第1章: 境界線の断裂音
窓ガラスに映り込んだ自分の顔。死相、そのものだ。
視界の半分を遮る、伸びすぎた前髪。その隙間から覗くのは、澱んだ沼の底のような瞳。ハイライトの一点もない。大きめのブレザーが、猫背の身体をより貧相に縁取っている。相馬カイト。この世界の「背景(モブ)」。それが僕だ。
スマホを滑る親指が止まる。車輪がレールを噛む不協和音が、鼓膜を突き刺すほど鋭角になったから。
『次は、きさらぎ。きさらぎ。……生者の方は、お降りください』
テープが伸びきったような、間延びした女の声。ノイズ混じりの宣告。
車内の空気が凍る。比喩ではない。隣の中年女性の吐く息が、白く濁って消えた。
ガタン。揺れと共に落ちる照明。
非常灯の赤だけが残された密室に、悲鳴が充満する。
「なんだ、事故か!?」
「おい、運転手! 説明しろ!」
怒号の中、窓の外へ視線を投げる。
あるべきトンネルの壁はない。広がるのは、赤黒い空と無機質なコンクリートのプラットホーム。駅名標には、平仮名で『きさらぎ』。文字が血のように垂れている。
プシュー。獣の威嚇めいた排気音と共に、ドアが開く。
「降りるぞ! ここにいたら危険だ!」
声を張り上げたのは、高級なチャコールグレーのスーツを纏った男。権藤。いかにも仕事ができそうなサラリーマンだ。彼は周囲を顎で使い、強引にホームへと押し出していく。
その群衆の中に、クラスメイトの一ノ瀬ミナトの姿もあった。亜麻色のロングヘアは乱れ、流行りのスカートが強風に煽られている。青ざめた顔で周囲を見回す彼女。僕と目が合う。が、すぐに興味なさげに逸らされた視線。
背景(ボク)には用がない、ということか。
ホームに降り立つ。腐ったオゾンと線香を混ぜたような異臭。
改札口に立つのは、古びた制服の駅員。だが、その帽子(キャップ)の下に顔はない。灰色の靄が、顔面の位置で蠢いているだけ。
「キップヲ、ハイケン、イタシマス」
無機質な機械音声。
権藤が大股で近づき、ICカードを改札機に叩きつける。
「ふざけるな! 俺は急いでるんだ! 出せ!」
ビーッ。警告音。
サメの歯のように閉じる改札の扉(フラップ)。
「ツウカ、フカ。ダイカ、フソク」
「あ? なんだと?」
権藤が駅員の胸倉を掴もうとした、その刹那。駅員の腕が鞭のようにしなる。ねじり上げられる手首。
骨が砕ける、乾いた音。
「ぎゃあああああっ!」
石畳に崩れ落ち、脂汗を垂らして転げ回る権藤。
ミナトの悲鳴。口元を覆い、後ずさる他の乗客たち。失禁する者さえいる。
僕は、その光景を一歩引いた場所から眺めていた。
心臓は早鐘を打っている。だが、脳の芯だけは冷たく冴えている不思議。
(……やっぱり、そうか)
この場所には、物理法則とは別の『法則(ルール)』が流れている。
駅員の手元を見る。錆びついた改札鋏。そして、足元に散らばる不可解な残骸。色褪せた写真、子供の靴、古びた手紙。
「キップヲ、ハイケン」
繰り返す駅員。
震える足で、僕は列の前に進み出た。
「ちょっと、あんた何する気!?」背後でミナトが叫ぶ。無視だ。
ポケットから取り出したのは、幼い頃に母から貰った唯一のお守り。色褪せた布切れ。けれど、僕にとっては温かい記憶の象徴。
「……これで、足りますか」
止まる駅員の手。顔の靄が微かに揺れ、僕の手からお守りを掠め取る。
パチン。空を切る改札鋏の音。
「ツウカ、カ」
開くフラップ。
