第1章: 贋作乙女への執行猶予
室内の冷ややかなダウンライト。それを吸い込み、頼りなく揺れる色素の薄い茶髪。安物の古着屋で調達したであろう木綿のワンピースは、彼女の痩せ細った鎖骨を無防備に晒している。ところどころ絵具の染みがついた袖口から覗く、華奢で折れそうな手首。美月は膝の上で固く握りしめた拳を見つめ続けていた。琥珀色の瞳は涙の膜で歪む。視界の全てを占めるのは、目の前に座る男の磨き上げられた革靴だけ。
オークションハウスの最上階。重役室の空気は、針金のように張り詰めていた。革張りのソファが軋む微かな音さえ、鼓膜を劈く爆音のよう。
「……素晴らしい筆致だ。フェルメール特有のラピスラズリの扱い、光の粒子の表現。炭素年代測定さえ欺く絵具の調合。まさに神業と言っていい」
男の声。最高級のベルベットのような滑らかさと、絶対零度の冷徹さ。久我山怜央。この街の美術市場を支配する男。オーダーメイドのチャコールグレーの三揃えを隙なく着こなし、白手袋に包まれた指先で、美月が描き上げた『贋作』の縁を愛おしげに撫でる。
「だが、贋作だ」
銀縁眼鏡の奥、爬虫類を思わせる冷徹な瞳。射抜くように美月を捉える視線。
美月の喉がひきつった。呼吸が浅くなり、肺が酸素を拒絶する。
「お、父さまの……借金が……」
「知っている」
久我山は立ち上がり、音もなく美月へと歩み寄る。彼の纏う高価なコロンの香りが、鉄錆のような血の匂いと混ざり合い、美月の鼻腔を犯すように刺激した。手袋越しの指先が、美月の顎をくいと持ち上げる。
「警察に突き出せば、君は終わる。父親も、君のその腕も、刑務所の塀の中で朽ちていくだけだ」
視界の明滅。心臓の早鐘。肋骨を内側から激しく叩く鼓動。逃げ場などない。この部屋の扉は重厚で、外界への出口は遥か彼方。
「一つだけ、選択肢をやろう」
久我山の顔が近づく。整いすぎた造作が煽る、人間離れした恐怖。
「私の所有物になれ」
「……え?」
「君の負債、全て私が肩代わりしてやる。その代わり、君はこの瞬間から人間としての権利を放棄し、私のコレクションの一つとして生きるんだ。……この美しい贋作のように」
頬に触れる革手袋の冷たさ。肌が粟立つ。
「拒否権はない。君はもう、買われたのだから」
硝子の檻が、音を立てて閉じる。そんな幻聴が鼓膜を震わせた。
第2章: 蜜の檻、飼育の作法
ペントハウスの窓から一望できる、宝石を散りばめたような夜景。だが、その光が美月に届くことはない。強化ガラスの向こう側は真空の宇宙のように遠い。
あてがわれたのは、肌の上を水のように滑る豪奢なシルクのネグリジェ。真珠のような光沢を放つ布地は、美月の身体の起伏を艶かしく浮き上がらせる。彼女は天蓋付きのベッドの端に座り込み、自身の身体を抱いていた。
「食事の時間だ」
扉が開き、久我山が入ってくる。仕事着のスーツを脱ぎ、リラックスしたシルクのガウン姿。だが、その瞳の鋭さは変わらない。銀の盆には、一口サイズにカットされた果実や、見たこともないような繊細な料理の数々。
「あ、あの……自分で、食べられま……」
「ダメだ」
短く、しかし絶対的な拒絶。久我山はベッドサイドに腰掛け、フォークで熟れた無花果を刺す。
「手を使うなと言ったはずだ。君の指は、絵筆を握るためだけにある。それ以外の些末な労働で、ささくれ一つ作ることは許さない」
差し出されたフォークが唇に触れる。甘い香り。美月は羞恥に顔を赤らめながら、雛鳥のように口を開いた。果実の蜜が舌の上で弾け、喉の奥へと滑り落ちる。
「いい子だ」
久我山は満足げに目を細め、空になった口元を親指で拭った。その指が、唇の輪郭をなぞり、口腔内へと侵入してくる。
「んっ、……ぁ……」
