた。

『わたしの……あかちゃんを……かえして……』

赤ん坊。その言葉に、蓮の中で全てのピースが繋がった。木下沙耶は妊娠していたのだ。そして、何者かによって赤ん坊を奪われ、この部屋で命を落としたのではないか。彼女の無念の魂が、この壁に地縛霊となって留まり、我が子を求めて夜な夜な呻いているのだ。

そう思い至った途端、蓮の心に、恐怖とは違う感情が芽生えた。それは、憐憫であり、共感だった。孤独な部屋で、誰にも知られずに我が子を想い続ける母親。その姿が、理由もなく胸を締め付けた。これまで他人の事情に一切の興味を示さなかった蓮の中に、初めて「彼女を救ってやりたい」という強い想いが湧き上がってきた。閉ざされていた心の扉が、ほんの少しだけ軋んで開いたような気がした。

第三章 反転する哀願

蓮はさらに深く調査を進めた。当時の事件を担当していたという元刑事が、隣町で隠居生活を送っていることを突き止め、自宅を訪ねた。坂田と名乗る老人は、突然の来訪者を訝しげに見ていたが、蓮が木下沙耶の名前を出すと、遠い目をして重々しく口を開いた。

「……まだあの部屋に、出るのか」

坂田の言葉に、蓮は息を呑んだ。彼は全てを知っているのだ。蓮は、沙耶が子供を奪われ殺されたのだろう、という自分の推測を語った。しかし、老人は静かに首を横に振った。

「あんたは勘違いをしている。木下沙耶は、誰にも殺されてなどいない」

坂田が語り始めた真実は、蓮の予想を根底から覆すものだった。

沙耶は、未婚のまま子供を産むことを決意し、親の勘当同然で家を飛び出し、あのアパートで一人、出産に備えていた。彼女は失踪したのではない。誰にも看取られることなく、たった一人で男の子を産み落とした直後、産後の肥立ちが悪く、そのまま息を引き取ったのだ。発見が遅れ、彼女は孤独死として処理された。

「じゃあ、赤ん坊は……」

「赤ん坊は奇跡的に助かり、すぐに乳児院に保護された。沙耶さんの無念は、我が子の顔を見られたのがほんの僅かな時間だったことぐらいだろう。問題は、その後だ」

坂田は一度言葉を切り、古びた茶を啜った。

「その赤ん坊は、三歳になった頃、ある夫婦に養子として引き取られた。だが、その一年後……。養父母とのドライブ中、不運な事故に巻き込まれて、亡くなったんだ。ほんの四歳だった」

蓮は言葉を失った。頭が真っ白になる。では、壁の染みは?「赤ちゃんをかえして」という声は、一体何だったのか?

「あんたが聞いた声は、『赤ちゃんをかえして』じゃない」坂田は、蓮の心を見透かすように言った。「たぶん、こう言ってるはずだ。『お母さんを、かえして』と」

雷に打たれたような衝撃が、蓮の全身を貫いた。

壁の染みは、子供を失った母親の無念ではなかった。あれは、母親の温もりを知らぬままこの世を去った幼子の魂が、母が最後にいた場所、母の匂いが残るあの部屋の壁に、必死にその姿を映し出していたのだ。母親に会いたい、抱きしめてほしいという、あまりにも純粋で、あまりにも悲しい願いの顕現。自分が同情していた相手は、全くの逆だった。哀れな母親の霊などではなかった。そこにいたのは、たった一人の、寂しい子供だったのだ。

第四章 心のオルゴール

アパートに戻った蓮は、ただ呆然と壁を見つめていた。真実は、ホラーなどという言葉では片付けられない、あまりにも切ない哀話だった。母親を求める幼子の魂。その姿が、幼い頃に両親を亡くした自分自身の孤独な魂と、痛いほどに重なった。

そうだ、自分もずっとそうだった。強がって、平気なふりをして、一人で生きていけると思い込んできた。だが、心の奥底では、ずっと両親の温もりを求めていた。失われた温もりを、ただ渇望していたのだ。壁の染みは、他人の霊などではなかった。それは、蓮自身が目を背けてきた、心の奥の叫び声そのものだったのかもしれない。

その夜、午前二時。いつものように、壁に人影が浮かび上がった。しかし、蓮はもう恐怖を感じなかった。彼は静かにベッドから降りると、クローゼットの奥から、古びた木製の小箱を取り出した。それは、蓮が幼い頃、両親からプレゼントされた、たった一つの宝物。星の飾りがついたオルゴールだった。

蓮は壁の前にそっと膝をつき、染みに向かって語りかけた。

「寂しかったんだね。お母さんに会いたかったんだね。……僕もだよ」

彼の指が、そっとオルゴールのネジを巻く。カチ、カチ、という小さな音の後、澄んだ、優しいメロディが部屋に溢れ出した。それは、蓮の両親が好きだった子守唄のメロディ。

すると、奇跡が起きた。今まで苦しげに蠢いていた染みの動きが、ぴたりと止まったのだ。そして、その黒い輪郭が、内側から淡い光を放ち始めた。オルゴールの音色に包まれるように、染みはゆっくりとほどけていき、無数の光の粒子となって、きらきらと部屋の中を舞い始めた。まるで、長年の苦しみから解放され、安堵しているかのように。

やがて光は静かに壁に吸い込まれるように消えていった。最後に、幼い子供の弾むような声が、蓮の心にだけ、はっきりと響いた。

『ありがとう』

翌朝、蓮は久しぶりに深い眠りから覚めた。壁は、ただの古い壁に戻っていた。もう、あの染みが現れることはないだろう。

蓮は空になった部屋を見渡し、窓から差し込む朝の光を浴びた。その時、彼の頬を、一筋の涙が静かに伝った。それは恐怖や悲しみの涙ではなかった。見知らぬ幼子の魂に寄り添い、そして、自分自身の凍てついた孤独をようやく溶かすことができた、温かい涙だった。

数日後、蓮はあのアパートを引き払った。新しい部屋の窓からは、活気のある街並みが見える。彼はもう、孤独を鎧にする必要はない。なぜなら、あの壁の向こうで、見えない誰かの温もりを、確かに感じ取ることができたのだから。彼は、その温もりを胸に、新しい一歩を踏み出す。その足取りは、驚くほど軽やかだった。

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