僕は振り返らない。背後で、ルールを理解できないエリートたちが次々と「処理」されていく音。それを聞きながら、改札を抜けた。
第2章: 嘲笑するマネキン
改札の先は、奇妙な地方都市の様相を呈していた。左右反転した看板の文字。空に浮かぶ二つの月。
生存者は数名。手首をさすり悪態をつく権藤、涙で化粧の崩れたパンダ顔のミナト、そして数人のサラリーマン。
彼らは僕をリーダーとは認めない。「陰気な高校生」が運良く助かっただけ。そう思っているのだろう。
「おい、学生。次はどっちだ」
血走った目で睨む権藤。高価なスーツは埃まみれ、整髪料で固めた髪は汗で額に張り付いている。
僕は黙って指差す。
目の前にそびえる巨大なイオンモール。深夜の静寂。白々しく輝く蛍光灯。
『店内では、お静かに。視線を感じたら、謝罪を』
入り口の自動ドア。赤い塗料の殴り書き。
中へ入る。効きすぎた冷房に肌が粟立つ。
広大な吹き抜けのホール。そこに立ち尽くす、数え切れないほどのマネキンたち。
「なんだこれ……気持ち悪っ」
ミナトの呟き。泥で汚れた白いブラウス。ヒールの折れたパンプス。かつてのスクールカースト上位の輝きは、見る影もなく剥落している。
カツ、カツ、カツ。
荒っぽい足音を響かせる権藤。
「食い物を探すぞ。スーパーは下か」
「……待ってください」
小声で制止する。
視界の端。マネキンの首が『カクン』と動いた気配。
「あ? なんだよ」
「……視線、感じませんか?」
「ハッ、お前ビビりすぎなんだよ。人形だろ、ただの」
権藤が大声で笑った瞬間。
店内照明が一斉に赤く変色した。
ジジジ、ジジジ……。スピーカーから流れる不快なノイズ。
そして数百体のマネキンの首が、一斉にこちらを向く。
のっぺらぼうの顔。ギギギという音。凝視される権藤。
「ひッ……!」
後ずさり、ショーケースに背中をぶつける権藤。
最寄りのマネキンが、プラスチックの関節をありえない方向へ曲げ、蜘蛛のように床を這い寄ってくる。
『オキャクサマ、オキャクサマ』
声ではない。脳髄へ直接響く念波。
「くるな! くるなああああ!」
消火器を投げつける権藤。
だが止まらない。さらに数体、また数体。四つん這いの高速移動。
ミナトの悲鳴。僕の袖を掴む手。食い込む爪。
「謝って」
短く告げる。
「え?」
「ルールに書いてあった。謝罪しろって。早く!」
その場で土下座。冷たいタイルに額を擦り付ける。
ミナトも慌てて隣で膝をつく。
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい!」
震える声。
カサカサという音が、僕たちのすぐ横を通り過ぎていく。
顔を上げる。マネキンの群れは僕たちを素通りし、立ったまま暴れる権藤へと殺到していた。
「うわあああ! 離せ! 俺は客だぞ! クソがぁぁぁ!」
引き裂かれるスーツ。肉に食い込むプラスチックの指。
床に飛び散る鮮血。
権藤の股間から広がる濃い染み。あの傲慢な男が、恐怖と痛みで排泄をもらしている。
「た、助け……おい、学生! 助けろ!」
這いつくばり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を向ける権藤。
僕はゆっくりと立ち上がり、彼を見下ろした。
無表情の裏側。腹の底から湧き上がる黒い愉悦。現実世界で、散々僕らを踏みつけにしてきた「強者」の成れの果てがこれだ。
「……ルールを守れない人は、ここでは客じゃないですよ」
