ゴースト・ボイス 〜モブ教師と秘密の歌〜
第一章 108ヘルツの隠れ蓑
七月の湿気が、皮膚にまとわりついて離れない。職員室の喧騒は、悠にとって不協和音の濁流だった。
「香月先生、来週の資料、まだですか?」
学年主任の言葉は、表向きは丁寧だが、その声には鼓膜をやすりで削るような高周波が含まれていた。言葉の裏に張り付いた『使えない』『邪魔だ』という棘が、悠の神経を逆撫でする。
「あ、すみ、ません……すぐ、やります……」
喉が癒着したように開かない。視線を床のワックスの染みに落とし、嵐が過ぎ去るのを待つ。同僚たちの囁き声が、耳鳴りとなって頭蓋骨を圧迫した。ここに僕の居場所はない。音のない世界へ逃げたい。
帰宅後、悠は遮光カーテンを閉め切り、六畳間のデスクに向かう。そこだけが、唯一の聖域だった。
祖父の遺品である真空管アンプを改造した、無骨な変声機。電源を入れると、フィラメントが橙色に灯り、焦げた埃の匂いが鼻腔をくすぐる。
マイクを握る。ヘッドフォンを装着する。世界からノイズが消える。
「こんばんは、迷える子羊たち。コダマです」
唇から漏れた掠れ声は、回路を通り、ビロードのように深く、あらゆる心の澱を溶かすバリトンへと昇華された。画面の向こうで、数万人のリスナーがその声に酔いしれる。現実の無力な教師は消え去り、そこには全知全能の預言者がいた。
だが、代償は即座に訪れる。マイクを握る右手の指先から、感覚がごっそりと抜け落ちたのだ。冷たさすら感じない、完全な無。ふと鏡を見ると、そこに映る自分の輪郭が、湯気に溶けるように揺らいでいた。声を紡げば紡ぐほど、現実の香月悠は質量を失い、透明になっていく。
第二章 幽霊からのノイズ
『今日も声が素敵です』
『辛いことがあったけど、救われました』
コメント欄を流れる賞賛の言葉たちは、甘美な和音となって悠の脳を満たす。彼はリスナーの吐露する孤独の周波数に同調し、完璧な倍音を含む言葉で、彼らの傷を縫合していった。
その調和を、鋭利なノイズが切り裂いた。
『先生。その美しい声で、また誤魔化すんですか?』
ハンドルネーム「ゴーストウォッチャー」。
心臓が肋骨を叩く。「先生」。その二文字が、隠蔽したはずの腐臭を漂わせる。
『自分のためですか? それとも、三年前の雨の日、屋上で背を向けたあの子への贖罪ですか?』
視界が明滅する。真空管の光が警告色に見えた。
蘇る記憶。激しい雨音。錆びたフェンスがきしむ音。そして、振り返った生徒の、あの虚ろな瞳。「先生には、聞こえないふりが得意なんですね」。そう呟いた少年の声は、雨にかき消されそうなほど小さかったのに、今も鼓膜に焼き付いて離れない。彼が飛び降りる直前の、靴底がコンクリートを擦る乾いた音。
吐き気が込み上げる。右腕全体の感覚がない。マイクが床に落ちる音が響いた。
「違う……僕は……」
変声機を通しても、その動揺は隠せない。ゴーストウォッチャーは、悠の精神を解剖するように言葉を重ねる。
『機械仕掛けの優しさで、誰が救えるんだ。偽物の声で、自分を許せるのか』
第三章 境界線の崩壊
呼吸が浅くなる。部屋の酸素がすべてモニターの向こうへ吸い出されているようだ。自分の身体が消えてなくなる恐怖と、過去の罪悪感がせめぎ合う。
右腕は動かない。左手で胸を掻きむしる。
『答えろよ、先生』
『本当の声を聞かせてくれよ!』
ゴーストウォッチャーの文字が、赤く腫れ上がって見えた。
違う。僕は偽物じゃない。救いたいんだ。誰かを、あの日の彼を、そして自分を。
でも、この機械がある限り、僕は永遠に「コダマ」という虚構だ。
悠は震える左手を伸ばした。真空管が放つ熱が、指先を焦がす。
「……聞きたいなら、聞かせてやるよ」
衝動のままに、彼はエフェクトのスイッチを叩き切った。
ブツン。
電気的な残響が消え、完全な静寂が訪れる。
ヘッドフォンから聞こえるのは、みっともなく鼻をすする音と、過呼吸気味の喘鳴だけ。
数万人が見つめる闇の中で、悠は裸にされた。
『……やっと聞こえた』
ゴーストウォッチャーの文字だけが、ゆっくりと流れた。
『それが、あなたの本当の音だ』
悠は顔を覆った。涙で濡れた掌の感触が、生々しい熱を持って戻ってくる。
「怖かったんだ……」
情けない、ひび割れた地声。
「彼の声を聞くのが怖かった。無力な自分がバレるのが怖かった。だから機械に逃げた。でも……」
悠は涙で滲む画面を睨みつけた。
「本当は、君たちと話したかった。フィルターなんて通さずに、痛みも、苦しみも、そのままで」
コメントが止まる。罵詈雑言を覚悟した。しかし、画面に滲み出したのは、温かな波形だった。
『その声、震えてるけど、あったかいよ』
第四章 ハイブリッド・ティーチャー
翌日のホームルーム。
教室は動物園のような騒ぎだった。スマホゲームの電子音、下品な笑い声、机を蹴る音。悠が教壇に立っても、誰も顔を上げない。
「チッ、また来たよボソボソ野郎」
最前列の生徒が、聞こえよがしに舌打ちをする。嘲笑のさざ波。かつての悠なら、ここで胃を縮こませて逃げ出していただろう。
悠は鞄から、昨晩コードを引きちぎったマイクを取り出し、教卓に置いた。それはもう、ただの鉄屑だ。
大きく息を吸う。肺いっぱいに、教室の埃っぽい空気を取り込む。
「……みんな」
蚊の鳴くような声。案の定、後ろの席の女子がクスクスと笑った。
それでも、悠は引かなかった。教卓を両手で強く握りしめる。木の硬さと冷たさが、彼を現実に繋ぎ止める。
「聞いてくれ。今日は、授業の前に……僕の、本当の話をする」
震えを抑え、腹の底から声を絞り出す。
カリスマ配信者の流暢な語り口ではない。言葉はつかえ、文脈は乱れ、時折裏返る。
だが、その無様な生声に乗せたのは、一人の人間が抱え続けてきた血の滲むような後悔と、それでも誰かと繋がりたいという渇望だった。
三年前の雨の日のこと。自分の弱さのこと。そして、今目の前にいる生徒たちの声を、もう二度と聞き逃したくないということ。
「先生、マジかよ……」
スマホをいじっていた指が止まる。
窓際で寝ていた生徒が顔を上げる。
嘲笑のノイズが、潮が引くように消えていく。代わりに満ちてきたのは、張り詰めた、しかし透明な沈黙だった。
教室の空気が、色を変えていく。濁った灰色から、澄み渡る青へ。
最前列で舌打ちをしていた男子生徒――ゴーストウォッチャーの正体であろう、あの日死んだ生徒の弟――が、悠の目を真っ直ぐに見据えていた。その瞳に浮かぶ光は、侮蔑ではなく、探るような、あるいは期待するような熱を帯びていた。
悠は、教卓のマイクをそっと撫でた。もう、魔法はいらない。
彼の震える声は、空気の粒子を震わせ、生徒たちの鼓膜へ、そしてその奥にある柔らかい場所へと、静かに沁み渡っていった。