舌を絡め取られる感覚。背筋が跳ねる。だが、彼はそれ以上をしない。毎夜、繰り返されるのは、生殺しの遊戯。
美月を抱きすくめ、その華奢な肢体を宝石の原石を鑑定するかのように愛撫する男。敏感な耳朶への甘噛み、首筋への吸着、太腿の内側を執拗に這い回る指先。
熱い楔が秘所の入り口を掠めても、決して奥までは貫かない。
「欲しいか? 誰の物になりたい?」
耳元で囁かれる言葉。呪文のように理性を溶かす魔性の響き。
身体の芯が熱を持ち、下腹部が甘く疼く。拒絶しなければならない。なのに、彼の腕の中にいると、世界中の敵から守られているような錯覚に陥る。
「くが、やま……さん……」
懇願するような吐息。彼は嗜虐的な笑みを浮かべ、わざと指を離した。
「まだだ。もっと焦がれろ。私の許可なしでは、果てることさえ許さない」
屈辱的なまでの管理と、脳髄を痺れさせるような甘い毒。美月の身体は、彼の手によって、快楽の楽器へと調律され始めていた。
第3章: 崩れ落ちる偶像
硝子の城郭に、招かれざる客が現れたのは、監禁から三ヶ月が過ぎた頃。
久我山の不在時、厳重なセキュリティをすり抜けるようにして現れた男――佐伯アラン。無精髭の口元に人を食ったような笑みを浮かべ、高価なシャンパングラスを弄ぶ。
「へえ、ここが怜央の秘密基地か。趣味が悪いねえ」
ヨレた麻のシャツを着崩したアランは、怯える美月を一瞥し、口笛を吹いた。
「君が『生きたフェルメール』ちゃん? なるほど、あいつが狂うわけだ」
「あなたは……」
「ただの古い友人さ。……君、ここでの暮らしは楽しい?」
値踏みするような冷たさと、奇妙な憐れみが混在する視線。美月はネグリジェの裾を握りしめ、視線を逸らす。
「私には、借金が……ありますから。契約なんです」
「借金ねえ」
アランはグラスの中身を一気に煽り、乾いた音を立ててテーブルに置いた。
「その借金、誰が作ったか知ってる?」
「父が、事業に失敗して……」
「違うな。怜央が失敗させたんだよ」
時が止まった。美月の思考が白く染まる。
「……え?」
「君の親父さんの会社への融資を止めさせ、裏で絵画取引の詐欺を持ちかけた。全部、久我山怜央のシナリオだ。あいつは三年前に君を街で見かけてから、ずっと計画してたんだよ。君を合法的に、誰にも邪魔されず飼育するための檻を作る計画をね」
残酷な真実を、天気の話題でもするように告げるアラン。
「君は救われたんじゃない。捕獲されたんだ。最初から」
足元が崩れ落ちる感覚。膝から力が抜け、美月は厚い絨毯の上にへたり込む。
信頼めいたものが芽生えかけていた。あの冷たい指先が与える熱に、安らぎさえ感じていたのに。それら全てが、計算され尽くした悪意の上に成り立っていたとは。
胃の奥からせり上がる酸っぱいもの。
このペントハウスは城ではない。蜘蛛の巣だ。
「さあて、真実を知ってどうする? お姫様」
アランの嘲笑だけが、遠くで響いていた。
第4章: 蹂躙される魂
その夜、美月は初めて久我山を拒絶した。
帰宅した彼がいつものように抱擁しようとした瞬間、美月はその手を振り払い、花瓶を投げつける。陶器が砕け散る音。床に散乱する水と花。
「触らないで!!」
喉が裂けんばかりの絶叫。美月の瞳に渦巻く恐怖と憎悪。
「全部……全部あなたの仕業だったんでしょう!? お父さんを騙して、私をこんな……っ、悪魔!! 返してよ、私の人生を返して!!」
久我山の動きが止まった。眼鏡の奥の瞳から、ふわりと感情の色が消え失せる。室内の温度が急激に下がったかのような錯覚。
「……佐伯か」
低く呟かれた声は、地獄の底からの響き。
次の瞬間、美月の身体は宙を舞い、巨大なベッドへと叩きつけられていた。