ミナトの手を取り、静かにその場を離れる。
背後で響く権藤の絶叫と、骨が砕ける音。最高のBGMだ。
第3章: 奈落の底の悪意
「立ち入り禁止区域(ブラック・ゾーン)」。
フロアマップの黒く塗りつぶされたエリア。僕たちは、そこへ追い詰められていた。
権藤は生きていた。片腕を失い、全身包帯だらけのミイラのような姿。その執念深さだけで追ってきたのだ。
彼に従う数人の男たちが、僕を取り囲む。
「テメェ……よくも見捨てやがったな」
怨嗟に満ちた声。
僕の背中に隠れ、小刻みに震えるミナト。髪はボサボサ、裸足の足は傷だらけ。
「こいつを囮にすれば、俺たちは助かる。そうだろ?」
権藤の提案に頷く男たち。極限状態の人間は、容易に悪魔へ魂を売る。
僕は抵抗しなかった。いや、できなかった。暴力という単純な力学の前で、観察眼など無力だ。
「悪く思うなよ、陰キャ」
背中への衝撃。
浮遊感。
手摺のない吹き抜けから、奈落の底へと落下していく。
「カイト!」遠ざかるミナトの叫び。
耳をつんざく風切り音。回転する視界。迫る暗闇。
死ぬ。
そう確信した瞬間、柔らかく、粘着質な「何か」の上に叩きつけられた。
「ぐっ……うぅ……」
激痛に顔を歪め、身を起こす。
ゴミ捨て場だった。
だが、ただのゴミではない。
千切れたぬいぐるみ、破られたラブレター、SNSの誹謗中傷がプリントされた紙屑、錆びたカミソリ。
ここは、現実世界で人々が切り捨てた「悪意」と「負の感情」の堆積所。
肺が焼けるような腐臭。
ルールも秩序もない、混沌の最下層。
ここで怪異に食われるのを待つだけか。
「……はは」
漏れたのは、乾いた笑いだった。
不思議と恐怖はない。
この息苦しさ、ドロドロとした淀み。
これって、僕が毎日教室で感じていた空気そのものじゃないか。
人の顔色を伺い、空気を読み、自分を殺して生きてきた毎日。
この世界は、僕の日常の延長線上にすぎない。
「なんだ……僕はずっと、この地獄に適応してたんだ」
地面に落ちていた手鏡を拾う。
そこに映る僕は、もう死んだ魚の目をしていない。
前髪をかき上げる。
露わになった瞳。暗闇の中で、飢えた獣のようにギラギラと光っていた。
現実世界での僕は、空気を読むだけの「弱者」だった。
だが、ここでは違う。
「悪意」の構造を誰よりも理解している僕こそが、この生態系の頂点だ。
「上等だ……」
立ち上がる。
足元のゴミ山(悪意)が、僕の意志に呼応するように蠢き始めた。
第4章: バグ利用(グリッチ・ハッキング)
上層階、権藤たちの末路。
『車掌』が現れたのだ。
改札の時よりも巨大化し、天井に届くほどの黒い靄の塊となっている。
「キップガ、アリマセン。ショブン、ショブン」
「くそっ、なんでだ! あのガキを生贄にしただろ!」
権藤の叫びも虚しく、振り上げられる巨大な錆びたハサミ。
その時だ。
ズズズズズ……。
地鳴りと共に、突き破られる床。
黒い触手のようなゴミの集合体が噴出し、車掌のハサミを受け止めた。
「な、なんだ!?」
舞い上がる粉塵。ゆっくりと姿を現す僕。
服はボロボロだが、背筋は槍のように真っ直ぐ伸びている。
背後には、無数の「悪意」が従順な猟犬のように控えていた。
「バグ報告です、車掌さん」
ニヤリと笑う。
「貴方のプログラムには欠陥がある。『立ち入り禁止区域』のゴミは、所有者が放棄した時点で『所有権』が消滅している。つまり、誰のものでもないフリー素材だ。それを身に纏った僕は、貴方にとって認識できない『エラー』になる」
