第1章: 処刑台の損益分岐点
腐った卵の臭気。網膜を灼く白光。意識の浮上。
相模イツキは、己の直立を知覚する。足裏に伝わる粗末な松板の感触。視界を遮る黒髪は脂と泥で凝固し、額に張り付いている。身体を包むのは、かつて上質なチャコールグレーだったイタリア製スーツ。今や至る所が裂け、ワイシャツは黄ばみ、袖口は無惨に擦り切れていた。鼻梁に乗った銀縁眼鏡、その左レンズに走る蜘蛛の巣状の亀裂。その奥、充血した瞳による冷徹なスキャン。
「罪人、相模イツキ。貴族への不敬並びに国家反逆の罪により、斬首に処す!」
太鼓腹の執行官が羊皮紙を広げ、唾を飛ばして叫ぶ。眼下には群衆の海。見世物を期待する歪んだ笑み。広場の石畳は汚水で黒ずみ、彼らの吐く息が白く濁って空へ昇っていく。
「……計算が、合いませんね」
乾いた唇から漏れたのは、命乞いではない。監査報告のような、冷ややかな呟き。
背後、身の丈ほどもある大斧を構えた処刑人が一歩踏み出す。筋肉の塊のような巨漢。だが、イツキの充血した目は、男の殺気ではなく、その手にある「道具(アセット)」に釘付けになっていた。
「おい、そこの執行官。聞こえないか?」
「あぁ? 最期の言葉なら神に祈れ」
「神の話じゃない。予算(バジェット)の話だ」
イツキは後ろ手に縛られたまま、処刑人を顎でしゃくる。
「その斧の柄、樫(オーク)材ではなく安物の松材でしょう。しかも刃先を見てください。中央から右へ3センチ、微細なクラック。研磨不足」
処刑人の眉がピクリと動く。
「松材は衝撃吸収率が低い。そのクラックが入った刃で、人間の頚椎という硬組織を断ち切るには、力学的に見て最低でも3回の打撃が必要となる」
イツキは執行官へ向き直り、割れたレンズ越しに視線を突き刺した。
「帝国処刑法第4条『人道的な一撃』の原則違反。一撃で死ねない処刑は拷問にあたる。それでも執行しますか? それとも、処刑予算を中抜きして私腹を肥やした事実を、この場で大声で叫びましょうか。帳簿を見れば一発だ。あんたのポケットに入っているその金貨の出処(ソース)もね」
静まり返る広場。凪ぐ風。遠くで鳴くカラス。執行官の顔色が、熟れたトマトのように赤黒く変色し、やがて青ざめていく。こめかみを伝う脂汗。
「き、貴様……何を……」
「数字は嘘をつかない。嘘をつくのはいつも人間だ」
淡々と言い放つイツキ。
「中止しなさい。さもなくば、私が地獄へ落ちる前に、あんたの社会的地位(キャリア)を処刑する」
振り上げられた斧、空中で停止。刃に反射した陽光が、イツキの割れた眼鏡の奥、鋭く光った。
第2章: 冒険者ギルドの労働争議
「ふざけるな! 依頼達成率が下がれば、ギルドの等級が落ちるのだぞ!」
怒号。執務室のマホガニー机が、拳の衝撃で悲鳴を上げる。しかし、その向かい側に座るイツキは、手元の書類から目を離しもしない。
傍らには、傷だらけの銀髪を短く刈り込んだ女騎士、エレノア・ヴァン・ガルド。装飾を剥ぎ取られ、所々凹んだ無骨なプレートメイル。呼吸のたびに軋む金属音。その蒼眼は、獲物を狙う狼の如くマスターを睨みつけていた。
「等級維持のための経費削減……それが、冒険者へのポーション支給廃止の理由ですね」
ボールペンの先で書類の一点を叩くイツキ。