「いやぁっ!! 放して!!」
必死に暴れ、爪を立てる。久我山の頬に赤い筋が走るが、彼は痛痒さえ感じていない様子。ネグリジェが無惨な音を立てて引き裂かれた。
「逃がすわけがないだろう」
ネクタイを引き抜き、美月の手首を乱暴に縛り上げる久我山。
「世界中のどこへ逃げようと、骨を折ってでも連れ戻す。君は私のものだ。細胞の一つ、吐き出す二酸化炭素に至るまで」
「やめ……やめてぇぇぇ!!」
悲鳴は、強引に重ねられた唇によって封じられた。今までのような甘さは微塵もない。舌を噛み切るような激しい口づけ。酸素を奪われ、視界が白濁する。
「んぐっ、ぁ……が……っ!!」
準備もなしに、熱り立った欲望の楔が、美月の最奥へと侵入した。裂けるような痛みと、内臓を押し上げられる異物感。美月は白目を剥いて身体を弓なりに反らせる。
「あ゛っ、ぎぃ……っ!!」
「泣け。叫べ。私の名を刻み込め」
獣のように腰を打ち付ける久我山。紳士の仮面は剥がれ落ち、そこにあるのは飢えた捕食者の本能だけ。激しいピストン運動に、ベッドのスプリングが悲鳴を上げる。
痛みは次第に、脳髄を焼き切るような強烈な痺れへ。
「ひぐっ、あ、ぁ……っ、くが、やま、さ……ッ!!」
拒絶の言葉は、いつしか快楽の喘ぎへと摩り替えられていた。秘所は彼の剛直を貪るように収縮し、涎と蜜が混じり合ってシーツを汚していく。
理性が決壊する音。
悔しい、憎い、なのに、身体の奥底が震えるほどに歓喜していた。
「そうだ、その顔だ……美しい……」
久我山は美月の首に手をかけ、ギリギリと締め上げた。窒息寸前の酸欠状態が、絶頂の感覚を極限まで高めていく。
「イく……っ、こわれ、ちゃう、あぁぁぁ……!!」
「壊れろ。私の腕の中で」
二人の身体が激しく痙攣し、同時に果てた。
意識が闇に落ちる寸前、美月は悟る。自分は二度と、元の世界には戻れないのだと。
第5章: 硝子の棺、永遠の微睡み
朝日が差し込むペントハウス。そこは嵐の後の静けさに包まれていた。
散乱した花瓶の破片も、引き裂かれた衣服も、すでに片付けられている。
美月はベッドの上で、人形のように座っていた。肌の至る所に残された愛の痕跡だけが、昨夜の惨劇を物語る。
久我山が差し出した書類。
『契約延長同意書』。
借金の額はすでに意味をなしていない。これは、美月が自らの意志で、この檻に残ることを誓うための儀式。
「……サインを」
久我山の声は、以前よりも優しく、そして哀願するような響きを帯びていた。ベッドの脇に膝をつき、美月の素足に頬を寄せる彼。絶対的な支配者だった男が、今は愛を乞う信徒のように見える。
美月は震える指でペンを取った。
外の世界に出れば、自由があるかもしれない。だが、この男が与える猛毒のような愛なしで、自分は息ができるだろうか。あの強烈な被征服感、魂ごと食らわれるような充足感を知ってしまった今、平凡な日常など色褪せた贋作に過ぎない。
ペン先が紙の上を走り、名前が刻まれる。
画家としての死。そして、彼だけの『傑作』としての再生。
「ああ……美月……」
涙を流して歓喜し、美月の足首に口づけを落とす久我山。取り出した小箱の中には、無数のダイヤモンドが埋め込まれたプラチナのアンクレット。
カチリ。
冷ややかな金属音が、足首で鳴る。
それは二度と外れることのない、愛という名の足枷。
「一生、愛し尽くしてあげる。傷一つつけさせない。君は、世界で一番幸福な贋作だ」
美月は虚ろな、しかしどこか恍惚とした瞳で久我山の頭を抱き寄せた。
閉ざされた硝子の檻。誰の目にも触れず、誰の声も届かない場所で、二人は腐敗するほど甘い蜜の海へと沈んでいく。
そこは、出口のない楽園だった。