「ニンシキ……フノウ……エラ……」
動きを止め、激しいノイズを発する車掌。
「カイト……?」
呆然と僕を見つめるミナト。
「さて、権藤さん」
向き直る。
腰を抜かし、ガタガタと歯を鳴らす権藤。かつての威圧感は欠片もない。ただの肉塊だ。
「た、助けてくれ……俺が悪かった……金ならやる! 就職も世話してやる!」
「いらないよ、そんな紙切れ」
指を鳴らす。
背後の黒い靄が、権藤たちを取り囲んだ。
「ルールその1。改札を通るには『大切な記憶』が必要でしたよね?」
「だ、だから何だ!」
「貴方は他人を踏み台にして、自分だけが得をしようとした。貴方にとって最も大切なのは『自分自身』だ」
冷酷な宣告。
「だから、貴方自身を差し出せば、きっと通れますよ。……あっちの世界(あのよ)へ」
「やめろぉぉぉぉぉ!! 嫌だぁぁぁ! 死にたくねぇぇぇ!!」
絶叫がホールに木霊する。
再起動した車掌。ターゲットを「エラー(僕)」から「明確な違反者(権藤)」へと変更。
無慈悲に振り下ろされるハサミ。
グシャッ。
視界を染める鮮烈な赤。
眉一つ動かさず、その光景を見届ける。
ざまぁみろ。
今まで飲み込んできた言葉の代わり、舞い散る血飛沫。なんて美しい景色なんだろう。
第5章: 灰色の朝、極彩色の瞳
崩壊が始まった。
空間に入ったヒビ。ガラスが割れるように剥がれ落ちていく景色。
駅のホームに戻ってきた僕たちの前、現実世界へと続くゲートが開いていた。
眩しい朝焼けの光。
だが、駅のアナウンスが最後のルールを告げる。
『ご乗車になれるのは、一名様のみです。一名様のみです』
絶望的な顔で僕を見るミナト。
彼女はもう、何も言わなかった。ただ、覚悟を決めたように唇を噛み締め、僕の背中を押した。
「……あんたが行きなよ。私なんて、何もできなかったし」
意外だった。あの承認欲求の塊だった彼女が、最後に他者を優先するなんて。
「馬鹿だな、ミナト」
僕は彼女の手首を掴んだ。
「え?」
「一名しか通れないなら、改札(ゲート)の方を壊せばいい」
奈落から持ち帰った「悪意の塊」を、ゲートの制御盤に叩き込む。
バチバチバチッ!
散る火花。歪む空間。
「警告! 警告! システム、崩壊!」
「走れッ!!」
ミナトの手を引き、崩れ落ちるホームを疾走する。
背後で世界が飲み込まれていく。
瓦礫の雨。光の渦へのダイブ。
「うおおおおおおおおッ!!」
喉が張り裂けるほどの咆哮。
死んでたまるか。
元の世界に戻って、もっとマシな生き方をしてやるんだ。
ホワイトアウト。
***
「……おい、起きろ。終点だぞ」
駅員に肩を叩かれ、目を覚ます。
見慣れた、退屈な地方都市の駅。
窓の外には、当たり前の朝の風景。
隣にはミナトが座っていた。彼女はハッとして顔を上げ、僕を見て、そして泣きそうな顔で笑った。
改札を出る。
街の喧騒。クラクション。話し声。
すべてが以前と同じ、灰色の世界。
だが。
駅前のショーウィンドウに映った僕は、もう猫背じゃなかった。
前髪をかき上げ、露わになった瞳で世界を見据える。
雑踏の中、一瞬、あの『車掌』の影が見えた気がした。
路地裏の暗闇から、こちらを覗いている。
僕は立ち止まり、その闇に向かって、ニヤリとウィンクを投げかけた。
もう怖くない。
このクソみたいな現実こそが、僕たちの攻略すべき「次のステージ」なのだから。
胸を張り、ミナトと共に朝日の中へと歩き出した。