「損益分岐点の計算が雑すぎる。初期投資をケチれば、人的資源の損耗率が上がり、長期的には赤字(ロス)。基本です」
「貴様にギルドの何がわかる! 冒険者など、使い捨ての駒に過ぎん!」
「使い捨て?」
エレノアが一歩前へ。剣の柄に置いた手、白く強張る指先。「彼らは命を削って魔獣を狩り、市民を守っている。それを貴様は……」
「エレノア、感情論はノイズです。下がって」
制止。唇を噛み、奥歯を軋ませて引き下がる彼女。イツキは眼鏡の位置を直し、一枚の紙をマスターへ突きつけた。
「これは、全登録冒険者の署名入り『労働条件改善要求書』。要求が通らない場合、本日正午をもって全業務を停止(シャットダウン)します」
「ストライキだと? 馬鹿な、そんなことをすれば街は魔獣で溢れかえる!」
「ええ。そうなれば、ギルドの防衛義務違反でマスターの資格は剥奪。違約金は……そうですね、あなたの全財産を売却しても足りない計算になります」
窓の外、地鳴りのような歓声。広場を埋め尽くす数百人の冒険者たち。掲げられる剣や杖。イツキが考案したスローガンの合唱。「自己責任」の名の下に搾取され、ボロ雑巾のように死んでいった者たちの怒り。それが今、論理という武器を得て爆発したのだ。
「適正な労務管理と福利厚生。それが導入コストです」
冷ややかな宣告。
「さあ、選んでください。破産か、改革か」
崩れ落ちるように椅子へ沈むマスター。顔に浮かぶ、完全なる敗北の色。エレノアが小さく息を吐き、イツキを見る。その瞳に宿る、反発と畏敬の入り混じった複雑な光。
第3章: 魔力という名の借金
改革の歯車が回り始めた矢先――世界は反転する。
帝都の地下深く、光の届かぬ奈落。『虚無の座』と呼ばれる牢獄。イツキは四肢を鎖で吊り下げられていた。骨髄まで染み渡る冷気、麻痺していく感覚。
「嘆かわしい。数字遊びで世界が救えると思ったか?」
闇からの出現。豪奢な法衣を纏った宰相ヴァルガス。十指すべてに嵌められた巨大な宝石の、妖しい明滅。その金色の瞳に渦巻く底知れぬ暗黒。
「……私の計算に、間違いはなかったはずです」
掠れた声。砂を噛むような喉の渇き。
「ギルドの黒字化、税収の増加……すべて順調だった」
「浅はかだ」
嘲笑。杖先で持ち上げられるイツキの顎。
「貴様が見ていたのは表面上の帳簿に過ぎん。この国の繁栄が、何によって支えられているか知っているか?」
指を鳴らすヴァルガス。壁面に浮かび上がる巨大な魔法陣。描かれる赤黒い光の奔流。
「魔力とは、空間に漂う無限のエネルギーではない。未来の生命力(リソース)の前借りなのだよ」
早鐘を打つ心臓。背筋を伝う冷たい汗。
「前借り……?」
「そうだ。我々は数百年先の子孫が使うはずの生命力を搾取し、今の繁栄を維持している。帝国の魔力収支はとっくに破綻しているのだ。私が国民から徴収しているのは税金ではない。彼らの『余命』だ」
脳内で噛み合うパズルピース。最悪の形での完成。帳簿上の粉飾決算。自転車操業。この国は、既に死んでいる。
「貴様のような小賢しい会計士には退場願おう。その魂ごと、私の糧となるがいい」
かざされた手。襲い来る激痛。血管の中を流れる無数の針。抜ける指先の力、灰色に染まる視界。
(計算できない……こんなもの、計算式にない……!)
恐怖。人生で初めて、論理が通用しない領域に踏み込んだ絶望。それがイツキの理性を食い破ろうとしていた。
第4章: 地盤力学の脱獄劇
泥。口腔を満たす鉄と土の味。
魔力を吸い尽くされ、ボロ雑巾のように捨てられた地下水路の底。震える手で掻く、足元のぬかるみ。剥がれた爪、滲む血。痛みは遠い。
「……諦めんのか、兄ちゃん」
隣で荒げる息。元土木施工管理技士だという髭面の囚人。岩のように太かった腕は、今や枯れ木のように痩せ細っている。
「諦める?」
血の混じった唾を吐き捨てるイツキ。
「冗談じゃない。監査はまだ終わっていない」
懐から取り出した一本の金属スプーン。看守の食事から盗んだもの。曲がった柄、浮いた錆。
「この監獄の設計図は頭に入っています。看守の巡回パターン、地下水脈の浸食率、岩盤の振動係数……全て計算済みだ」
壁面のレンガの継ぎ目を叩く。コン、コン。軽い音。
「ここだ。この一点に応力を集中させれば、構造的欠陥が連鎖崩壊を起こす」
「正気かよ。スプーン一本で要塞を崩す気か?」
「物理法則は平等です。魔力がなくても、重力と摩擦係数は我々を裏切らない」
一心不乱に削る壁。顔にかかる泥水。原形をとどめぬスーツ。だが、その瞳だけは、暗闇の中でかつてないほど鮮烈に燃えていた。もはや「正しさ」のためではない。「生きたい」という、計算式では弾き出せない泥臭い衝動。
「エレノア……待っていろ」
スプーンが石を削る音。静寂な地下への反響。それは絶望に対する、あまりにも小さく、しかし確実な反逆の鼓動(ビート)。
第5章: 最終監査報告会
建国記念式典。王城のバルコニーに立つヴァルガス。眼下には数万の民衆。
「愚民どもよ! 偉大なる帝国のために、その命を捧げよ!」
広げた両手。紫色に染まる空。展開される巨大な魔法陣。民衆の肌から立ち上る光の粒子、吸い上げられる命。渦巻く悲鳴と慟哭、ヴァルガスの恍惚。
その時だ。
「**異議あり!!!**」
轟く、雷鳴のような咆哮。
ヴァルガスの背後、王城の巨大な壁面。突如投影される、目も眩むような光の文字。魔法ではない。鏡とレンズ、松明の光を巧みに利用した巨大な幻灯機(プロジェクター)。
映し出されたのは、『帝国最終監査報告書(バランスシート)』。
「な……何だこれは!?」
狼狽する宰相。
「粉飾決算の証拠だ、ヴァルガス!」
瓦礫の山を乗り越え、現れたイツキ。泥と血にまみれ、眼鏡は失われ、スーツは布切れ同然。だがその姿は、どんな騎士よりも雄弁だった。隣には、折れた剣を握りしめるエレノア。
「国民よ、見ろ! 貴様らが神の奇跡と崇めてきた魔法は、貴様らの子供たちの寿命を担保にした詐欺だ! 帝国は既に破産している!」
イツキの叫びに応呼する光の文字。次々と暴かれる赤字(デフィシット)。搾取された生命力の総量、隠蔽された死亡者数、ヴァルガスの横領額。
「嘘だ……嘘だぁぁぁ!!」
ざわめきから怒号へ。疑念という名の毒。供給源である民衆が抱く「魔法への不信」。空の魔法陣に入る亀裂。
「やめろ! 思考するな! 信じろ! 私を信じろぉぉぉ!!」
髪を振り乱し、絶叫するヴァルガス。だが、一度崩れた信用(クレジット)は戻らない。ガラスのように砕け散る魔法陣。逆流するエネルギー。
「終わりだ、宰相」
走り出すエレノア。剣ではない。瓦礫の中に落ちていた鉄パイプ。全霊の力による一撃が、ヴァルガスの杖を粉砕する。
「計算終了(チェックメイト)です」
静かな宣告。力の奔流に飲み込まれるヴァルガス。断末魔と共に、消滅。
戻る静寂。昇る朝日。廃墟と化した広場を照らす光。
その場に崩れ落ちるイツキ。懐にあった「帰還のための魔石」は、幻灯機の光源として使い切り、砕け散っていた。
「……帰れなくなったな」
痛ましげに見下ろすエレノア。
「いいえ」
見上げる空。その瞳に宿る、かつてないほど穏やかな光。
「再建(リストラ)には時間がかかりますから。この国を黒字にするまで、逃げるわけにはいきません」
泥だらけの手を差し出す。
「手伝ってくれますか、元騎士団長」
呆れたような笑み。強く握り返される手。
「ああ。計算の合わない男だ、お前は」
崩壊した帝国の瓦礫の上で交わされる、新たな契約(エンゲージメント)。それは魔法にも数字にも代えがたい、確かな体温の交換だった。